第20話 狐の周りだけ苦くない
前日に狐を見つけたからといって,翌朝すぐ探しに行くことにはならなかった。
理人としては気にならないわけがない。狐がいた場所だけ魔力らしき苦味が弱まり,狐が移動すると,その範囲まで一緒に動いているように見える。
偶然にしては出来すぎている。
だからといって,一度姿を見ただけで狐が原因だと決めつけるには材料が足りなかったし,確かめるために森の奥まで追いかけるつもりもなかった。
結局,いつも通り朝食を取り,宿の仕事を手伝いながらガルドを待つことになった。
「今日,行く?」
ぽんたは朝から三度目になる質問をした。
「まだ分からない」
「さっきもそれ言った」
「状況が変わってないからな」
「じゃあ,ガルド探してくればいいだろ」
「どこにいるか知らないだろ」
「探す」
「だから勝手に出歩くなって」
ぽんたは不満そうに鼻を鳴らし,食堂の隅へ寝転がった。宿で暮らし始めてまだ数日しか経っていないのに,そこはすっかり自分の場所らしい。
理人は洗った木皿を棚へ戻しながら,床へ伸びた尻尾をちらりと見る。
「そんなに狐が気になるのか?」
「別に」
「じゃあ何でずっと聞くんだよ」
「森のことが気になるだけだ」
「狐じゃなくて?」
「狐じゃねえ」
明らかに狐だった。
昨日も,追わないと決まったときに一番残念そうにしていたのはぽんたである。自分以外の喋れそうな魔獣が気になるのか,同じように人間とは違う存在だからなのか,理人にはまだ分からない。
そんなことを考えていると,ぽんたが顔を上げた。
「何見てんだよ」
「別に」
「また尻尾見てただろ」
「見てない」
「今絶対見てた」
「仕事しろ」
「今休憩中!」
ぽんたの声に重なるように,宿の扉が開いた。
入ってきたのはガルドだった。
床から跳ね起きたぽんたが,挨拶より先に駆け寄る。
「行く?」
「お前,せめておはようくらい言え」
「おはよう。行く?」
「……元気だな」
ガルドは呆れたように笑い,理人たちのところまで歩いてきた。今日は弓のほかに,いつもより少し大きな短刀も腰へ下げている。
「昨日の場所をもう一度見る。朝に別の猟師が周辺を確認したが,大きな魔獣の新しい痕跡はなかった」
「狐は?」
ぽんたがすぐ聞く。
「知らん。探してないからな」
「じゃあ行こう」
「話は最後まで聞け」
ガルドはぽんたの額を軽く押し返してから,理人へ視線を向けた。
「昨日と同じだ。例の場所まで。狐を追って奥へは入らない。何か変ならすぐ戻る」
「分かりました」
「俺も分かってる」
「今日は本当に守れよ」
「昨日も守っただろ!」
昨日の「見える範囲なら勝手に動いていい」というぽんた独自の解釈を思い出したのか,ガルドがため息をつく。
ミレナは別の調査に出ているらしい。
今回は理人とガルド,それにぽんただけで森へ向かうことになった。
◇
森へ入ってしばらくは,前日までと大きな違いはなかった。
浅い場所では鳥の声が少し増え,小さな獣の足跡にも,町側へ向かうものだけでなく森の内側へ戻っているものが見つかり始めていた。
「戻ってきてる?」
理人が尋ねると,ガルドは地面に残った足跡を見ながら頷いた。
「少しな。ただ,普段ほどじゃない」
「異変が弱くなってる可能性は?」
「ある。逆に,逃げるやつがもう逃げきっただけかもしれん」
「なるほど」
楽観するには早い,ということだ。
理人も歩きながら,舌の奥へ意識を向けた。
森の入口では何もない。
そこから少し奥へ進むにつれて,いつもの薄い苦味がゆっくり現れてくる。
初めて森の水から感じた頃より,今では意識を向ければかなり分かるようになっていた。
能力そのものが強くなったのか,単に感覚へ慣れただけなのかは分からない。
おそらく後者だろう。
「今日も苦い?」
前を歩くぽんたが振り返る。
「ああ」
「昨日と同じ?」
「今のところは」
「俺は相変わらず何も分かんねえ」
「その代わり匂いが分かるだろ」
「まあな」
ぽんたは少し得意そうに鼻を上げ,すぐ地面へ戻した。
自分にできないことを相手ができる。
以前なら少し張り合っていたかもしれないが,最近では理人が味(?),ぽんたが匂いという役割分担を,どちらも自然に受け入れている。
やがて,前日に狐を目撃した辺りへ着いた。
理人は立ち止まり,舌の奥の感覚を確かめる。
「……昨日より苦いですね」
「狐はいない?」
ぽんたが周囲の匂いを嗅ぐ。
「昨日のは残ってる。でも,新しいのは……」
そこで口を閉じ,鼻先を森の横手へ向けた。
「ある」
「どっち?」
「向こう」
昨日,狐が消えていった方向とは少し違っていた。
ガルドも地面を確認するが,今日は土が乾いており,理人には足跡らしいものは見つけられない。
「追わないぞ」
ガルドが先に言った。
「まだ何も言ってねえ!」
「言う前に言った」
ぽんたは不服そうだったが,昨日よりは素直にその場へ腰を下ろした。
理人は周囲の木や土へ触れてみる。
やはり,前日にあった「苦くない場所」は消えている。
「狐が移動すると,元に戻るみたいですね」
「昨日と同じならな」
ガルドは狐の匂いがするという方角へ目を向ける。
「ただ,わざわざ追って確かめる必要も――」
「追わなくていいよ」
知らない声がした。
三人が同時に振り向く。
ぽんたより少し高く,けれど幼さのない,落ち着いた声だった。
理人には,一瞬どこから聞こえたのか分からない。
ガルドはすでに弓へ手をかけていたが,ぽんたはそれ以上に素早く声のした方へ身体を向け,全身の毛を膨らませた。
「誰だ!」
「昨日から何度も来ているのは,そっちでしょ」
低い藪の陰から,一匹の狐が姿を現した。
昨日見た個体だ。
白に近い灰銀色の毛並みが薄明の森のわずかな光をとらえてゆれている。ふと視線を外せば木漏れ日に溶けて行ってしまいそうな,輪郭のはかなさがある。
細身の身体に大きな尻尾とふさふさの耳を持ち,理人たちから十分な距離を取ったところで足を止める。
黒い目は昨日と同じように,こちらを真っ直ぐ見ていた。
「……喋った」
理人が呟く。
「そこなのかよ!」
ぽんたが叫ぶ。
狐の視線がぽんたへ移った。
「あなたに言われたくないかな。あなたも喋ってるよね」
「俺はぽんただ!」
「名前は聞いてないよ」
「なんだと?」
初対面から相性はあまりよくなさそうだった。
「ぽんた」
「何だよ!」
「ちょっと静かに」
「何で俺だけ!」
理人がぽんたの頭を軽く押さえると,狐は二人をしばらく見比べた。
ガルドも,狐が今すぐ襲ってくる様子はないと判断したのか,弓から手を離す。
「俺たちはお前を捕まえに来たわけじゃない」
「それは知ってるよ」
狐は静かに答えた。
「昨日も追ってこなかったから」
「見てたのか?」
「見てたよ」
かなり知能が高い。
ぽんたが喋ることにはすっかり慣れてしまったものの,人間とほとんど変わらない受け答えをする狐を前にすると,理人にはまだ少し不思議な感じがあった。
「今日はどうして出てきたんですか?」
理人が尋ねる。
狐の耳が一度だけ動いた。
「何度も来られる方が面倒だから。何を調べてるのか分からないまま近くを歩かれるより,聞いた方が早いと思ったの」
「すみません」
「謝るなら帰ってくれる?」
「必要なら」
理人が答えると,狐は少しだけ目を細めた。
「……本当に帰るの?」
「嫌がられてまで残る理由はないので」
「変な人だね」
「それはよく言われます」
「俺も言った」
ぽんたが横から口を挟む。
「ぽんたは少し黙ってて」
「また俺だけ!」
狐はぽんたの抗議を無視し,理人へ視線を戻した。
「何を聞きたいの?」
「一つだけいいですか」
「内容によるかな」
「この辺りだけ,森の他の場所と違うのは知ってますか?」
「違うって?」
「うまく説明できないんですけど,森の奥へ行くほど,魔力みたいなものが苦く感じるんです。でも,あなたの近くだと弱くなる」
「苦い?」
「俺自身もよく分からない感覚です」
「……変なの」
「それもよく言われます」
狐は少し考えるように首を傾げた。
「魔力のことなら,少し分かるよ」
理人の意識が一気にそちらへ向く。
「何が起きているか知ってる?」
「そこまでは知らないの」
答えはすぐだった。
「ただ,最近は奥から嫌な魔力が来るよ。前よりずっと多い」
狐は森の奥へ顔を向けた。
「前はもっと奥にいたんだけど,だんだん居づらくなったから,こっちへ移ってきたの」
「火爪熊と同じだ……」
理人が呟く。
この狐も,森の奥から外側へ移動してきている。
ただ,他の魔獣と違い,森そのものから逃げ出すところまでは来ていない。
「でも,あなたの周りだけは平気なんですよね?」
「平気ではないよ」
「じゃあ?」
「近くへ入れないようにしてるの」
「何を?」
「嫌な魔力を」
理人は一瞬,意味を理解できなかった。
「そんなことができるんですか?」
「少しならね」
狐は,特別なことを話している様子もなく答えた。
ガルドも少し驚いた顔をしている。
「魔力を外へ押し返してるのか?」
「押し返してるのかは,私にもよく分からないよ。入ってきてほしくないから,入らないようにしてるだけ」
「感覚でやってる?」
「そうだと思う」
理人は舌の奥へ意識を向ける。
今いる場所では,まだ苦味が残っている。
狐は十歩以上離れていた。
「少し近づいてもいいですか?」
「何のため?」
「確認です」
「何を?」
「あなたへ近づくと,本当に苦味が弱くなるか」
狐はしばらく理人を見つめた。
「……三歩までならいいよ」
「分かりました」
一歩。
二歩。
三歩。
そこで理人は止まる。
変化はすぐ分かった。
「……薄い」
昨日と同じだった。
舌の奥へ残っていた森の苦味が,急に遠ざかったように感じる。
「おお」
ぽんたまで近づこうとし,狐の耳がぴくりと動いた。
「あなたは来なくていいよ」
「なんでだよ!」
「うるさいから」
「俺だって静かにできる!」
「今できてないよね」
「ぐっ……」
ぽんたが言葉に詰まった。
理人は笑いをこらえながら,狐を見る。
「今,何かしてます?」
「いつもしてるよ」
「ずっと?」
「寝てるときは弱くなるかな」
「疲れません?」
その質問には,狐の返事が少し遅れた。
「……最近は少し疲れるよ」
「森の異変が強くなったから?」
「たぶんね。前はもっと簡単だったのに,今は遠ざけてもすぐ戻ってくるの」
狐も「たぶん」と言う。
それだけで,少し親近感が湧いた。
「だから何度も場所を移してたんですね」
「うん。ここまで来れば少し楽になると思ったんだけど」
これで最近の現象にはかなり説明がつく。
苦くない場所が狐と一緒に移動していたのは,狐自身が周囲へ入ってくる魔力の影響を弱めていたかららしい。
ただし。
「じゃあ,森の異変そのものの原因は分からない?」
「分からないよ」
「どこから来てるかは?」
「奥の方。それ以上は私にも分からないの」
理人は頷いた。
十分だった。
すべての答えを狐が持っているとは思っていない。
むしろ,今回分かったことだけでも大きい。
森の奥では,何かによって魔力そのものが増えている。
少なくとも,狐にはそう感じられている。
そして狐は,その影響を自分の周囲から遠ざけるような,かなり珍しい力を持っている。
「ひとつ聞いていいか」
今度はガルドが口を開いた。
「お前,狐の魔獣だよな」
「そう見えない?」
「見える。ただ,火は使わないのか」
狐の耳が,わずかに伏せられた。
声の調子は変わらなかったが,理人にはその反応の方が気になった。
「使えないよ」
静かな返事だった。
「狐の魔獣って,火を使うんですか?」
理人がガルドを見る。
「全部じゃないがな。この辺りで見る狐系の魔獣は,火を扱うやつが多い。毛も赤や赤茶のやつが多いな」
理人はもう一度,目の前の狐を見る。
白に近い灰銀色。
一般的な同種と違う毛色も,能力の違いと何か関係しているのかもしれない。
「じゃあ,こいつは火使えないんだ」
ぽんたが言う。
狐の目が少し細くなった。
「だから何?」
声は柔らかい。
けれど,明らかにそこから先へ踏み込ませない響きがあった。
ぽんたは口を開きかけ,途中で止める。
理人には,なぜかその理由が分かった。
生き物へ変化できない変化狸。
火を使えない狐の魔獣。
種族の普通から外れている,という意味では似ている。
ぽんた自身も気づいたのだろう。
「……別に」
珍しく,それ以上何も言わなかった。
狐は少し訝しげにぽんたを見たものの,追及はしない。
「でも,火を使えない代わりに,今の力が使えるんですよね」
理人が言うと,狐の視線が戻ってくる。
「代わりかどうかは分からないよ」
「そうですね」
「火は使えない。それだけなの。こっちが使えるから,帳尻が合ってるとも思ってないよ」
「はい」
理人には,その言い方がよく分かった。
できないことに後から意味をつけても,できるようになるわけではない。
それなら,今できることを確かめる方がいい。
「ただ,かなり珍しい力ではあると思います」
「珍しいから,何?」
「別に何も。ただ,森の異変を調べるには役立つかもしれないなと思っただけです」
「……私に手伝えってこと?」
「嫌なら頼みません」
理人が即答すると,狐がまた黙った。
「人間って,珍しいものを見つけたら使いたがるものじゃないの?」
「人によると思います」
「あなたは?」
「嫌がってる相手を無理に使うのは面倒です」
「そこ?」
ぽんたが呆れた声を出す。
「それに,危ない森の奥へ行くためにあなたを連れていくつもりもありません」
狐の耳がわずかに動いた。
「そうなの?」
「自分は戦えませんから」
理人は森の奥を見る。
「原因は気になります。でも,分からないものを調べるために死ぬのは嫌です」
狐は数秒,理人を見つめていた。
「……本当に変な人だね」
「今日それ何回目ですか」
「もっと言われると思うよ」
「それは嫌だな」
理人が苦笑すると,狐の口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。
気のせいかもしれない。
そこでガルドが周囲を見回す。
「今日はもう戻るぞ」
「はい」
理人に異論はなかった。
得られた情報としては十分すぎる。
元いた位置まで下がると,舌の奥へ苦味が戻ってくる。数歩離れただけで,さらに濃くなった。
振り返れば,狐は同じ場所に立っている。
やはり間違いない。
狐の周囲だけが,苦くない。
「また来る?」
ぽんたが尋ねた。
「お前が聞くのかよ」
「気になるだろ」
「来る必要があれば」
理人が答える。
狐は二人を見ていたが,すぐには何も言わない。
「じゃあな,狐」
ぽんたが尻尾を上げる。
狐は少し首を傾げた。
「ずっと狐って呼ぶの?」
「名前あんの?」
「ないよ」
「俺もなかったぞ」
「今はあるみたいだね」
「ぽんただ!」
ぽんたが胸を張る。
狐はしばらくその姿を見た。
「……そう」
「なんだその反応!」
「別に」
今度こそ,狐の口元がほんの少し緩んだ。
笑ったらしい。
理人たちは狐を残し,来た道を戻り始めた。
しばらく歩いたところで,理人はもう一度だけ振り返る。
白に近い灰銀色の姿は,まだ木々の間に見えていた。
あの狐は,森の異変の原因ではない。
むしろ逆だ。
森の奥から流れてくる異常な魔力に抗いながら,ここまで移動してきた。
そして,その周囲だけは今も静かだった。
森そのものへ広がっている異常な魔力を,わずかな範囲とはいえ遠ざけられるほどに。
理人は舌に残った苦味を確かめながら歩く。
森の奥で何かが起きている。
そこまでは分かった。
けれど,その「何か」は,火爪熊でも,あの狐でもない。
ようやく,探すべきものの輪郭が少しだけ見えてきた気がした。




