第18話 苦くない場所
翌朝,理人が食堂へ下りると,ぽんたはすでに朝食を終えかけていた。
マルタからもらった煮込みの肉だけを先に拾い,残った野菜を後回しにしている。
「野菜も食えよ」
「食う。あとで」
「子どもみたいなこと言うな」
「俺,狸だぞ」
「そうだったな」
理人が向かいの椅子を引くと,ぽんたは皿から顔を上げた。ここ数日ですっかり宿の朝にも慣れたらしく,客の声や食器の音を以前ほど気にしなくなっている。
「今日,森行く?」
「何で分かった?」
「昨日帰ってきてから,ずっと考えてただろ」
「そんな顔してた?」
「してた」
ぽんたは断言すると,最後に残していた角猪の肉を口へ放り込んだ。
確かに,昨日見つけた場所のことは気になっていた。
森の奥へ進むほど,水や土,植物から感じる苦味は強くなっていた。それなのに,一方向だけ急に薄くなる場所がある。
偶然かもしれない。
地形の影響かもしれない。
そもそも,自分の感覚が正しいという保証もない。
だからこそ,もう一度確かめる必要があった。
「ただし,今日は先にガルドさんたちが見てからだよ」
「俺も行く」
「それもガルドさん次第」
「リヒトより俺の方が森知ってるぞ」
「それはもう何回も聞いた」
ぽんたの耳が不満そうに横へ開く。
理人自身,連れていきたくないわけではない。むしろ,森で長く暮らしてきたぽんたにしか分からないことがあるかもしれないとは思っていた。
ただ,それと安全は別だった。
「昨日見つけたところ,今までより奥なんだろ?」
「少しだけな」
「じゃあ俺いた方がいいじゃん」
「安全が確認されたらな」
「またそれかよ」
「またそれだよ」
ぽんたが何か言い返そうとしたところで,宿の扉が開いた。
入ってきたのはガルドだった。
理人は思わず入口を見る。その後ろにミレナの姿はない。
「おはようございます」
「ああ。ちょうどいい」
ガルドは食堂を見回してから,理人の向かいへ腰を下ろした。
「昨日の場所,朝のうちに見てきた」
理人は食べかけのパンを置いた。
「一人で?」
「もう一人猟師を連れてった。ミレナは別の組だ」
「危なくなかったですか」
「だから先に俺たちだけで行ったんだろ」
「それはそうですけど」
ガルドがわずかに笑う。
ぽんたはすでに食事のことを忘れたらしく,前脚をテーブルの縁へかけていた。
「何かいた?」
「それがな」
ガルドの表情から笑みが消える。
「いなさすぎる」
理人は少し眉を寄せた。
「昨日も生き物は少なかったですよね」
「あの辺りの話じゃない。昨日お前が苦くないって言った方だ」
ガルドはテーブルの上へ指で線を引き,昨日歩いた道を簡単に示した。
森の入口から沢へ向かい,さらに奥側へ進む。その途中から横へ外れるように,細い獣道が伸びていた。
「ここまでは足跡がある。森鹿も角兎も,小さい肉食魔獣もな。だが,こっちへ入ると急に減る」
「減る?」
「ほとんどない」
理人は昨日の感覚を思い出した。
ちょうど,苦味が薄くなり始めた辺りだ。
「避けてるってことですか」
「分からん。だが,たまたま何も通らなかったにしては妙だ」
ガルドはそう言って,ぽんたへ視線を向けた。
「お前,昨日から行きたがってたな」
「行く」
「まだ何も言ってない」
「行く」
「話を聞け」
ぽんたの尻尾が勢いよく床を叩く。
ガルドはため息をついたものの,本気で拒む様子はなかった。
「今日は入り口から昨日の場所まで,周辺を見ながら行く。奥へは入らん。危なくなったら即戻る。それを守れるか?」
「守れる」
「勝手に走るな」
「守れる」
「知らない匂いがしても追うな」
ぽんたが一瞬だけ黙った。
「……守れる」
「今の間は何だよ」
理人が言うと,ぽんたは顔をそらした。
ガルドはしばらく狸を見ていたが,最後には頷いた。
「なら来い。森で暮らしてたやつの鼻も役には立つだろう」
「ほらな!」
「まだ役に立つとは決まってないぞ」
「ガルド,リヒトみたいなこと言うなよ」
「何で俺が悪いみたいになってるんだ」
マルタが厨房から笑う声が聞こえた。
少なくとも今のところ,森の異変は町へ直接迫ってはいない。
けれど,だからといって終わったわけではない。
理人は残りのパンを口へ運びながら,昨日の細い道を頭の中で思い返した。
◇
森へ入ってしばらくは,昨日と大きな違いはなかった。
鳥の声は少しずつ戻っているものの,以前の森を知らない理人にも静かだと感じられる。
ガルドが先頭を歩き,その少し後ろをぽんたが進む。理人は最後尾ではなく二人の間に入り,周囲を見ながら昨日と同じ道をたどった。
「ぽんた,普段この辺まで来てたのか?」
「たまに」
「一人で?」
「森で誰と来るんだよ」
「それもそうか」
ぽんたは足元の匂いを嗅ぎながら歩いている。昨日までの森歩きとは違い,今日は明らかに仕事をしているつもりらしい。
「ここ,森鹿」
「分かるのか?」
「匂いする」
ぽんたが道の端へ鼻を近づける。
そこには理人にも見える小さな蹄の跡が残っていた。
「古い?」
「昨日か,その前くらい」
「そこまで分かる?」
「たぶん」
思わず理人はぽんたを見る。
「何だよ」
「ぽんたも『たぶん』って言うんだな」
「うるせえ」
少し前を歩くガルドの肩が揺れた。
どうやら笑っている。
二つ目の沢を過ぎる頃,理人の舌の奥には昨日と同じ薄い苦味が残り始めた。
特定の魔獣を感じたときとは違う。
どこから来ているのか分からず,ただ周囲全体へ薄く広がっているような感覚だった。
「ここからあります」
「昨日と同じか?」
「だいたい」
ガルドは頷いたものの,足を止めない。
今日はそこを確認するために来ている。
さらに奥へ進むにつれ,苦味は少しずつ濃くなっていった。
理人が特に意識しなくても分かるくらいになったところで,ガルドが手を上げる。
「昨日の場所だ」
細い獣道が横へ伸びている。
理人はそのまま立ち止まり,まず正面を向いた。
苦い。
次に,細道の方へ身体を向ける。
一歩。
昨日と同じように,舌の奥へ残る感覚が少し薄くなった。
「やっぱりです」
「こっちだけ?」
「はい」
ガルドはすぐには進まず,足元を調べ始めた。
ぽんたも同じように鼻を地面へ近づける。
理人には普通の土にしか見えない。
「ここまではいろいろいる」
ぽんたが言った。
「森鹿,角兎……あと,小さいトカゲみたいなやつ」
「そこから先は?」
「待って」
ぽんたが数歩進む。
すぐに止まった。
鼻先を左右へ動かし,今度は道の脇の草を嗅ぐ。
「……少ない」
「ガルドさんの言った通り?」
「たぶん。でも,変だな」
ぽんたの耳が落ち着かないように動いている。
「何が?」
「匂い,なくなる」
「なくなる?」
「全部じゃねえよ」
ぽんたは少し苛立ったように鼻を鳴らした。
「うまく言えない。ここまでは,いろんなやつが歩いた匂いする。でも向こうは,古いのしかない」
ガルドもその言葉に反応し,細道へ視線を向けた。
「俺が朝見たのもそれだ。新しい跡がほとんどない」
「何かを避けてるんでしょうか」
「可能性はある」
理人は周囲を見回す。
見た目には何も変わらない。
木の密度も同じで,毒々しい植物が生えているわけでもない。地面が崩れている様子もなく,強い魔獣が縄張りを示した痕跡も見つからなかった。
むしろ,普通すぎる。
それが逆に気になった。
「行くぞ。ただし,少しだけだ」
ガルドが弓へ手をかける。
「はい」
「分かってる」
理人とぽんたがほぼ同時に返した。
三人は細い道へ入った。
◇
十歩ほど進んだところで,理人ははっきり違いを感じた。
「薄い」
「昨日より?」
「昨日より奥まで来てるのに,昨日の沢より薄いです」
苦味が消えたわけではない。
森の外と同じほど何も感じないわけでもない。
ただ,周囲から押しつけられていた薄い苦味が,ここへ入った途端に遠ざかったように思える。
ガルドが木の幹へ触れ,次に地面を見た。
「見た目は普通だな」
「水は?」
ぽんたが聞く。
「沢があれば調べられるんだけど」
「この先に小さい水場ある」
ぽんたが言う。
ガルドがすぐに振り返った。
「知ってるのか?」
「前に来たことある。もっと奥だけど」
「どれくらい」
「ちょっと」
「お前のちょっとは信用ならん」
「なんでだよ!」
理人も同意しかけたが,ぽんたがこちらを睨んだので黙っておいた。
ガルドはしばらく考えたあと,周囲を確認する。
「見える範囲までだ。それ以上は行かん」
三人はさらに少し進んだ。
理人は途中で葉や木の幹へ触れてみたが,やはり昨日より苦味が弱い。
奇妙なのは,周囲へ進むほどその傾向がはっきりしていることだった。
「魔力そのものが少ない場所なんでしょうか」
「森でそんな場所があるのか?」
「俺に聞かれても」
「教師なのに」
「異世界の魔力は授業でやらない」
ぽんたが鼻で笑う。
しかし,その直後に急に立ち止まった。
理人も足を止める。
「どうした?」
「静か」
ガルドが耳を澄ます。
理人も意識して周囲の音を拾った。
風で葉が擦れる音はある。
遠くで鳥も鳴いている。
まったくの無音ではない。
「さっきまでと同じじゃない?」
「違う」
ぽんたが低い声で言った。
「近くに何もいない」
理人は周囲を見る。
「さっきから生き物少なかっただろ」
「少ないのと,いないのは違う」
ぽんたの尻尾が下がっている。
怖がっているというより,集中しているようだった。
「虫も?」
「いる。でも,大きいのがいない」
ガルドがしゃがみ込み,地面を調べる。
少しして,低く唸った。
「確かに新しい足跡がない」
理人も近づく。
自分では地面に何が残っているのか判別できない。それでも,ガルドが見ている場所に落ち葉がほとんど乱れていないことくらいは分かった。
「強い魔獣の縄張りなら?」
「それなら何か残る」
「爪痕とか?」
「それもある。糞,毛,食った跡,臭い。縄張りを持つやつなら,自分がいるって痕跡がもっとある」
ガルドは立ち上がり,森の先を見る。
「ここは,何もなさすぎる」
理人の舌には,苦味がほとんど残っていない。
森の外よりは少し感じる。
けれど,周囲との違いは明らかだった。
魔獣が避けている。
魔力の異常も弱い。
もし二つが同じ原因なら。
「何かが,この辺だけ影響を弱めてる?」
理人が口にすると,ガルドはすぐに首を横へ振った。
「まだ決めるな」
「はい」
自分でも言った直後に早いと思った。
原因が一つとは限らない。
魔獣がいないことと,苦味が薄いことが偶然同じ場所で起きているだけかもしれない。
「でも,調べる価値はありそうですね」
「それはある」
ガルドが答える。
ぽんたはまだ周囲の匂いを嗅いでいた。
「水,あった」
少し先から声がする。
「勝手に行くなって言っただろ」
「見えるとこだ!」
「戻ってこい」
「ここまで来いよ!」
理人とガルドは顔を見合わせた。
「約束守れてます?」
「ぎりぎりだな」
ガルドの判定は甘い気がした。
それでもぽんたは確かに視界の中にいる。
少し先の木の根元に,岩の隙間から水が染み出し,小さなくぼみを作っていた。
理人はそこまで歩き,水へ指先を入れる。
「……薄い」
「ない?」
「完全にないわけじゃない。でも,かなり弱い」
宿に持ってきてもらった,同じくらい森の奥から採った水とは明らかに違う。
「飲める?」
ぽんたが聞く。
「その発想から離れろ」
「喉渇いた」
「持ってきた水飲め」
ガルドから革袋を渡され,ぽんたは素直にそちらへ口をつけた。
理人は小さな水場を見る。
もし森の奥で何かが魔力を撒き散らしているなら,ここだけ影響が弱い理由は何だろう。
水源が別なのか。
地形の違いなのか。
それとも――。
「リヒト」
ぽんたが突然,水を飲むのをやめた。
「何?」
「これ」
前脚で示したのは,水場の横に生えている低い藪だった。
理人には何も見えない。
ぽんたが鼻を近づける。
「何かいる?」
「今はいない」
「じゃあ何だ?」
「匂い」
ぽんたは藪の根元へ顔を入れ,少しして何かを口にくわえて戻ってきた。
細い毛だった。
一本ではない。
枝へ引っかかったらしく,数本がまとまっている。
白色とも銀とも言い切れない,柔らかそうな毛だ。
「魔獣?」
理人が聞く。
「獣」
「何の?」
「……狐っぽい」
ぽんたが少し嫌そうな顔をした。
「狐?」
「たぶん」
今度は理人も笑わなかった。
「新しい?」
ガルドが尋ねる。
ぽんたは毛をもう一度嗅ぐ。
「そこまで古くない」
ガルドは周囲を見回した。
理人もつられて森を見る。
相変わらず,何もいない。
獣の足音も聞こえない。
それなのに,狐らしき毛だけがここに残っている。
「足跡は?」
ガルドが探す。
しばらくすると,水場の反対側で手を止めた。
「あった」
湿った土の上に,小さな足跡が残っている。
理人には犬との違いすらよく分からなかったが,ガルドとぽんたは同じようにその跡を見つめていた。
「狐だな」
「やっぱり?」
「ああ。ただ……」
ガルドが周囲の地面を見る。
「一匹分しかない」
この辺りでは,他の魔獣の新しい痕跡がほとんど見つからない。
けれど,狐だけはいる。
しかも,理人が感じる苦味が不自然に薄い場所に。
「追います?」
理人が聞いた。
ガルドは即座に首を横へ振った。
「今日はやめる」
「ですよね」
「珍しい狐だとしても,命かけて探すものじゃない」
「同意します」
「えー」
ぽんただけが不満そうだった。
「狐の方が森知ってるかもしれないぞ」
「だからって追って森の奥へ行く理由にはならない」
「ちょっとだけ」
「駄目」
「リヒトのけち」
「安全にけちも何もない」
ぽんたはまだ言いたそうだったが,ガルドが戻るぞと告げると,諦めて理人の横へ来た。
三人は来た道を引き返す。
理人は一度だけ振り返った。
小さな水場。
そこから続く,一匹分の足跡。
森の異変から逃げた魔獣たちは,みな外側へ向かっている。
それなのに,あの狐だけは。
異変の影響が弱い場所で,今も森の中にいるらしい。
偶然なのかもしれない。
それでも,理人には一つだけ気になることがあった。
森の奥へ近づくほど,ずっと苦くなっていた。
なのに。
あの狐の痕跡がある場所だけが,不自然なくらい苦くなかった。




