第21話 空
宿へ戻った理人は,森で聞いた話をそのままマルタへ伝えた。
灰銀色の狐が人間の言葉を話したこと。森の奥から流れてくる異常な魔力を,自分の周囲へ入りにくくしているらしいこと。そして,狐自身もその原因までは知らず,森の奥から逃げるように移動してきたこと。
マルタは煮込み鍋をかき混ぜながら一通り聞き終えると,最初に確認したのは能力でも森の異変でもなかった。
「で,連れて帰ってこなかったんだね?」
「何でそこなんですか」
「狸の前例があるだろ」
「俺は自分で来た!」
足元でぽんたが抗議する。
「そうでしたっけ」
「そうだよ!」
「正確には森が危なくなって,宿へ避難してきたんだろ」
「ほぼ自分で来ただろ!」
理人が訂正すると,ぽんたはますます不満そうに尻尾を振った。
マルタはそんな二人を見て笑い,味見用の木匙へ少量の汁をすくう。
「まあ,その狐が森で暮らしたいっていうなら,それでいいさ。何でも宿に住まわせる必要はないからね」
「最初からそのつもりです」
「でも気になってるんだろ?」
「森の異変については」
「狐は?」
「……それも少し」
否定しても仕方がない。
理人が素直に答えると,ぽんたがこちらをじっと見上げた。
「何だよ」
「別に」
「何だその顔」
「何でもない」
ぽんたはそう言いながら,明らかに何か言いたそうだった。
ただ,結局は口にせず,厨房の隅に置かれていた干し肉へ視線を移した。
狐より食べ物を優先したらしい。
◇
翌日は森へ入らなかった。
ガルドたちは別の猟師や冒険者と情報を合わせ,森の浅い範囲に大型魔獣が戻ってきていないかを確認することになったからだ。
理人にできることはない。
ならば宿で働く。
朝から皿を洗い,薪を運び,昼の仕込みを手伝った。ぽんたもマルタに頼まれてパン籠を運び,途中で大きすぎる箱へ変化して薄くなりすぎ,やり直しを命じられていた。
「これくらい?」
低く幅の広い箱になったぽんたへ,マルタがパンを並べていく。
「もう少し小さくていいね。その方が丈夫だろ?」
「小さいといっぱい入らない」
「一度に運びすぎて落としたら意味ないよ」
「なるほど」
ぽんたの姿が一回り縮む。
以前なら「もっと大きくなれる」と張り合いそうなところだが,最近は用途に合わせて形を変えるという発想が少しずつ身についてきたらしい。
理人は横で涙玉を刻みながら,その様子を眺めていた。
「何だよ」
箱のまま,ぽんたが言う。
「いや,上手くなったなと思って」
「だろ?」
箱から尻尾のような突起が生え,得意げに揺れた。
「それは相変わらず必要ないと思うけど」
「いるって言ってるだろ!」
そんなやり取りをしていると,表からバルドの声がした。
「リヒト。客だぞ」
「自分に?」
この世界へ来てから,理人個人を訪ねてくる者などほとんどいない。
ガルドかミレナだろうと思い,手を洗って食堂へ出る。
誰もいなかった。
「外だ」
バルドが顎で入口を示す。
理人が扉を開けると,通りの端にガルドが立っていた。
その足元には,小さな布包みがある。
「ガルドさん」
「俺じゃない」
「はい?」
ガルドが視線を町の外側へ向ける。
理人もそちらを見る。
通りの先。
建物が途切れ,畑へ続く道の向こうに,白に近い灰銀色が見えた。
「……狐?」
「来たときにはあそこにいた」
森で会った狐だった。
町へ入るつもりはないらしく,かなり離れたところからこちらを見ている。
「ぽんた!」
理人が宿の中へ声をかける。
「何だ!」
「ちょっと来て」
「今箱!」
「戻ってからでいい!」
少しして,ぽんたが元の姿で飛び出してきた。
道の向こうにいる狐へ気づいた瞬間,耳が立つ。
「来たじゃん」
「何で嬉しそうなんだ」
「別に!」
またそれか。
理人とガルド,ぽんたの三人で近づくと,狐は逃げずに待っていた。
ただし,前回と同じように一定の距離は保っている。
「こんにちは」
理人が声をかける。
「こんにちは」
狐は小さく頷いた。
「森から出て大丈夫なんですか?」
「ここなら平気だよ。奥よりずっと薄いから」
「町まで来るとは思わなかった」
「私も来るつもりはなかったの」
狐は理人ではなく,ガルドが持っている布包みを見る。
「あれを渡したかっただけ」
「これ?」
ガルドが足元から拾い上げる。
「森の入口近くに置いてあった。こいつがそばにいたから,たぶんそうだとは思ったが」
「私が持ってきたよ」
「何が入ってるんですか?」
「石と土。それから木の根」
理人は狐を見る。
「どこの?」
「私が前にいた場所」
一瞬,意味を考える。
「もっと森の奥?」
「うん。今いる場所よりずっと奥だよ」
理人の意識が布包みへ集中した。
「どうしてこれを?」
狐は少しだけ耳を横へ向けた。
「あなたたち,ずっと森の変な魔力を調べてるでしょ」
「はい」
「原因が分からないと,また来ると思ったの」
「……まあ,必要なら」
「だから持ってきた方が早いかなって」
理人は少し笑った。
前会った時も,「何度も来られる方が面倒だから話を聞いた」と言っていた。
今回も理由は同じらしい。
「ありがとうございます」
「別に,あなたたちのためじゃないよ」
「知ってます」
「このままだと私も困るの。最近,ちゃんと眠れないから」
そこで初めて,狐の声にわずかな疲労が混じったように聞こえた。
見た目には分からない。
毛並みも乱れていないし,立ち方もしっかりしている。
けれど,森の異常な魔力を絶えず遠ざけ続けているのなら,負担がないはずもない。
「前にいた場所って,今も行けるんですか?」
理人が尋ねる。
「行けるけど,行きたくないかな」
「そんなに強い?」
「うん。近づくだけで疲れるよ」
「じゃあもう行かない方がいいです」
即答すると,狐が目を瞬かせた。
「調べたくないの?」
「そのためにあなたが無理して戻る必要はないです」
「でも,原因を知りたいんでしょ?」
「知りたいです。でも順番があります」
理人はガルドを見る。
ガルドも頷いた。
「こいつの言う通りだ。場所が分かるなら,必要になったとき人間側でどうするか考える」
「行くの?」
「すぐには行かん」
ガルドは布包みを持ち上げる。
「まず,これを見てからだ」
狐は二人を見比べたあと,小さく息を吐いた。
「あなたたち,本当にすぐ奥へ行かないんだね」
「行ってほしいんですか?」
「まさか」
狐の尻尾が一度だけ動いた。
「行かないから不思議なだけだよ」
◇
宿へ戻る前に,布包みの中身を確認することになった。
狐は町の中へ入ろうとしなかったので,道から少し外れた草地へ移動する。
布を広げると,中には黒っぽい小石が二つ,湿り気の残る土,それに細い木の根が入っていた。
見た目には特別なものには思えない。
理人はまず,小石へ触れる。
「……強い」
火爪熊の近くで感じたものとは違う。
あのときは,大きく重い苦味が一つの存在から押し寄せてくるようだった。
今回の石は,薄い苦味を極端に濃くしたような感覚だった。
森の水や土から感じていたものと,同じ種類に思える。
「昨日までのものより?」
ガルドが聞く。
「かなり」
次に土へ触れる。
やはり強い。
根も同じだった。
「全部?」
「はい」
理人は指先を布で拭い,少し考える。
「この石の近くに魔獣がいた可能性は?」
狐が首を振る。
「持ってきた場所には,しばらく大きな魔獣はいなかったよ。みんな逃げたから」
「じゃあ,少なくとも火爪熊の魔力が付いたわけじゃない」
「たぶんね」
「その場所では,どこから一番強く感じたんですか?」
「どこからっていう感じじゃないの」
狐は言葉を探すように少し間を置いた。
「地面も,木も,水も,全部嫌だったよ。空気まで重い感じがしたの」
理人は手元を見る。
石も土も根も,どれも同じように苦い。
もし一匹の魔獣が原因なら,そこまで広い範囲のものすべてへ,同じような魔力が残るものなのだろうか。
「魔獣じゃない可能性が高くなりましたね」
「ああ」
ガルドが低く答える。
「少なくとも,一匹の大物が暴れてるだけじゃ説明しづらい」
「森そのものに広がってる?」
ぽんたが聞く。
「そう見える」
理人は答えた。
「ただ,どこから出てるのかはまだ分からない」
「狐は?」
ぽんたが尋ねる。
「何?」
「一番嫌な場所,分かんねえの?」
狐は少し考えた。
「前にいたところより奥は,もっと嫌だったよ。でも近づかなかったから,どこが一番かは知らないの」
「行けば分かる?」
「行かないよ」
「聞いただけだろ!」
「その聞き方は行かせたいみたいだったよ」
「違うって!」
ぽんたが慌てて否定する。
狐はその様子を見て,少しだけ目を細めた。
二匹のやり取りにはまだ棘があるが,最初ほどではない。
ぽんたの方も,狐が火を使えないと知ってからは,どこか言葉を選んでいるように見えた。
「とりあえず,これは持って帰っていいですか?」
理人が尋ねると,狐は頷く。
「いいよ。そのために持ってきたから」
「マルタさんに怒られそうだな……」
「何で?」
「宿の食器で土を調べると」
ガルドが笑う。
「自分で器用意しろ」
「そうします」
理人が布を包み直していると,ぽんたが突然鼻を動かした。
「腹減った」
「今?」
「歩いたから」
「町の入口までしか来てないだろ」
「朝から働いた!」
「それは本当だけど」
考えてみれば,理人も昼を過ぎてから何も口にしていない。
森へ行く予定ではなかったが,ガルドが来たときのために,マルタから簡単な昼食を持たされていた。
「パンならあるけど」
「肉は?」
「角猪の香草焼きが少し」
「食う!」
ぽんたの反応は予想通りだった。
理人が布包みとは別の袋からパンと肉を取り出す。
その瞬間。
狐の耳が動いた。
ほんのわずかな変化だった。
けれど,理人は気づいた。
狐の視線は肉そのものというより,香草をまぶして焼いた表面へ向いている。
「食べます?」
理人が聞く。
「……私?」
「他に狐いないので」
「何か条件ある?」
「ないです」
「森のことを教えろとか?」
「もう教えてもらいました」
「じゃあ,何で?」
「余ってるから」
正確には,ぽんたに全部食べさせるよりは分けた方がいいと思ったからだ。
「俺もっと食えるぞ」
「黙ってて」
「なんでだよ!」
狐はしばらく香草焼きを見つめた。
すぐには近づかない。
理人も手を伸ばしたまま待つ。
「そこに置いてくれる?」
「分かりました」
草の上へ小さな布を敷き,その上に一切れ置く。
理人が十分に離れてから,狐はゆっくり近づいた。
最初に肉へ鼻を寄せる。
すぐには食べず,何度か匂いを確かめた。
「毒入ってないぞ」
ぽんたが言う。
「分かってるよ」
「じゃあ食えよ」
「あなたは食べ物を見るとすぐとびついたからね」
「悪いか!」
「別に」
狐はそう答えてから,小さく肉を齧った。
しばらく噛む。
そして,もう一度表面の匂いを嗅いだ。
「どうです?」
理人が尋ねる。
「……変わった匂いがするね」
「香草です」
「肉よりこっちの匂いの方が気になるかな」
理人は少し意外に思った。
ぽんたなら,まず肉の硬さや脂,噛みごたえを気にする。
狐は反対に,最初から香りへ意識が向いているらしい。
「嫌いですか?」
「ううん。好きかもしれないよ」
狐はもう一口食べた。
今度は少し迷いがない。
「これ,何の葉?」
「自分は名前読めないんですけど,マルタさんが肉に使ってる香草です」
「読めない?」
「文字が」
狐が理人を見る。
「人間なのに?」
「ここの文字は読めません」
「変なの」
「それ,何回目だろ」
「数えてないよ」
口元が少し緩んでいる。
理人も笑った。
食べ終えた狐は,すぐには離れなかった。
けれど,近づいてくるわけでもない。
今の距離がちょうどいいのだろう。
「狐」
ぽんたが呼ぶ。
「何?」
「ずっと狐って呼ぶの面倒なんだけど」
「私は別に困らないよ」
「俺が困る!」
「じゃあ困ってれば?」
「こいつ……!」
ぽんたが毛を膨らませる。
理人は思わず笑った。
「名前,ないんですよね」
「ないよ」
「付けます?」
狐が理人を見る。
「私に?」
「嫌ならいいです」
「どういう名前?」
理人は少し考える。
白いからシロ,という案が最初に浮かんだ。
分かりやすい。
しかし少し考えて,そんな犬みたいな名前をこの知的な狐につけるのは違うと思いなおした。たぬき=ぽんぽことは違う。
「何で俺見るんだよ」
視線に気づいたぽんたが抗議する。
「別に」
「絶対俺の名前のこと考えただろ!」
「考えてない」
「嘘つけ!」
理人は狐へ視線を戻した。
この狐の周囲では,森を満たしている魔力が遠ざかる。
空間がぽっかり空いたように,そこだけ静かになる。
「……クウ,とか」
「クウ?」
「はい」
狐は小さく首を傾げる。
「どういう意味?」
「自分のいたところの言葉で,空とか,何もないところみたいな意味があります。あなたの周りだけ,森の苦味が空く感じがするので」
「ちょっと無理やりじゃない?」
「自分もそう思います」
「思うのかよ!」
ぽんたが横から叫んだ。
狐は理人とぽんたを見比べ,それからもう一度,
「クウ」
と自分で口にした。
「音は嫌いじゃないかな」
「じゃあクウ?」
「それでいいよ」
あっさり決まった。
理人は少し拍子抜けした。
「ぽんたのときより早いな」
「俺のは三日考えてぽんただぞ!」
「言うなよ」
「でもクウってさ」
ぽんたの目が細くなる。
嫌な予感がした。
「食う,みたいだな」
理人は黙った。
クウも黙った。
「……リヒト」
狐,いや,クウにジト目で見られた。
「はい」
「今,同じこと考えた?」
「…考えてません」
「間があったよ」
「気のせいです」
「あなた,嘘下手だね」
クウが呆れたように言う。
ぽんたは腹を抱えるようにして笑っていた。
「クウ! 食う!」
「ぽんた」
「何だよ」
「それ,何度も言ったら近づけなくするよ」
クウは柔らかな声のまま言った。
ぽんたの笑いが止まる。
「……それはずるいだろ」
「使えるものは使うよ」
「リヒト,こいつ性格悪い!」
「俺に言われても」
また二匹が言い合いを始める。
理人は包み直した石と土を手に取りながら,その様子を眺めた。
クウ。
名前が付いたからといって,すぐに仲間になるわけではない。
クウにはクウの暮らしがあり,今のところ町へ来るつもりもないだろう。
ただ,昨日まで「森にいる狐」だった相手が,少しだけ近い存在になった気はした。
「クウ」
理人が呼ぶ。
「何?」
ちゃんと返事が返ってきた。
「これ,調べてみます。また分かったことがあれば伝えます」
「うん。その方が私も助かるよ」
「森の奥へは行かないでくださいね」
「あなたに言われなくても行かないよ」
「ならいいです」
「リヒトより慎重じゃねえ?」
ぽんたが言う。
「それはないと思う」
「何でそこで張り合うんだよ」
理人たちは町へ戻り,クウは森へ戻る。
その場では,それで別れた。
けれど,理人の手には森の奥から持ち出された石と土がある。
これまで調べたどの場所よりも,はっきりと苦いものだった。
そして,クウの話では,さらに奥へ行けばもっと強くなる。
異変の中心は,やはり森の奥にある。
ただし,魔獣ではない。
地面も,木も,水も,空気まで変える何か。
宿へ戻る道で,理人は布包みを見下ろした。
探しているのは,もう「何がいるのか」ではない。
森の奥から,一体何があふれ出しているのか。
少しずつだが,問いの形だけは確かになってきていた。




