第19話 静けさが動いている
前日に見つけた狐らしき毛と足跡について,理人は宿へ戻ってからも考えていた。
他の魔獣がほとんど寄りつかない場所に,一匹だけ狐がいる。それだけなら,縄張りや餌場の都合で説明できるかもしれない。
気になるのは,そこが理人にとって「苦くない場所」でもあったことだ。
森の奥へ近づくほど強くなっていた魔力らしき苦味が,狐の痕跡がある周辺だけ明らかに弱い。
偶然なのか。
それとも,何か関係があるのか。
「で,今日も行くんだろ?」
朝食の席で,ぽんたが肉を噛みながら聞いてきた。
「ガルドさんが大丈夫だと言えばな」
「昨日も大丈夫だった」
「昨日大丈夫だったことと,今日大丈夫なことは別」
「そういうの,毎回言うよな」
「毎回必要だから言ってる」
ぽんたは不満そうに鼻を鳴らしたが,反論はしなかった。
以前なら「俺は森に慣れてる」と食い下がっていたところだ。ここ数日の出来事で,森が自分の知っている状態ではなくなっていることは,ぽんた自身も理解しているのだろう。
理人がパンをちぎっていると,厨房からマルタが顔を出した。
「行くなら昼までには戻るんだよ」
「そのつもりです」
「それと,狐見つけても捕まえてくるんじゃないよ」
「捕まえませんよ」
「狸は連れてきたじゃないか」
「俺は捕まってない!」
本人が即座に抗議した。
マルタは笑いながら鍋へ戻っていく。
「増えるなら働くやつにしな」
「増える前提で話さないでください」
「何の話だ?」
ぽんたが首を傾げる。
「気にしなくていい」
「気になるだろ」
理人は答えず,残ったパンを口へ運んだ。
まだ狐と出会ってすらいない。
今考えるべきなのは,もふもふが増えるかどうかではなく,あの場所で何が起きているのかだった。
◇
この日はガルドだけでなく,ミレナも同行した。
火爪熊が町へ出て以来,森の浅い範囲には複数の猟師や冒険者が入っており,それぞれが別の場所を確認している。昨日までより情報が集まり,少なくとも理人たちが向かう一帯では大型魔獣の新しい痕跡が見つかっていないらしい。
それでも,ガルドの判断は変わらなかった。
「昨日の水場より先へは行かん。何か変わってたら,そこで戻る」
「分かりました」
「分かってる」
理人とぽんたが答えると,ミレナが横から笑った。
「ぽんたまでちゃんと返事するようになったね」
「俺は最初からちゃんとしてる」
「昨日,勝手に水場まで行ったよね?」
「見えるところだった!」
「そういうところだぞ」
理人が言うと,ぽんたは耳を伏せた。
会話をしながらも,ガルドの視線は森の左右へ絶えず動いている。ミレナも剣へ手をかけてはいないが,周囲の音が変わるたびに顔を向けていた。
理人も真似をしてみたものの,自分には何を見ればよいのかさえよく分からない。
なら,自分に分かるものを見ればいい。
舌の奥に意識を向ける。
森へ入って間もない場所では,何も感じない。
少し進むと,前日と同じように薄い苦味が現れ始めた。
「ここも昨日と同じです」
「強くなってく?」
「今のところは」
理人は歩きながら答えた。
ぽんたも地面の匂いを嗅ぎ,ときどき足跡を見つけている。町側へ向かう跡はまだ多いが,昨日より新しく増えているようには見えないという。
少なくとも,魔獣の移動がさらに激しくなっているわけではなさそうだった。
「異変,落ち着いてきてるのかな」
ミレナの言葉に,ガルドは首を傾ける。
「そうならいいがな」
「火爪熊も見つかってないんでしょ?」
「ああ。ただ,奥がどうなってるかは分からん」
結局,そこへ戻る。
浅い場所の状態が少し落ち着いても,原因が分からない限り,森が元に戻ったとは言い切れない。
やがて,昨日見つけた細い獣道が見えてきた。
理人は立ち止まる。
「この辺から薄くなったんですよね」
「ああ」
ガルドも昨日と同じ位置を確認した。
理人は一歩,細道側へ移る。
昨日なら,ここで苦味が弱くなった。
しかし。
「……あれ?」
「どうした?」
ミレナが聞く。
「変わらない」
理人はもう一歩進んだ。
まだ苦い。
昨日ほど強くはないものの,「ここから急に薄くなる」と感じた境目がない。
「昨日と違う?」
「はい」
理人は一度元の道へ戻り,もう一度同じように歩いた。
結果は同じだった。
「昨日は,ここに入った時点で分かるくらい薄くなったんです」
「今日は?」
「少し弱い気はします。でも,昨日ほどじゃない」
ガルドが周囲を確認する。
倒木が増えたわけでも,水の流れが変わったわけでもない。
「地形は同じだな」
「一晩で変わるほど何かあったようには見えませんね」
理人は考えながら先を見る。
昨日の水場まで行けば,もう少し分かるかもしれない。
「行くぞ」
ガルドも同じ判断だったらしい。
三人と一匹は,慎重に細道へ入った。
◇
昨日,狐の毛を見つけた小さな水場は,そのまま残っていた。
岩の隙間から染み出す水が浅いくぼみに溜まり,そこから細く流れ出している。
見た目は何も変わらない。
理人はしゃがみ込み,水へ指を浸した。
「……苦い」
「昨日は?」
「かなり薄かったです」
今日は,以前森の奥側から採ってきた水に近い場所を歩いている。
強烈ではない。
けれど,間違えるほど弱くもない。
理人は近くの葉と土にも触れてみる。
やはり同じだった。
「昨日だけ偶然弱かった?」
ミレナが尋ねる。
「それもあります」
「でも?」
「狐の痕跡があった場所ですよね」
理人が言うと,ぽんたが水場の周りを嗅ぎ始めた。
「昨日の匂い,残ってる」
「狐?」
「たぶん」
「今日は?」
ぽんたはしばらく地面を嗅ぎながら歩き,水場の向こう側へ回った。
「新しいの,こっち」
ガルドがすぐにそちらへ向かう。
湿った土には,小さな足跡が残っていた。
昨日のものより輪郭がはっきりしている。
「今朝か,夜だな」
「どっちへ行ってます?」
「横だ」
理人が思っていた方向とは違った。
森のさらに奥ではなく,斜面へ沿うように横へ続いている。
「追う?」
ぽんたが聞く。
「追わない」
理人が答えるより早く,ガルドが言った。
「足跡を見ながら,安全な範囲で周辺を確認するだけだ。狐を捕まえるのが目的じゃない」
「分かってるって」
ぽんたはそう答えたものの,尻尾が少し上がっている。
楽しんでいる気がする。
ガルドの許可した範囲で斜面を横へ移動すると,理人はすぐに違和感に気づいた。
苦味が弱くなっている。
「止まってください」
三人が足を止めた。
理人は数歩戻る。
苦い。
再び同じ場所まで進む。
薄い。
「こっちに移ってる」
「何が?」
ミレナが聞く。
「苦くない場所です」
理人は周囲を見る。
昨日の水場からは,かなり離れているわけではない。せいぜい数十歩程度だろう。
けれど,明らかに昨日の中心からずれている。
「場所が動いた?」
ミレナの言葉に,理人は頷きかけて止まった。
「『場所』が動くって変ですけど」
「でも,昨日苦くなかったところが今日は苦くて,今日はこっちが苦くないんでしょ?」
「そうなんですよね」
地形が原因なら,普通は動かない。
水脈や地下の何かが変わった可能性はあるが,一晩で数十歩分だけ影響範囲が移動するというのも妙だ。
そして。
「狐の新しい足跡も,こっちへ来てる」
ガルドが地面を見ながら言った。
理人とミレナが顔を見合わせる。
「偶然?」
「まだ分かりません」
理人は答えたが,自分でもその可能性は少し下がったように感じていた。
昨日,狐のいた場所で苦味が弱かった。
今日,狐が移動した方向で,苦味の弱い場所も移っている。
一回なら偶然。
二回なら,少なくとも確認する価値はある。
「もう少しだけ周囲を見る」
ガルドが言った。
「ここから先は斜面が見通せる。深追いはしない」
「はい」
ぽんたも今度は黙って頷いた。
◇
苦味が弱い範囲は,それほど広くなかった。
正確な距離を測る道具はないが,理人が歩いた感覚では,小さな家が数軒入る程度の範囲だろうか。
中心へ近づくほど,苦味がさらに薄くなる。
そこから離れると,再び少しずつ強くなる。
「丸い?」
ミレナが聞く。
「きれいな円かは分かりません。でも,中心みたいなのはありそうです」
理人は何度か位置を変えながら確認した。
中心と思われる場所は,低い岩と木々に囲まれた小さな窪地だった。
そして,そこにはやはり魔獣の新しい足跡がほとんどない。
「狐以外は?」
ガルドがぽんたへ聞く。
「ない」
「本当に?」
「虫はいる。鳥も上にいる。でも地面歩くやつは,最近来てない」
ぽんたは真面目な顔で周囲を嗅いでいる。
「狐の匂いは?」
「ある。強い」
理人は窪地を見た。
狐がいる場所。
周囲から魔獣が消える場所。
そして,魔力の苦味が弱くなる場所。
「狐が原因,って考えるのは早いですかね」
「早い」
ガルドが即答した。
「ですよね」
「だが,関係がある可能性は高くなったな」
その程度がちょうどいい。
理人も,今はそれ以上決めつけるつもりはなかった。
狐が特殊な能力を持っているのかもしれない。
狐がたまたま,魔力の弱い場所を選んで移動しているだけかもしれない。
あるいは,理人たちがまだ知らない別の理由がある。
「今日は帰ります?」
理人が聞く。
「ああ」
ガルドは頷いた。
「十分だ」
「狐見ないの?」
ぽんたが不満そうに振り返る。
「探し回る必要はない」
「でも近くにいるぞ」
「何で分かる?」
「匂いが新しい」
ぽんたは窪地の奥へ鼻を向けた。
その先には,大きな岩と,根元が低い草に覆われた太い木がある。
理人には何も見えない。
「ぽんた」
「何だ」
「行くなよ」
「行かねえよ」
返事をしながら,身体は少し前へ傾いている。
「行こうとしてるだろ」
「見てるだけ」
「そのまま見てろ」
理人が言うと,ぽんたはしぶしぶ腰を下ろした。
そのときだった。
草が揺れた。
小さな音だった。
理人だけなら風だと思ったかもしれない。
けれど,ガルドがすぐに手を上げ,ミレナが剣へ触れる。ぽんたの耳もぴんと立った。
岩の向こうから,一匹の獣が姿を現した。
狐だった。
理人が日本で知っている狐より少し大きい。白に近い灰銀色の毛並みは,一見すれば森の中では目立ちそうなのに,斑に差し込む木漏れ日の中へ立つと,不思議なほど輪郭が曖昧になった。
細い身体に,大きな尻尾。
耳はまっすぐこちらへ向いている。
「……狐」
理人が小さく呟く。
「昨日の匂い」
ぽんたも声を落とした。
狐は逃げなかった。
一定の距離を保ったまま,理人たちを見ている。
野生の獣なら,四人もいる相手を見てすぐ逃げてもおかしくない。
それなのに,こちらの様子を観察するようにじっと立っていた。
「近づくな」
ガルドが小さな声で言う。
「はい」
理人も動かない。
狐と目が合った。
黒い目が,こちらを真っ直ぐ見ている。
そこにどれほどの知性があるのかは分からない。
ただ,少なくとも怯えて逃げ遅れたようには見えなかった。
むしろ。
自分たちが何者なのかを,向こうも確かめている。
そんな気がした。
「おい」
ぽんたが一歩だけ前へ出た。
狐の耳が動く。
「お前――」
「ぽんた」
理人が呼ぶ。
ぽんたは止まった。
狐はしばらくこちらを見たあと,ゆっくり身体の向きを変えた。
そして,岩の陰へ入る。
理人は目で追った。
一歩。
二歩。
そのまま木の向こうへ消える。
「追わないぞ」
ガルドが念を押した。
「分かってます」
「俺も分かってる」
ぽんたが少し残念そうに言う。
理人は狐が消えた場所を見たまま,舌の奥へ意識を向けた。
まだ,苦味は薄い。
けれど。
少し待つと,ほんのわずかに戻ってきたような気がした。
「……ガルドさん」
「何だ」
「もう少しここにいてもいいですか」
「何を見る?」
「苦味が戻るかどうか」
ガルドは少し考え,頷いた。
「少しだけだ」
三人と一匹は,その場で待った。
数分。
何も起きない。
けれど,理人には変化が分かった。
ゆっくりと。
本当に少しずつ。
舌の奥へ,森の苦味が戻ってくる。
「濃くなってます」
ミレナの表情が変わった。
「狐がいなくなったから?」
「まだ分かりません」
そう答えながらも,理人は狐が消えた方を見る。
昨日,狐のいた水場だけが苦くなかった。
狐が移動すると,苦くない場所も移った。
そして今,狐が離れたあとには,苦味が戻り始めている。
偶然で説明するには,少し重なりすぎていた。
「帰りましょう」
理人が言う。
「いいの?」
ミレナが聞く。
「確認したかったことは,かなり確認できました」
狐を捕まえる必要はない。
追いかける必要もない。
少なくとも今日分かったことを整理する方が先だ。
歩き出す前に,理人はもう一度だけ森の奥を振り返った。
狐の姿はない。
それでも,今度はかなり確信に近いものがあった。
森の中で見つけた「苦くない場所」は,場所ではなかった。
何かが移動するたびに,その周囲だけが一緒に静かになっている。
そして,その中心にいる可能性が最も高いのは。
今,自分たちを見ていた一匹の狐だった。




