第5話 最初のハンバーグは,まずかった
焼き色は,きれいだった。
少なくとも,理人にはそう見えた。表面は濃い茶色に色づき,ところどころに浮いた脂が鉄板の上で弾けている。涙玉の甘い香りに黒香子の匂いも重なり,日本の自宅で作っていたものと比べても,見た目だけなら十分にハンバーグらしい。
「結構うまそうじゃないか」
横から覗き込んだマルタに言われ,理人は少しだけ胸を張った。
「でしょう」
その直後,ハンバーグの側面に走っていた細い亀裂から,じゅわりと液体が溢れ出した。
「……」
「出てるね」
「出てますね」
「肉汁?」
「たぶん」
答えながら,理人は鉄板へ目を落とす。流れ出た汁は肉汁だけではなさそうだった。脂に加えて,おそらく涙玉から出た水分も混じっている。鉄板へ触れた途端,激しい音を立てて泡立ち,白い湯気を上げた。
焦げた肉の匂いそのものは悪くない。だが,せっかく肉の中に残っていてほしいものが外へ逃げていると思うと,嫌な予感しかしなかった。
「火,強くないかい?」
「少し」
「少し?」
「……結構」
「端にずらしな」
「はい」
理人は木べらを差し込み,火の弱そうな側へハンバーグを動かそうとした。
その途端,先ほどの亀裂がぴしりと広がった。中央近くの肉が少し沈み,側面の一部が崩れる。
理人は無言でもう一本の木べらを差し込んだ。
「割れてるよ」
「見えてます」
「大丈夫?」
「……まだ」
「まだ?」
「食べられます」
「基準,下がってないかい?」
理人は答えなかった。
下がっている。かなり。
とはいえ,形が悪くなっただけなら,まだ失敗と決めるには早い。少しくらい割れていても,中まで火が通っていて,味がよければ食べられる。
問題は,その中まで火が通っているかだった。
日本でなら,ここから蓋をして火を弱め,蒸し焼きにすることが多い。理人も家で作るときにはそうしていた。
「蓋あります?」
「何の?」
「この鉄板を覆えるくらいの」
「鍋の蓋ならあるけど」
「借りても?」
「いいよ」
マルタが持ってきた大きな蓋は鉄板と形が合っていなかったが,ハンバーグを覆うだけなら十分だった。
理人はいつもの癖で少量の水を入れようとして,手を止める。
「……いや」
「どうした?」
「日本だと,少し水を入れて蒸し焼きにすることもあるんですけど」
「入れれば?」
「今,水が出すぎてる気がするので」
「じゃあ入れなきゃいいじゃないか」
「そうします」
すでに涙玉からかなり水分が出ている。それが崩れやすさの原因になっているのかは分からないが,少なくとも今ここで水を増やす理由はなさそうだった。
蓋をして,しばらく待つ。
けれど,薪の火は日本で使っていたガスの弱火とはまるで違った。薪をずらして弱くしたつもりでも,鉄板の場所によって熱さが違う。理人はしゃがみ込み,鉄板の下を覗いた。
「……難しいな」
「何が?」
「火加減です」
「そりゃ慣れだね」
マルタは何でもないことのように言い,燃えている薪の一本を火掻き棒で少しずらした。
「料理は火を見るんだよ。薪がどこまで燃えてるか,鉄板のどこが熱いか。それで置く場所を変える」
「分かってはいるんですけど」
「分かるのと,できるのは別だよ」
「耳が痛いです」
「まだ若いね」
マルタが笑う。
経験の差を言われれば,何も返せない。理人は黙って蓋へ視線を戻した。
数分待ち,そろそろだろうと蓋を持ち上げる。閉じ込められていた湯気が一気に広がり,一瞬だけ肉の形が隠れた。
「お」
悪くないかもしれない。
そう思ったのは,湯気が消えるまでだった。
「……ああ」
中央の割れ目は,さらに大きくなっていた。側面の一部は鉄板へ貼りつき,端は崩れている。きれいな楕円形だったはずのものは,今では大きな肉団子を押し潰したような形になっていた。
「はんばーぐって,こういう料理なのかい?」
「違います」
「そうかい」
「もっときれいです」
「そうかい」
妙に優しいマルタの声が,余計につらい。
「まだ食べてませんから」
「そうだね」
「味は分かりません」
「そうだね」
「見た目だけです」
「そうだね」
「……その言い方,やめてもらっていいですか」
「何も言ってないよ」
言っている。かなり。
理人は二本の木べらを使い,できるだけ崩さないよう皿へ移した。端が欠けているものの,どうにか一塊ではある。円でも楕円でもないが,少なくとも肉料理には見えた。
「よし」
「よし?」
「完成です」
言い切った。
マルタが皿を見る。次に理人を見る。そして,もう一度皿を見た。
「これが,はんばーぐ?」
「……初号機です」
「しょごうき?」
「最初の試作品です」
「なるほど」
理人は木の匙を借り,中央から肉を割った。
「……」
断面に,はっきりと赤みが残っていた。
「生だね」
「生ですね」
「外,焦げ始めてるけど」
「焦げ始めてますね」
理人は静かに息を吐いた。
「もう一回焼きます」
「まだやるの?」
「中まで火は通します」
「まあ,そうだね」
再び鉄板へ戻し,今度はできるだけ火の弱い場所へ置く。だが,一度崩れた肉は厚さが均一ではない。薄い端はすぐに色が濃くなっていくのに,厚く残った中央はなかなか火が入らない。
焼き続ければ中心にも熱は届くはずだ。ただし,その頃には外側が焦げる。
理人が木べらで位置を変えていると,マルタがふと思い出したように言った。
「昨日のあれ,使えないの?」
「あれ?」
「熱を動かすやつ」
「あ」
理人の手が止まる。
「忘れてた?」
「少し」
「昨日,あれだけ試してたのに?」
「料理になると,いつものやり方で考えてました」
確かに,《熱交換》が使えるかもしれない。
昨日は石と水の間で熱を移し,今日は炒めた涙玉を冷ますのにも使った。ならば,鉄板の熱を調整することくらいはできるのではないか。
とはいえ,今の理人にできるのは,触れているもの同士で少しずつ熱を移す程度だ。ハンバーグの中心だけを狙って温めるなどという器用な真似ができるとは思えない。
「とりあえず,熱すぎる場所を少し下げられるか……」
濡らした布を折り重ね,鉄板の端へ慎重に当てる。直接触れれば火傷するが,これなら一瞬程度は持てる。
鉄板から,濡れた布へ。
そう意識する。
じわりと布が温まり,水分が湯気になった。鉄板側の変化は,触れられない以上はっきりとは分からない。それでも,少なくとも熱は移っているらしい。
「どう?」
「少しは下がった……と思います」
「思う?」
「確かめようがないので」
「便利なんだか不便なんだか」
「まだ使い始めて二日目ですから」
「それもそうだね」
今度は木べらをハンバーグへ当て,熱を内側へ送れないか試してみる。
鉄板から肉へ。外側から,中へ。
意識してみるが,こちらはさらに曖昧だった。どこへどれだけ熱が動いたのか,理人自身にもよく分からない。額に汗が浮かぶほど集中してみたものの,肉の中心だけが都合よく温まる気配はなかった。
「……無理か」
「駄目?」
「少なくとも,今の自分には細かすぎます」
能力があるからといって,料理の失敗まで都合よく消せるわけではないらしい。
結局,理人は鉄板の熱すぎる場所から少しずつ逃がしながら,何度も肉の位置を変えて焼いた。途中で断面を確認し,さらに焼く。ようやく赤みがほとんど見えなくなった頃には,最初にあったきれいな焼き色はすっかり失われていた。
片側は濃い茶色を通り越し,一部が黒くなっている。割れ目からは,もうほとんど汁も出てこない。
「よし」
「よし?」
「今度こそ」
「さっきも聞いた気がするね」
理人は皿へ戻した。
「食べる?」
「食べます」
作った本人が食べないわけにはいかない。
匙で小さく切り分け,まず匂いを確かめる。焦げた肉に黒香子が混じり,その奥から涙玉の甘い香りがわずかに残っていた。
匂いだけなら,まだ期待できなくもない。
「いただきます」
口へ入れる。
噛む。
さらに,もう一度噛んだ。
「どう?」
マルタに聞かれ,理人は少しだけ考えた。
だが,言葉を選ぶ必要はなかった。
「まずいです」
「あはははは!」
マルタが腹を抱えて笑った。
「笑わなくても」
「作った本人が,そんな真面目な顔で言うからだよ!」
「いや,これはまずいです」
理人はもう一切れ口へ運んだ。失敗を認めたくないのではなく,何がまずいのかを確かめたかった。
やはり,まずい。
まず気になるのは肉の硬さだった。細かくしたつもりなのに粒がかなり不揃いで,噛んでいると時折,筋らしきものが歯に当たる。細かい部分は元の薄切り肉より食べやすくなっているが,粗く残ったところとの差が大きい。
「肉が硬い」
「角猪だからね」
「細かくしたら,もう少し食べやすくなると思ったんですけど」
「細かくなってないところも多いからね」
マルタが匙の先で断面を示す。確かに,細かく刻めた部分と,塊のまま残った部分が混じっていた。
「それに,ぱさぱさしてる」
「焼きすぎたのもありそうです」
「脂もそんなに多くなかっただろ」
「刻んで足したんですけど,焼いてる間に流れましたね」
亀裂から流れ出していた汁を思い出す。
もともと脂が少ない肉だったのか,加え方が悪かったのか,それとも焼き方の問題なのか。おそらく一つではない。
理人は次の一口を噛み,別の違和感に気づいた。
「……パンも変だな」
「肉にパンなんか入れるからじゃない?」
「本来は邪魔しないんです」
「でも邪魔してるよ」
「してますね」
砕いたパンの粒が粗かったせいか,ところどころに柔らかい塊が残っている。肉と一体になっているというより,肉の間にふやけたパンが挟まっているような食感だった。
さらに場所によっては,妙に水っぽい。涙玉の甘さそのものは悪くないのに,周囲の肉が緩く,味まで薄く感じる。
「涙玉,多かったですかね」
「量もそうだけど,あれだけ汁が出るなら,入れ方を考えた方がいいかもね」
「炒めたあと,もっと水分を飛ばした方がよかったかな」
「それか,入れる量を減らすか。肉との相性もあるだろうね」
マルタは簡単に答えを決めつけなかった。
理人も同じだった。今の一回だけで原因を断定するには,分からないことが多すぎる。
「塩も,ちょっと足りない気がします」
「なら足せばいいじゃないか」
「今からなら表面の味は変えられますけど……」
そこで,理人は手を止めた。
塩。
日本で見た料理動画の記憶を探る。肉へ先に塩を入れ,粘りが出るまで混ぜていた動画があった気がする。そのあとで,涙玉に当たる玉ねぎやパンを加えていたような。
「……最初に肉と塩だけで練るんだったか?」
「何?」
「いや,作り方です」
自分はどうしたか。
肉も塩も涙玉もパンも卵も,ほとんどまとめて入れて混ぜた。
「全部一緒に入れたな……」
「駄目なの?」
「分かりません。ただ,順番があった気がするんですよ」
「あるなら,何でその通りにしなかったのさ」
「ちゃんと覚えてなかったので」
「駄目じゃないか」
「それはそうです」
理人は苦笑した。
動画を見ながらなら普通に作れた。何度もやったことがあるから,作り方も覚えているつもりだった。
だが,なぜその順番なのかまで説明しろと言われると怪しい。
「今度,ちゃんと調べます」
「どうやって?」
「……」
インターネットはない。
スマートフォンに何か料理動画が残っていたとしても,都合よくハンバーグの作り方が保存されている可能性は低い。
「記憶を掘ります」
「大変だねえ」
「大変です」
理人は苦笑しながら,焦げの強い部分も一口だけ食べた。
「……苦い」
「焦げてるからね」
「それだけじゃないかも」
眉を寄せる。
朝に食べた角猪の薄切り肉も硬かったが,肉そのものの味は悪くなかった。今は焦げの苦味に混じって,それとは少し違う感覚が舌の奥に引っかかる。
昨日,生の角猪肉を確かめたときに感じた,あの薄い苦味に少し似ていた。
「……これも,残ってるのか」
「何が?」
「昨日から自分が感じてる,変な味です」
「魔力かもしれないってやつ?」
「まだ分かりません」
理人は首を振った。
「焼けば変わると思ってたんですけど,完全になくなるわけでもないみたいです」
「変な舌だねえ」
「自分でもそう思います」
マルタも一口食べ,しばらく無言で噛んだ。
「どうです?」
「硬いね」
「はい」
「焼きすぎて,ぱさぱさしてる」
「はい」
「パンの塊も変だ」
「はい」
「焦げてる」
「はい」
「でも……」
そこでマルタは,もう一口食べた。
「何です?」
「面白いね」
理人は顔を上げた。
「面白い?」
「肉をわざわざ細かくして,また固めるなんて,最初は何のためにやるのか分からなかったけど」
マルタは匙で崩れたハンバーグを押し,細かい部分を掬う。
「ここなんかは,普通に焼いた角猪より食べやすい」
「筋が残ってないところですね」
「そうだね。角猪は焼くと硬いけど,細かくすれば食べやすくなる部分はある」
理人も同じ場所を食べてみる。
確かに,全体としては失敗しているが,細かく刻めた部分だけを見れば悪くない。粗い筋もなく,焼きすぎてさえいなければ,もっと柔らかくなっていたかもしれなかった。
「肉の場所とか,脂の入れ方とか,もう少し変えたら違うかもしれないね」
「そう思います?」
「料理なんて,最初から完成する方が珍しいよ」
「自分,ハンバーグなら何度も作ったことあるんですけどね」
「この肉で?」
「ないです」
「この涙玉で?」
「ないです」
「このパンで?」
「ないです」
「この火で?」
「ないです」
「じゃあ初めてじゃないか」
理人は答えようとして,黙った。
言われてみれば,その通りだった。
「……確かに」
日本では何度もハンバーグを作った。だから,自分はハンバーグを作れると思っていた。
けれど,今回使った肉も,涙玉も,パンも,乳も違う。火も道具も違えば,肉を挽くことすらできていない。
同じなのは,理人が頭の中で「ハンバーグ」と呼んでいる料理の形と,大まかな手順くらいだった。
条件が違うのに,同じ結果だけを期待した。
数学の問題なら,前提が変われば同じ解き方が通用するとは限らない。当たり前のことなのに,料理ではそれを忘れていたらしい。
「……やり直したいな」
「また作る?」
「作ります」
理人は即答した。
マルタが笑う。
「好きなんだねえ,その料理」
「好きです」
「何でそこまでやるんだい?」
理人は一瞬だけ考えた。
特別な理由があっただろうか。
家族との忘れられない思い出があるわけでもない。人生を変えた一皿だったわけでも,何か特別な約束があるわけでもない。
答えは,最初から決まっていた。
「おいしいからです」
マルタがしばらく黙る。
「それだけ?」
「それ以外に必要ですか?」
「いや」
マルタはまた笑った。
「分かりやすくていいね」
「自分もそう思います」
理人は失敗作をもう一口食べた。
やはりまずい。
ただ,最初に食べたときほど嫌ではなかった。
◇
結局,失敗したハンバーグは捨てなかった。
マルタは皿に残った肉を匙でさらに細かく崩すと,鍋へ放り込んだ。
「何してるんです?」
「煮込む」
「ハンバーグを?」
「もう崩れてるじゃないか」
「それはそうですけど」
「まずいものは,食えるようにすればいいんだよ」
鍋には残っていた野菜と煮汁を足し,肉が固まっている部分はさらに小さくほぐす。マルタは味を見ながら塩を加え,香草を一つまみ,黒香子もほんの少しだけ振った。
理人が横から眺めている間にも,煮汁を吸ったパンの塊は崩れ,涙玉の甘みも汁へ溶けていく。焼きすぎた肉そのものが元に戻るわけではないが,細かくして温かい煮汁と一緒に食べれば,先ほどまでのぱさつきはずいぶん気にならなくなりそうだった。
マルタは火の具合を見ながら鍋をずらし,しばらく煮込んだあと,匙で一口すくう。
「うん。こんなもんだね」
器へよそい,理人に差し出した。
「食べてみな」
「いただきます」
肉と煮汁を一緒に口へ入れる。
「……うまい」
「だろ?」
悔しい。
「自分が作ったときより」
「当たり前だよ。何年飯作ってると思ってるんだい」
「ですよね」
失敗作だったはずの肉が,普通においしい煮込みへ変わっている。
筋が残っている部分はまだ少し硬い。それでも,小さく崩して汁と一緒に食べれば先ほどとはまるで印象が違った。パンも涙玉も,単体で邪魔をしていたときとは違い,煮汁の中ではそれほど気にならない。
理人は匙を動かしながら,鍋を見る。
「料理って,すごいですね」
「今さら何言ってるんだい」
「いや……本当に」
少し笑った。
自分は料理ができると思っていた。
実際,日本で家庭料理を作るだけなら,それなりにはできたと思う。
だが,それは知っている材料と,知っている道具と,知っている火を使っていたからでもある。
知らないものを前にしたら,まずその性質を知らなければならない。
失敗した肉でも,扱い方を変えれば食べられる。逆に,日本で覚えた作り方でも,材料が違えば簡単に失敗する。
「次は,肉からですね」
理人が呟くと,マルタが首を傾げた。
「肉?」
「角猪がどういう肉なのか,ちゃんと知りたいです」
「食べたじゃないか」
「食べただけです」
「違うの?」
「たぶん,全然違います」
理人は匙を置き,昼間に刻んだ肉を思い出した。
「どこの肉が硬いのか。どこに脂が多いのか。全部同じ味なのか。そもそも,自分が今日使った肉が角猪のどの部分だったのかも知りません」
「急に料理人みたいなことを言うね」
「料理人じゃないです」
「知ってるよ」
「でも,作りたいので」
温かい煮汁を飲む。
今度は,きちんとおいしい。
「あと,肉をもう少しちゃんと細かくしたいです」
「包丁じゃ駄目?」
「駄目ではないですけど,今日だけでかなり疲れました」
それ以上に,粒が揃わない。筋も残る。
「肉を挽く道具が欲しいです」
「また,みんさー?」
「はい」
「鍛冶屋にでも聞いてみたら?」
「作れますかね」
「説明できればね」
説明。
その言葉に,理人は黙った。
肉挽き器の形なら覚えている。
肉を入れる筒があって,横にハンドルがあり,中には確か螺旋状の部品が入っていた。その先に刃らしきものと,穴の開いた板がついている。
ただし,それだけだった。
何となく見たことがある。
何となく構造も想像できる。
だが,それを鍛冶屋へ渡して作ってもらえるほど正確に説明できるかと言われれば,怪しかった。
「……図なら,描けるかもしれません」
「なら描いてみれば?」
「そうします」
◇
その夜,理人は部屋の机に座っていた。
紙は貴重だと聞いていたので,マルタから使い古しの帳簿を一枚もらい,文字の書かれていない余白を使う。ボールペンを取り出すと,記憶にある肉挽き器の形を描き始めた。
「ミンサー……」
入口。
筒。
ハンドル。
出口。
そこまではいい。
「中,どうなってたっけ」
手が止まる。
確か,螺旋状の何かが入っていた。肉を前へ押し出すためのものだったはずだ。
その先に刃がある。
そして,穴の開いた板。
「刃って,どう回ってたんだ?」
ハンドルを回せば,中の螺旋も回る。それは分かる。
では,刃はどこについていたのか。板との距離はどれくらいか。肉を押す力だけで切れるのか。それとも,刃そのものが回転していたのか。
記憶を頼りに描いてみる。
見直す。
「……分からん」
自分で描いた図なのに,これで肉が挽けるとは到底思えなかった。
理人は椅子の背にもたれた。
数学なら,知らない問題でも条件を整理すれば,どこまで分かっていて,どこから分からないかを切り分けられることがある。
だが,知らない機械の内部構造は,考えただけでは出てこない。
「見たことがあるだけで作れるなら,世の中の人,もっといろいろ作れるよな」
当然の話だった。
冷蔵庫も,自動車も,スマートフォンも毎日のように使っていた。それでも,一から作れと言われれば何もできない。
肉挽き器も同じだ。
当たり前に使える形になるまでには,誰かが寸法を考え,材料を選び,何度も試したのだろう。
理人は紙の上の,肉挽き器らしき何かを見る。
「これは作れないな」
少なくとも,今すぐには無理だった。
ならば,もっと単純な方法を考えるしかない。
肉を切る。叩く。潰す。
今ある道具で,もう少し均一に細かくする方法はないか。
少し考えてみたが,すぐには答えが出なかった。昼間に大量の肉を刻んだせいで腕も重く,今日はもう頭も働きそうにない。
理人は紙を机の端へ置き,ベッドへ横になった。
目を閉じる。
すると,昼間に作ったハンバーグが頭へ浮かんだ。
不揃いな肉には筋が残り,水分が多すぎて崩れ,どうにか火を通そうとした結果,外側は焦げて中身はぱさついた。パンも肉へ馴染まず,塩の入れ方や混ぜ方にも怪しいところがある。
けれど,どれも今のところは原因の候補でしかない。
まず確かめるべきなのは,もっと手前だ。
今日使った角猪の肉は,そもそもどこの部位だったのか。
どの部分が硬く,どこに脂があるのか。
部位によって味も違うのか。
そして,一頭の角猪が,どう解体されて肉になるのか。
「……まず,肉そのものを知らないとな」
そこからだった。
条件が違うなら,条件を確認すればいい。
次は今日より,少しましにする。
理人はそう決めて,わずかに笑った。
異世界へ来て三日目。
帰る方法はまだ分からない。魔法も,この世界のこともほとんど知らず,文字すら読めない。
それなのに,明日いちばん確かめたいのは,角猪という肉のことだった。
どうすれば,この肉でおいしいハンバーグを作れるのか。
悪くない。
そう思いながら,理人は目を閉じた。




