第17話 森そのものが苦い
翌日の昼前,ガルドは三つの革袋を持って宿へ戻ってきた。
「頼まれてた水だ」
「ありがとうございます」
理人は厨房の端に用意していた木の器を三つ並べる。
革袋は見たところ同じものだったが,口を縛る紐に小さな違いがあった。一つ目には結び目が一つ,二つ目には二つ,三つ目には三つある。
「番号代わりですか?」
「お前,まだ字が読めんだろ」
「助かります」
「一つは森の外。二つは浅いところの沢。三つは昨日より少し奥だ。危ない場所には入ってない」
最後の一言は,理人が聞く前に付け加えられた。
「それならいいです」
「言うと思った」
ガルドが苦笑する。
横では,ぽんたが食堂から持ってきた椅子の上に座り,興味深そうに革袋を覗き込んでいた。
「水見て何が楽しいんだ?」
「楽しいわけじゃない」
「昨日ずっと見てたぞ」
「分からないものがあると気になるんだよ」
「それを楽しいって言うんじゃねえの?」
否定しかけて,理人はやめた。
少なくとも数学の問題なら,似たような感覚はある。
分からないものを整理して,条件を一つずつ確かめる。その結果として答えが見つかるのは,確かに嫌いではない。
「ぽんた,邪魔するなら向こう行って」
「邪魔してねえ!」
「尻尾が器に入る」
慌ててぽんたが尻尾を抱え込む。
その様子を見ていたマルタが,厨房の奥からため息をついた。
「水遊びするなら,料理に使う器まで全部占領するんじゃないよ」
「終わったら洗います」
「当たり前だよ」
理人は三つの木器へ,順番に水を注いだ。
どれも透明で,見た目に違いはない。
匂いも普通の水だった。
まず,一番外側のものへ指を入れる。
冷たい。
それ以外は何もない。
少し待ってみても,舌の奥に妙な感覚は出なかった。
「一つ目は普通です」
「次」
ガルドが促す。
二つ目。
指先を浸し,意識を向ける。
「……ある」
「昨日と同じ?」
「似てます。でも,かなり薄いです」
火爪熊を前にしたときのような強い苦味ではない。昨日,森の沢水から感じたものよりさらに弱く,注意していなければ気づかない程度だった。
三つ目へ触れる。
今度は,分かりやすかった。
舌の奥に薄い苦味が残る。
「三つ目が一番強いです」
「奥ほどか?」
「今の三つだけなら」
理人はすぐに付け加えた。
「まだ三か所だけです。水の流れもありますし,この水自体が森の奥から来てるなら,採った場所だけ比べても意味がないかもしれません」
「面倒くせえな」
ぽんたが言う。
「そうなんだよ」
「否定しないのかよ」
「こういうのは大体面倒だから」
三か所の結果だけで「奥ほど魔力が強い」と決めるのは早い。
沢の水はその場で生まれるわけではない。もっと奥から流れてきているのなら,二つ目と三つ目の違いが単純な距離によるものとは限らない。
「水以外もあるぞ」
ガルドが腰の袋から小さな布包みを取り出した。
中には葉と土が入っていた。
「同じ場所?」
「ああ。二と三だけだがな」
「助かります」
理人が葉へ触れる。
浅い場所の葉からは,ほとんど何も感じない。
少し奥のものへ触れると,ほんのわずかに苦いような気がした。
「水より分かりにくいですね」
次に土。
こちらも似たようなものだった。
ただ,何度か触れ比べるうちに,三つ目の場所から採ったものの方が,わずかに違和感が強いように思える。
「気のせいじゃない?」
ミレナが聞いた。
いつの間にかガルドの後ろから覗き込んでいる。
「その可能性もあります」
「そう言われると,何も分からないね」
「だから比較するんです」
「やっぱり教師だ」
「それ,最近よく言われますけど,褒めてます?」
「半分くらい」
半分なのか。
理人は三つの器を見直した。
少なくとも,完全に同じではない。
森の外で採った水からは,何も感じなかった。
森の中の水には感じる。
そして,少し奥の方が強い。
水だけなら何かが溶け込んでいる可能性もあるが,葉や土にも似た違和感があるとなれば,少し話が変わる。
「魔獣の近くにあったから,って可能性は?」
ミレナが聞く。
「あります」
「じゃあ,やっぱり強い魔獣がいるだけかも?」
「それもまだあります」
理人は頷く。
「ただ,別々のものに同じような感じがあるのが気になります」
魔獣が水を飲んだ。
魔獣が葉に触れた。
魔獣が土の上を歩いた。
それだけでも説明はできる。
しかし,何種類もの生き物が同じ方向へ移動していることまで合わせると,偶然で片づけるには少し気になる。
「現地で確認した方がいいな」
ガルドが言った。
理人は顔を上げた。
「俺も行っていいんですか?」
「浅いところまでだ」
「火爪熊は?」
「今朝は近くに痕跡なし。見張りも増えてる。それでも,異変があったら即戻る」
「なら行きます」
即答すると,ぽんたが椅子から飛び降りた。
「俺も」
「ぽんたは留守番」
「何で!」
「森が危ないから」
「俺の家,森だったんだけど!」
「だから戻れなくなって宿にいるんだろ」
ぽんたが口を開き,閉じる。
「……でも俺の方が森知ってる」
「それはそうだけど」
理人はガルドを見る。
判断するのは自分ではない。
ガルドは少し考え,ぽんたを見る。
「今日は人間だけで行く。森がまた荒れたとき,お前まで連れて走るより身軽な方がいい」
「俺,一人で走れるぞ」
「知ってる。だからこそ,勝手に動かれると困る」
「勝手に動かねえ!」
理人とガルドが同時にぽんたを見る。
「……たぶん」
ぽんたが小さく付け加えた。
「留守番だな」
「くそ」
本人も少しは自覚があるらしい。
◇
森へ入るのは,ぽんたを連れてきて以来だった。
同じ場所のはずなのに,理人には少し違って見えた。
木々そのものは変わっていない。
葉の色も,土の匂いも,差し込む光も同じだ。
それでも,音が少ない。
「まだ静かですね」
「ああ」
先を歩くガルドが答える。
「昨日よりは鳥が戻ってる。ただ,普段ほどじゃない」
ミレナも周囲を見回しながら歩いている。
三人だけではない。
少し離れた別の道には,別の猟師たちが入っているらしい。森の浅い区域を分担して確認しているという。
理人が同行しているのも,あくまでそこまでだった。
異常を調べるために奥へ進むのではない。
安全が確認されている範囲で,《魔味覚》らしき感覚がどう変わるかを見る,それだけだ。
ちなみに,この変な能力は「魔力によると思われる味覚」ということで,便宜上「魔味覚」と呼ぶことにした。
「ここが一つ目」
ガルドが立ち止まる。
森の入口からそれほど離れていない小さな流れだった。
昨日持ち帰った水の一つ目とは場所が少し違うが,森の外縁に近い。
理人はしゃがみ,水へ指を浸す。
何もない。
近くの葉へ触れる。
こちらも同じだ。
「ここは普通です」
「じゃあ次だ」
さらに進む。
道と呼べるほど整ってはいないが,ガルドはほとんど迷わない。
理人はその背中を追いながら,周囲を観察した。
ときどき,小さな足跡がある。
多くは町側,つまり森の外へ向いているらしい。
「これも逃げた跡ですか?」
「たぶんな。昨日から新しいのが増えてる」
ガルドが膝をつき,泥に残った跡を指でなぞる。
「森鹿。こっちは角兎だ」
「一緒の方向ですね」
「ああ」
その近くには,小型の肉食魔獣が残したという細い爪痕もあった。
食う側も,食われる側も,同じ方へ出ている。
やはり妙だった。
二つ目の沢へ着く。
理人は水へ触れる。
すぐには何もない。
少し待つ。
「……あります」
「昨日の水と同じ?」
「たぶん」
「またそれ?」
ミレナが笑う。
「自信のないことを断定したくないんです」
「教師の答えとしては厳しくない?」
「試験なら減点されます」
「されるんだ」
軽口を交わしながら,理人は近くの葉と木の幹にも触れてみる。
葉も幹,そして土も,薄いが感じる。
「水だけじゃないですね」
理人は手の泥を払う。
「ここにあるもの全体に,少しずつ同じ感じがあります」
「全体?」
「少なくとも,水と土と葉には」
「空気は?」
ミレナに言われ,理人は少し考えた。
今まで意識していなかった。
何も触らず,口の中の感覚だけに集中する。
最初は分からない。
けれど,しばらくすると,舌の奥に薄い苦味があるような気がした。
「……ある,かも」
「弱い?」
「かなり」
それが本当に空気中の魔力なのか,周囲の木々や水から感じているものなのかは分からない。
ただ,森の外では感じなかった。
「森そのものが苦いってこと?」
ミレナの言い方に,理人は少しだけ眉を寄せた。
「そう言い切るのはまだ早いですけど」
「でも,大体そんな感じ?」
「……大体は」
「面倒だな,教師」
「ぽんたと同じこと言わないでください」
ガルドが小さく笑った。
その後,三人は昨日の三つ目に近い場所まで進んだ。
ここから先は,現在確認している安全範囲の端だという。
「ここまでだ」
ガルドが言う。
「これより先は行かない」
「分かってます」
理人は沢へ近づく。
まだ水に触れていない。
それなのに。
「……苦い」
足が止まった。
昨日の革袋より分かりやすい。
火爪熊ほどではない。
それでも,舌の奥へじわりと残る。
「何かいる?」
ミレナが剣の柄へ手を置いた。
「分かりません」
「魔獣?」
「それも分からないです」
理人は周囲を見る。
木。草。水。
何かが動いている様子はない。
ガルドも耳を澄ませ,しばらく森を見回した。
「近くに大物がいる感じはしない」
「じゃあ,これ……」
理人は沢へ触れる。
はっきり苦い。
土へ触れても,同じ。
木の幹でも,弱いながら感じる。
特定の魔獣からではない。
少なくとも,そう考えた方が自然に思えた。
「奥へ行くほど強くなってます」
理人が言う。
ガルドの表情が険しくなる。
「つまり,奥に何かある?」
「可能性は高いと思います。でも――」
理人は言葉を止めた。
「どうした?」
「ちょっと待ってください」
沢の少し横。
斜面へ沿って細い獣道のようなものが伸びている。
奥へ向かう道なので,本来ならそちらの方が苦味は強くなるはずだ。
そう思いながら一歩だけ横へ移動した。
薄くなる。
「……あれ?」
「何?」
ミレナが近づこうとする。
「そこにいてください」
理人は元の場所へ戻る。
苦い。
もう一度,横へ。
薄い。
さらに半歩。
もっと薄い。
「何してる?」
「確認です」
斜面の先へ行くつもりはない。
理人は安全な位置のまま,左右へ少しずつ動いた。
間違いない。
奥へ近づく方向なのに,ある一方向だけ苦味が弱くなっている。
「奥ほど強いんじゃなかったの?」
ミレナが聞く。
「そのつもりだったんですけど」
「違う?」
「少なくとも,均一じゃないです」
理人は細い獣道を見る。
そこだけ,森の雰囲気が違うようには見えない。
木も草も普通だ。
ただ。
「こっちだけ薄い」
ガルドもその方向を見る。
「何かあるのか?」
「分かりません」
理人は即答した。
そして,そのまま一歩下がる。
「今日はここまでにしましょう」
ミレナが少し意外そうに目を瞬いた。
「気にならないの?」
「気になります」
「行きたい?」
「行きたいです」
「じゃあ――」
「でも,安全確認してないですよね」
理人が言うと,ミレナは口を閉じた。
ガルドが笑う。
「それでいい」
「次に人を増やすか,周辺を確認してからです」
「教師ってこういうところだけ真面目だよね」
「こういうところ以外も真面目です」
「そうかな」
「そうです」
理人はもう一度,細い道を見る。
奥へ行くほど苦味が強くなる。
そこまでは予想通りだった。
しかし,一方向だけ弱い。
魔力の異常が森全体に一様に広がっているのなら,こんな差は出るのだろうか。
それとも。
何かが,そこで流れを変えているのか。
「戻りましょう」
理人は森へ背を向けた。
分からないなら,まだ進まない。
それでいい。
けれど,次に調べる場所だけは決まった。
森の奥へ続く道の中で。
そこだけが,不自然なほど苦くなかった。




