第6話 もう一度,ちゃんと作りたい
翌朝,理人は筋肉痛ではなく,紙の上の肉挽き器に絶望していた。
「……これ,絶対に回らないな」
机に広げた紙には,昨夜の自分が記憶だけを頼りに描いた肉挽き器らしきものがある。筒があり,ハンドルがあり,中には螺旋のようなものが入っていて,先端には穴の開いた板がついている。
自分ではそれなりに肉挽き器のつもりだった。
しかし,一晩寝てから改めて眺めてみると,どうやって肉が中を進み,どこで切れ,なぜ穴から細かくなって出てくるのか,肝心なところが何一つ分からない。
「構造を知らないものは描けない,か」
考えてみれば当たり前だった。
高校数学なら,覚えていた公式を忘れても,意味を理解していれば途中から導き直せることがある。だが,理人は肉挽き器の形を知っているだけで,中の仕組みをきちんと見たことがない。それらしい図を描いたところで,そこから使える道具が生まれるはずもなかった。
理人は紙を二つに折った。捨てることはせず,机の端へ置いておく。
教師をしていると,答えを間違えた生徒が途中式まで全部消してしまうことがある。答えが違っていても,そこまでどう考えたのかには意味がある。自分の失敗も,たぶん同じだった。
「まず,肉だな」
昨日のハンバーグは失敗した。
けれど,原因が肉そのものにあるとは思えない。自分は角猪の肉がどんな肉なのかもよく知らないまま,知っている料理の形に押し込もうとしていた。
なら,先に知るべきなのは道具より肉だ。
理人は着替えると,折った紙をもう一度見てから階下へ降りた。
◇
「角猪の解体を見たい?」
朝食の片づけをしていたマルタが,皿を重ねる手を止めた。
「はい。できれば,肉がどの辺から取れるのかも知りたいです」
「何でまた」
「昨日,肉のことをよく知らないまま料理して失敗したので」
「まあ,そうだね」
否定されなかった。
分かってはいたが,改めて言われると少しだけ悔しい。
「同じ角猪でも,場所によって肉は違いますよね。どこが硬くて,どこが柔らかいのかとか,脂がどこに多いのかとか」
「そりゃ違うよ。だったら,あたしよりガルドに聞いた方が早いね」
「ガルドさんですか?」
「猟師だからね。獲って,捌いて,売るところまで自分でやる。昨日の角猪だってそうだよ」
理人は手にしていた布巾を畳みながら考えた。料理する側から肉を見るマルタとはまた違うことを,ガルドなら知っているかもしれない。
「会えますか?」
「昼前なら市場にいるんじゃないかね。行ったことないだろ?」
「昨日この町に来たばかりなので」
「そうだったね」
マルタは思い出したように笑った。
「仕事が一段落したら行ってきな。ついでに買い物も頼みたいし」
「いいんですか?」
「三日目にもなれば,皿洗いだけさせててもしょうがないよ」
「まだ試用期間なんですが」
「皿はちゃんと洗えてるからね」
「評価された」
「割らないところだけだよ」
「そこからですか」
「最初はそこからさ」
正論だった。
◇
午前の仕事が終わると,理人はマルタから小さな布袋を渡された。中では十数枚の銅貨が触れ合い,乾いた音を立てている。
「これで涙玉を十個。あとは塩」
「値段が分からないんですけど」
「涙玉なら三つで銅貨一枚くらい。塩はこれを見せな」
続いて渡されたのは,小さな木札だった。何か文字が書かれているのは分かるが,当然,理人には読めない。
「自分が読めないこと,完全に利用されてません?」
「余計なもん買わなくて済むだろ?」
「合理的ですね」
「教師に褒められた」
「褒めてはいません」
布袋を腰へ結び,宿を出る。
アルカの町を一人で歩くのは初めてだった。昨日まではガルドやミレナの後をついて歩いていただけだが,今日は自分で帰ってこなければならない。
宿を出て右へ進み,二本目の通りを左へ曲がる。その先の噴水がある広場を抜ければ市場だと,マルタには教えられている。
「帰れなくなったら洒落にならないな」
文字が読めない以上,看板はほとんど目印にならない。理人は代わりに,青い屋根の家,二階に三つ並んだ窓,店先の大きな樽,曲がり角から垂れている赤い布と,目についたものを順に覚えていった。
数学教師らしい能力ではないが,知らない町では必要なことだった。
市場は探すまでもなく分かった。
「新鮮な涙玉だよ! 今朝入ったばかりだ!」
「森鳥の卵はこっちだ! 割れてないやつだけ持ってけ!」
「塩ならあるよ! 海塩も岩塩も見てきな!」
通りへ入った途端,いくつもの声が重なって飛んでくる。
両側には店が隙間なく並び,籠には野菜や果物が積まれ,軒下には肉や魚が吊られている。その間に布や鍋,道具を売る店まで混じっていた。
理人は自然と歩く速度を落とした。
「……すごいな」
赤い皮をした細長い実の隣には,透けるほど薄い緑色の果物が積まれている。握り拳より大きな茸を並べた店もあれば,艶のない黒い豆を量り売りしている店もあった。
一方で,涙玉や卵,パン,チーズのように,形を見ればだいたい何なのか分かるものもある。
昨日まで理人にとって「異世界」という言葉から真っ先に浮かぶものは,魔法や魔獣だった。
けれど,こうして市場の中を歩いていると,むしろ別のところで実感する。
食べ物が違う。作るものが違う。売られているものが違う。
それだけでも,ここは自分の知っている場所ではないのだと十分に分かった。
「リヒト?」
聞き覚えのある声に振り返ると,ガルドがいた。
昨日と同じ革の胸当てを身につけているが,今日は弓を背負っていない。代わりに,大きな肉の塊がいくつも並ぶ店の奥に立っていた。
「ガルドさん」
「一人で歩けるようになったか」
「今のところは」
「迷った?」
「まだです」
「まだって言うな」
ガルドが笑う。
理人はその横に並んだ肉へ目を向けた。赤身の多い塊もあれば,白い脂をまとったものもあり,骨のついた大きな肉も置かれている。端には見覚えのある角まで転がっていた。
「これ,角猪ですか?」
「一頭分はな。昨日のやつだ」
昨日,自分を追い回していた魔獣が,今はこうしてきれいに切り分けられている。
妙な気分だった。
「マルタから聞いたぞ。解体を見たいんだって?」
「はい」
「料理人になるのか?」
「教師です」
「今は?」
理人は一度黙った。
「……宿屋の皿洗いです」
「なら皿洗いだろ」
「そうですね」
反論できなかった。
「で,何が知りたい?」
ガルドが作業台の上の肉を示す。
「まず,昨日ハンバーグに使った肉が,どの辺だったのか知りたいです」
「はんばーぐ……ああ,マルタが言ってた変な肉料理か」
「情報が早いですね」
「朝から『リヒトが肉を台無しにした』って言ってたぞ」
「言い方」
「違うのか?」
「……概ね合ってます」
まさか市場まで来て昨日の傷を抉られるとは思わなかった。
ガルドは笑いながら,大きな赤身の塊を持ち上げた。
「昨日渡したのは,だいたいこの辺だ。肩と,脚の一部」
「同じ肉に見えますけど」
「触ってみろ」
促されて,理人はまず肩の肉へ指を押し当てた。表面はしっかりしていて,力を入れてもすぐに押し戻される。切り口には太い筋がいくつも走っていた。
隣の脚肉も似ているが,こちらはさらに赤身が締まっているように見える。
「よく動かすところだから硬い。筋も多い」
「昨日,包丁で叩いてたときに引っかかったの,これか……」
「その代わり,味は濃いぞ。煮込むなら悪くない」
「柔らかいところは?」
「背中だな。この辺」
ガルドが別の塊を示す。理人が同じように押してみると,先ほどよりも指が素直に沈んだ。切り口を見ても,肩や脚ほど目立つ筋はない。
「本当に違いますね」
「同じ一頭だからって,全部同じ肉じゃないからな。腹側は柔らかいところもあるが,こっちは脂が多い」
その言葉に視線を動かすと,赤身の間に白い脂が厚く入った肉が置かれていた。その横には,切り分けられた脂身だけの塊もある。
「これ,昨日も少し使いました」
「少しだけだったろ?」
「はい」
「硬いところを使うなら,もう少し入れてもよかったかもしれんな」
「自分もそう思ってます」
昨日は,どれだけ脂を入れるべきかも分からず,何となく赤身に混ぜただけだった。焼いているうちに水分が抜け,最後にはずいぶんぱさついた。
肉を見るだけでも,昨日より分かることが増えている。
そこで理人は,ふと思い出して肩肉へもう一度触れた。
舌の奥に,薄い苦味が広がる。
実際に舐めたわけではない。第1話以来,魔獣やその肉に触れたときだけ感じる,味に似た何かだった。
「ガルドさん。もう一つ聞いてもいいですか」
「何だ?」
「角猪の肉を触ると,やっぱり苦い感じがするんです」
ガルドの表情から,笑いが少し消えた。
「まだ感じるのか」
「生きてたときよりは,かなり弱いですけど」
「森鹿は?」
「少し甘い感じでした」
「食ったときは?」
「普通でした」
「やっぱり変だな」
「自分でもそう思います」
ガルドは少し考えてから,背中の肉を一切れ理人へ渡した。
「これは?」
受け取った瞬間,やはり薄い苦味がある。
同じ角猪だ。
それでも,先ほどとはわずかに違う気がした。
「……苦いのは同じです。でも,さっきより少し軽いような」
「軽い?」
「すみません。味として説明するのが難しくて」
「そりゃ食ってるわけじゃないからな」
「そうなんですけどね」
理人は眉を寄せた。
次に腹側の肉へ触れさせてもらう。これも同じ種類の苦味なのに,今度はわずかに重く感じる。
ただ,本当に違うのかと聞かれれば,自信はない。
「部位によって違う……のかな」
「俺に聞かれても分からんぞ」
「ですよね」
肩,背中,腹。
同じ角猪なのに,触れたときの感覚は完全には同じではない。
肉の硬さや脂の量と関係があるのか。それとも,別の何かを感じ取っているのか。
まだ材料が少なすぎた。
「もう少し触り比べてみないと分からないですね」
「そういうところだけ妙に慎重だな」
「仕事柄です」
ガルドは感心したような,呆れたような顔で理人を見た。
「それ,本当に固有能力なんじゃないか?」
「マルタさんにも言われました」
「昨日,熱を移してたやつもあっただろ」
「あっちは《熱交換》って名前をつけました」
「じゃあ,こっちも固有能力なら二つ持ってることになるぞ」
「珍しいんですか?」
「そりゃ珍しい。普通は一つあるだけでも十分だ」
「そうなんですか」
「そうなんですか,じゃないだろ」
ガルドが呆れたように額へ手をやる。
「お前,本当に何も知らんな」
「この世界に来たの,まだ三日目ですから」
「ああ,そうだった」
だんだん便利な説明になってきた気がする。
◇
昼になると,理人は市場の裏手にある小さな休憩所へ連れていかれた。
ガルドが用意してくれたのは,肩,背中,腹側,脚から少しずつ切り取った肉だった。どれも味の違いが分かるよう塩だけを振り,火の上で中までしっかり焼かれている。
「まず肩」
渡された一切れを噛むと,すぐに昨日の肉を思い出した。歯応えが強く,噛み切るには少し力がいる。
「硬いですね」
「昨日渡したのも,これに近い」
「でも,味は濃いです」
「だろ?」
噛んでいると,肉そのものの味がじわじわと残る。ただ柔らかさだけで比べれば,決して食べやすい部位ではなかった。
「次は背中だ」
今度の肉は,歯を入れた瞬間から違った。
「……全然違う」
肩ほど力を入れなくても噛み切れる。脂が多いわけではないのに,肉の中に水分が残っていて,塩だけでも十分おいしい。
「これなら,そのまま焼いて食べたいですね」
「だから高く売れる」
続いて腹側の肉を食べると,こちらは口に入れた途端に脂の存在が分かった。背中とは違う柔らかさがあり,脂にはわずかな甘みもある。
最後の脚肉は,肩以上に噛み応えがあった。
「硬いな……」
「走る獣の脚だからな」
「でも,これも噛んでると味は強いですね」
柔らかさだけなら背中が一番だった。
けれど,肩や脚がまずいわけではない。むしろ味そのものは濃く,違うおいしさがある。
理人は皿に残った肉を見比べた。
「昨日は,硬いところを中心に使ってたんですね」
「安いからな」
「安い?」
「背中みたいに柔らかいところは,焼くだけでもうまい。高くても買うやつがいる。肩や脚は煮込むか,干すか,手間をかけないと食いにくいから,その分安い」
「だから宿にも回ってきた」
「そういうことだ」
理人は納得した。
日本でも,肉は部位によって値段が違った。こちらでも事情そのものは大きく変わらないらしい。
「じゃあ,ハンバーグにするなら……」
「柔らかいやつを使うのか?」
ガルドの問いに,理人はすぐには答えなかった。
背中の肉なら,確かにおいしいハンバーグになるかもしれない。
けれど,それならわざわざ細かくする必要があるのだろうか。そのまま焼いただけですでに十分おいしい肉を,苦労して刻み,形を作り直す意味はあまりない。
理人は残っていた肩肉を一切れ取り,もう一度噛んだ。
「いや……むしろ,こっちかもしれません」
「硬い方?」
「はい。これをもっと細かくして,筋を減らして,脂をうまく混ぜられたら」
昨日,包丁で叩いた肉を思い出す。
粒はばらばらで,筋も残っていた。脂の量も適当だった。それでも,細かくした分だけ,塊のまま焼くよりは噛みやすくなっていた。
「柔らかくてそのまま食べておいしい肉を,わざわざ挽かなくてもいいのかもしれない」
「じゃあ何のために挽くんだ?」
「そのままだと食べにくい肉を,違う食感にするため,とか」
言いながら,理人自身もまだ確信はなかった。
ハンバーグの成り立ちを詳しく知っているわけでもない。日本でどういう部位が使われていたのかも,そこまで意識したことはない。
ただ,目の前の肩肉と背中肉を食べ比べてみると,そう考える方が理人には自然だった。
「たぶん,そういう使い方もできると思います」
「昨日はそんなこと考えてたのか?」
「昨日は……」
理人は少し考えた。
「知ってる料理を食べたかっただけです」
「今日は?」
「昨日より,もう少しおいしくしたいです」
「明日は?」
「分かりません」
ガルドが声を上げて笑った。
「それくらいでいいんじゃないか」
理人も残っていた肩肉を口へ入れる。
肉自体は,昨日食べたものと大して変わらない。
それでも今日は,少しだけ違って感じた。
硬い理由も,どこから取れた肉なのかも,昨日より少し分かっている。
知ったからおいしくなる,というのは単純すぎるかもしれない。
けれど,少なくとも次にどうすればいいかは,昨日より考えられそうだった。
◇
ガルドと別れたあと,理人はマルタに頼まれた買い物を済ませ,そのまま市場をもう少し歩くことにした。
涙玉を十個買い,木札を見せて塩も受け取った。それでも袋の銅貨には少し余裕がある。
買うつもりはなくても,見ておきたいものがいくらでもあった。
乳製品を並べた店では,チーズの隣に白っぽい塊が積まれている。
「これ,何ですか?」
「乳脂だよ」
店番の女が答えた。
「乳から取る脂ですか?」
「そうさ」
「バターみたいなものかな……」
「ばたー?」
「あ,いえ。似たものを知ってただけです」
少量を味見させてもらうと,舌の上ですぐに溶けた。濃い乳の風味に,少し酸味がある。日本で食べていたバターと同じではないが,料理には使えそうだった。
「この辺で作ってるんですか?」
「近くでも作るけどね。いいのが欲しけりゃ西さ」
「西?」
「ずっと西の草原の方。あっちは家畜の数が違うからね。向こうから来る乳や乳脂は,香りも濃さもここのとは別物だよ」
理人は白い塊をもう一度見る。
今すぐ必要なものではない。
だが,覚えておきたかった。
少し先の乾物屋には,小さな袋が何段にも並べられていた。昨日使った黒香子もあり,その周りには赤い実や茶色い種,細長い葉を乾かしたものまで置かれている。
「これ,全部香辛料ですか?」
「全部じゃないけど,大体はそうだね」
「見たことないものばっかりだ……」
理人が茶色い種の入った袋を見ていると,店主が一粒だけ手のひらへ出してくれた。
「そいつは肉に使う。甘い香りがするぞ」
鼻へ近づけてみると,確かにどこか覚えのある香りがした。
「……ナツメグに近い?」
「なつめ?」
「いえ,こっちの話です」
似てはいる。
だが,同じだと決めつけるには香りが少し違う。
「こういうのは,どこから来るんですか?」
「南の森が多いな。森の民が採ったり育てたりしたものが,商人を通ってこっちまで来る」
「南か」
「いいやつは高いぞ」
「やっぱり」
値段を聞いて,理人は素直に袋を棚へ戻した。
今の自分が気軽に試せるものではない。
それでも,黒香子以外にも肉に合いそうな香辛料があると分かっただけで十分だった。
さらに歩いた先では,パン屋の台に色の違うパンが並んでいた。
この町でよく見かける茶色く硬そうなパンに混じり,少し柔らかそうなものもある。その端には,明らかに色の違う白いパンが置かれていた。
「白いパンもあるんだ」
「王都の方から来た小麦だよ」
独り言を拾った店主が教えてくれる。
「この辺の麦じゃ,そこまで白くならん。値は張るが,うまいぞ」
「王都の小麦……」
値札らしい板へ目を向ける。
もちろん読めない。
「ちなみに,これいくらです?」
「そっちのパンの三倍くらいだな」
「高いですね」
「だろ?」
店主も笑った。
理人も笑って,白いパンを棚へ戻す。
今は買えない。
けれど,白い小麦そのものはある。
西の草原からは質のいい乳製品が来て,南の森からは香辛料が届き,王都の方からはこの町では高価な白い小麦が運ばれてくる。
理人は人の流れを邪魔しないよう道の端へ寄り,改めて市場を眺めた。
一つの町に並んでいる商品だけでも,いくつもの土地につながっている。
昨日までは,ハンバーグを一つ作るだけなら,肉と涙玉とパンと香辛料があればいいと思っていた。
けれど,同じ乳でも産地で違い,同じ香辛料でも種類があり,小麦まで土地によって質が違うらしい。
使うものが変われば,当然,出来上がる味も変わる。
「……面白いな」
思わず声が漏れた。
この町だけでも知らないものばかりなのだから,他の土地へ行けば,さらに知らない食材があるのだろう。
いつか見てみたい,と思う。
今すぐどこかへ旅立ちたいわけではない。ただ,昨日までは想像もしていなかった場所へ,料理を入口に興味が伸びていくのが少し面白かった。
もちろん,帰る方法は探したい。
日本での生活を捨てたわけではないし,帰れるのなら帰りたい。
けれど,帰れるかどうかさえ分からないまま,毎日そのことだけを考え続けるのも違う気がした。
今いる場所で,分かることを増やす。
できることを試す。
その方が理人の性格には合っていた。
◇
「で,何を買ってきたんだい」
宿へ戻るなり,マルタが理人の持つ布袋を覗き込んだ。
「涙玉十個と塩。頼まれたものだけです」
「偉いね」
「子ども扱いしてません?」
「知らない町で迷子にもならなかった」
「二十五歳です」
「この町じゃ一歳みたいなもんだろ」
「文字も読めないので,反論しづらいですね」
理人が荷物を渡すと,マルタは中身を確認して棚へ片づけていく。
「市場はどうだった?」
「かなり面白かったです」
「料理人になる?」
「教師です」
「今は?」
「皿洗いです」
「覚えてきたね」
悔しい。
「ガルドさんに,角猪の肉も食べ比べさせてもらいました」
「朝飯食べたあとに?」
「そこ,ガルドさんにも言われました」
「変なところで真面目だねえ」
マルタが涙玉を籠へ移す横で,理人は今日分かったことを話した。
昨日使った肩や脚はよく動かすぶん硬く,筋も多いこと。背中側は比較的柔らかく,腹側には脂が多いこと。同じ角猪でも,部位によってずいぶん食感が違ったこと。
「次は肩の筋をもう少し取って,腹の脂を少し増やしてみたいです」
「また作るんだ?」
「作ります」
即答すると,マルタが笑った。
「黒香子も?」
「入れます。ただ,量は少し変えてみます」
「パンは?」
理人はそこで止まった。
「……パン」
昨日使った硬いパンを思い出す。
水に浸してはいたが,砕き方が足りず,大きな粒がいくつも残っていた。
「もっと細かくしたいです。肉もそうですけど,粒がばらばらなのが気になって」
「だったら叩けば?」
「何でです?」
「木槌」
マルタは棚の下へしゃがみ込み,奥から一本の木槌を取り出した。
理人が想像していたものより太く,柄も長い。頭の部分には,何度も使われたらしい細かな傷がついている。
「……これでパンを?」
「硬いパンなら布に包んで叩けば砕けるよ。肉だって叩ける」
受け取ってみる。
ずしりと重い。
理人は木槌を眺めながら,肉を包丁で何度も叩いた昨日の作業を思い出した。
刃を入れる。
向きを変える。
また叩く。
それでも粒は揃わず,太い筋はなかなか切れなかった。
「これなら,もう少し細かくできるかもしれない」
「使う?」
「借ります」
少し前進した。
肉挽き器の構造が分からないなら,今すぐ作ろうとする必要はない。現代の道具をそのまま再現できなくても,今ある道具で改善できるところから試せばいい。
「ただ,これで均一になるかは分からないな……」
理人は木槌の平らな面を指でなぞった。
叩けば肉は潰れるだろう。
細かくもなる。
だが,全部を同じくらいの大きさに揃えられるかとなると怪しい。力を入れすぎれば潰れすぎる部分が出るだろうし,筋が残ればそこだけ形も変わる。
「何ぶつぶつ言ってんだい」
「どう叩けば同じくらいの細かさになるか考えてました」
「やってみりゃいいじゃないか」
「それもそうですね」
理人は木槌を軽く持ち上げる。
「重いですね,これ」
「それくらいないと肉は叩けないよ」
「明日,腕が終わりそうだな……」
「若いんだから頑張りな」
「数学教師に求める筋力じゃないですよ」
「今は皿洗いだろ?」
「そこに戻ります?」
マルタが笑い,理人もつられて笑った。
改めて木槌を見る。
肉を叩く。硬いパンを砕く。もしかすると,香辛料を潰すのにも使えるかもしれない。
「道具って大事だな」
「当たり前じゃないか」
「日本にいると,あんまり考えなかったので」
「ニホンってところには,そんなに道具があるのかい?」
「ありすぎるくらいです」
「なら持ってくればよかったのに」
「できるならそうしてます」
「そりゃそうだ」
マルタはあっさり答え,次の作業へ戻っていった。
理人は木槌を手にしたまま,厨房を見回した。
包丁があり,鍋があり,鉄板がある。火も使えるし,木槌まで出てきた。
今ある道具だけでも,料理はできる。
昨日よりうまく作ることだって,たぶんできる。
それでも,肩肉をできるだけ同じ細かさに揃えようと考えると,やはり木槌や包丁だけでは限界がありそうだった。
「……やっぱり,ミンサー欲しいな」
「またそれかい」
「欲しいものは欲しいです」
「鍛冶屋にでも頼めば?」
「構造を説明できないんですよね」
「だったら,説明できるものから考えな」
「正論ですね」
理人はため息をついた。
肉挽き器そのものを作るのは無理でも,目的ははっきりしてきた。
肉を,今より細かく。
できれば,大きさを揃えて。
筋の多い硬い肉でも,食べやすい形に変えられるように。
昨日の夜よりは,少しだけ前へ進んでいる。
角猪の肉について知った。同じ一頭でも,部位によって硬さも脂も味も違うと知った。
市場には,遠い土地から届く食材が並んでいた。
そして,自分の知らない料理や道具も,この世界にはまだいくらでもあるのだろう。
「もう一回,作ろう」
理人は小さく呟いた。
今度は,昨日より少しだけ。
ちゃんと,おいしいものを。
そのためなら,木槌くらいは振るう。
数学教師としては,あまり想定していなかった方向の努力だったが。
「まあ,これも経験か」
木槌を肩へ乗せたところで,マルタの声が飛んできた。
「何格好つけてんだい。野菜運びな」
「はい」
現実は早かった。




