第4話 ハンバーグを作りたい
翌朝,理人は目を覚ますと,しばらく天井を見上げていた。
木の板張りの天井に,見慣れない太い梁。背中には,少し硬いベッドの感触がある。
「……夢じゃないな」
昨日も似たようなことを考えた気がする。ただし,昨日目を覚ました場所は森の地面だったので,夢かどうかを確かめている余裕などなかった。
窓の外はまだ薄暗い。腕時計を見ると,午前五時四十八分だった。日本にいた頃なら,平日の起床時間と大して変わらない。
教師という仕事は朝が早い。異世界へ来ても,体内時計までは変わらなかったらしい。
起き上がると,体のあちこちが重かった。昨日は角猪から全力で逃げ,宿では皿を洗い,野菜の皮を剥き,夜には石と水を使ってよく分からない力まで試した。
「筋肉痛になるよな……」
特に右の太腿が痛い。
二十五歳。まだ若いつもりではいるものの,日頃から運動しているわけではない。
理人は軽く体を伸ばしてから,一階へ降りた。
厨房には,すでに火が入っていた。竈では薪がぱちぱちと爆ぜ,大鍋から湯気が上がっている。
「早いね」
鍋をかき混ぜていたマルタが,肩越しに振り返った。
「普段もこのくらいなので」
「教師ってのは,朝から働くのかい?」
「学校は早いです」
「子ども相手も大変だねえ」
「大人相手よりは,話が通じることもあります」
「それ,子どもを褒めてるのかい?」
「半分くらいは」
昨日,ミレナに言われた言葉を少し変えて返すと,マルタが声を上げて笑った。
「朝飯,そこに置いてあるよ」
「ありがとうございます」
木の皿には,厚く切ったパンと焼いた卵,それから薄切りの肉が載っていた。
席についた理人は,まず卵を見る。鶏卵より一回り大きく,黄身の色も濃い。
「これ,何の卵ですか?」
「斑鳥」
「まだ知らない生き物が増えた」
「そのうち慣れるよ」
塩を少し振って食べてみると,味は普通に卵だった。鶏卵より少し濃厚な気はするが,驚くほど違うわけではない。
続いて,隣の肉を指した。
「これは?」
「昨日の角猪」
理人の手が止まる。
「もう出るんですね」
「塩漬けにする前に,いいところだけ少し取ったんだよ」
「なるほど」
一切れ口へ入れ,噛む。
「……硬い」
「だから言っただろ」
マルタが笑う。
噛み切れないほどではないが,森鹿の肉と比べると明らかに繊維が強い。味そのものは悪くなく,しっかりとした肉の旨味があり,脂の部分にはわずかな甘みもある。ただ,飲み込むまでの時間が長かった。
「焼くなら,かなり薄くするか,先に叩いた方がよさそうですね」
「煮込む方が楽だけどね」
「確かに」
もう一切れ噛みながら,理人は昨日のことを思い出した。
生の角猪へ触れたときに感じた,舌の奥へ残るような妙な苦味。だが,いま口にしている肉からは,そんな感覚はない。
「……不思議だな」
「何が?」
「昨日,生の肉に触ったとき,苦い感じがしたんです」
「食べたときじゃなくて?」
「はい。今は普通の肉です」
「変な舌だねえ」
「自分でもそう思います」
何か違いがあるのだろうが,まだ判断材料が足りない。理人はひとまず考えるのをやめ,残りの朝食を食べた。
皿を片づけようと立ち上がったところで,昨日から考えていたことを思い出す。
「マルタさん」
「何だい?」
「昨日言った肉料理,作ってみてもいいですか?」
鍋をかき混ぜていた手が止まった。
「はんばーぐ?」
「はい」
「急だね」
「昨日から考えてました」
「材料は?」
「それを確認したいです」
「作り方を知らないのかい?」
「作り方は分かります」
そこまで言ってから,理人は少し考えた。
「……大体」
「急に不安になったよ」
「自分も少し」
「作る本人が不安になるんじゃないよ」
呆れたように笑いながら,マルタが手招きする。
「じゃあ,言ってみな。何がいる?」
「まず肉ですね」
「それはある」
「それから玉ねぎ」
「たまねぎ?」
「丸くて,外の皮が茶色っぽくて,切ると目が痛くなる野菜です」
「ああ,涙玉ね」
「あるんですね」
「あるよ」
名前こそ違うが,かなり近いものらしい。
「卵も使います」
「それもある」
「パン粉は……パンを細かくしたものなんですけど」
「そんなものは売ってないよ」
「パンはありますよね?」
「古いのでよければ」
「なら作れます」
ここまでは思ったより順調だった。
「それと牛乳……じゃなくて,家畜の乳はありますか?」
「あるにはあるよ」
「よかった」
「ただ,高いよ」
「高いんですか?」
マルタは鍋から匙を上げ,味を確かめてから答えた。
「この辺じゃ,乳をたくさん取れる家畜はあまり飼わないからね。町に入ってくるのは,西の草原の方から来るものが多いよ」
「西に草原があるんですね」
「広いらしいよ。あたしは行ったことないけどね」
「チーズもその辺から?」
「ものによるね。うちで使う山羊のチーズなら近くの村から来るけど,乳をたくさん使うものは西の品が多いよ」
西の草原。
頭の中に,それまで知らなかったこの世界の地図がほんの少しだけ広がった。
「あと,塩と胡椒」
「塩はある。胡椒っていうのは?」
「黒い粒で,少し辛くて,香りの強い香辛料です」
マルタは少し考えてから,棚の方へ顎を向けた。
「黒香子のことかね」
「たぶん,それに近いです」
「あるけど,高いよ」
「また高い」
思わず言うと,マルタが笑った。
「香辛料は南の森林地帯を越えて運ばれてくるものが多いからね。塩みたいにじゃぶじゃぶ使うものじゃないよ」
「南は森林,西は草原……」
理人は小さく笑った。
「何だい?」
「いや,ハンバーグ一つ作るだけで,いろんな土地のものを使うんだなと思って」
「はんばーぐとやらが贅沢な料理なんじゃないのかい?」
「日本だと,そこまででもないんですけどね」
少なくとも,理人が作っていたものはそうだった。
スーパーで買ったひき肉に玉ねぎ,卵,パン粉,牛乳。それぞれがどこから来たものなのかなど,いちいち考えたことはほとんどない。
ここでは,同じような材料を一つ集めるだけでも,少し遠くの土地が顔を出す。
それが,何となく面白かった。
「他には?」
「ナツメグがあれば使いたいです」
「何だい,それ」
「香辛料です。木の実みたいな……たぶん」
「たぶん?」
「使ったことはありますけど,実物を丸ごと見たことはなくて」
マルタが呆れた顔をする。
「知らないねえ」
「ですよね。なくても作れます」
「じゃあ,なくていいじゃないか」
「日本だと入れる人も多いんです」
「ニホンは遠いんだろ?」
「たぶん,かなり」
「なら,ないものは仕方ないよ」
「その通りです」
理人は頷いた。
ないものは,ない。日本で料理していたときだって,レシピ通りの材料がすべて揃うとは限らなかった。白ワインがなければ料理酒で済ませたこともあるし,生クリームの代わりに牛乳を使ったこともある。
問題は,代用できるものと,できないものを見極められるかどうかだった。
「それと,肉を細かくする道具はあります?」
「包丁」
「ですよね」
「他に何を使うんだい?」
「自分のところには,肉を入れて取っ手を回すと,細かくなって出てくる道具があったんです」
理人は空中でハンドルを回す真似をした。
マルタが怪訝そうにそれを見る。
「魔道具?」
「いや,手で回します」
「手で?」
「はい」
「じゃあ,包丁で切ればいいじゃないか」
「少ない量なら,たぶんその通りです」
あまり便利さは伝わらなかったらしい。実物を見たことがないのだから,当然といえば当然だった。
「包丁でやります」
「できるのかい?」
「やったことはあります」
正確には,一度だけだ。
料理動画を見て,豚の細切れ肉を包丁で叩き,つくねのようなものを作ったことがある。しかし,ハンバーグ一個分以上の肉を手で細かくした経験はない。
「……たぶん」
「また不安になる言葉が出たね」
「実際にやってみれば分かります」
「教師らしくないねえ」
「数学でも,手を動かしてから考えることはあります」
「料理と一緒にするんじゃないよ」
理人は笑った。
◇
朝の仕事が一段落すると,マルタが使ってもいい食材を作業台へ出してくれた。
まずは角猪の肉だった。赤身が多い塊と,白い脂の部分が少しずつ分けられている。
「この辺なら使っていいよ」
「ありがとうございます」
「ただし,失敗したからって捨てるんじゃないよ」
「食べられる状態なら食べます」
「食べられない状態にしないでおくれ」
「努力します」
「だから不安なんだよ」
肉の次は涙玉だった。外見は玉ねぎによく似ているが,一回りほど大きい。
皮を剥いて半分に切ると,すぐに鼻の奥がつんとした。
「……あ」
「何だい?」
「目に来ました」
「涙玉だからね」
「かなり玉ねぎに近いです」
知らない世界で,知っているものに近い食材を見つける。そのことが妙に嬉しかった。
パンは昨日の残りで,かなり硬くなっている。
「これも使っていいんですか?」
「好きにしな。どうせそのままじゃ固すぎる」
「ちょうどいいです」
手で割ろうとして,理人はすぐに前言を少し後悔した。
「……硬いな」
「昨日の残りだって言っただろ」
「日本の食パンを想像してました」
「知らないよ,そんなもの」
「ですよね」
包丁で削るようにして細かくしてみるが,日本のパン粉のようにはならない。粉というより,小さく砕いたパン屑だった。
もう少し細かくした方がいい気はする。
とはいえ,これ以上続けるとパンを削るだけでかなり時間がかかりそうだった。
「まあ……これくらいでもいけるか」
口に出してから,自分でも少し怪しいと思った。
卵と乳も少量ずつ用意してもらい,最後にマルタが棚から黒い粒の入った小瓶を持ってくる。
「これが黒香子」
「高いんですよね?」
「失敗したら,代金は働いて返しな」
「急に緊張してきました」
「大事に使いな」
「はい」
一粒を指先で潰して匂いを嗅ぐと,鼻へ抜ける鋭い香りがした。
「胡椒にかなり近い」
「だから,そのコショウってのが分からないんだよ」
「自分の国の呼び方です」
「なら,あたしが知るわけないだろ」
「それもそうですね」
作業台には,角猪の肉と脂,涙玉,砕いたパン,卵,乳,塩,黒香子が揃った。
「……かなり揃ってるな」
「何が?」
「自分が知っているハンバーグの材料です」
「じゃあ,作れるじゃないか」
「そうですね」
答えながら,改めて材料を見る。
スーパーで買っていた合挽肉とは違う。そもそも,これはまだ肉の塊だ。脂の割合も分からない。
涙玉も玉ねぎそのものではなく,パンはパン粉になりきっていない。乳も日本で使っていた牛乳と同じものとは限らず,黒香子も胡椒に似た別の香辛料だ。
「同じじゃないな」
「何が?」
「材料です」
「そりゃそうだろ」
マルタは当然のように言った。
「同じ涙玉だって,採れる場所や時期で水っぽさは違うよ。肉なんてもっと違う」
「ですよね」
正論だった。
本当なら,一つずつ確かめてから配合を考えた方がいいのかもしれない。肉の脂がどれくらい必要なのか,涙玉からどの程度水が出るのか,このパンが乳をどれだけ吸うのかも分からない。
料理動画で,肉の温度だの練り方だの,いろいろ説明していた人もいた気がする。
ただ,理人は料理人ではない。
ハンバーグは何度も作ったことがあるが,普段はレシピを見たり動画を確認したりしながら作っていた。すべての工程を,理由まで含めて覚えているわけではない。
それでも,目の前には材料が揃っている。
そして何より,作ってみたかった。
「……やります」
「最初からそのつもりだったんだろ?」
「そうですね」
自分でも少し笑って,理人は包丁を握った。
まず角猪の赤身を細く切り,向きを変えてさらに細かくする。そこから包丁で叩き始めた。
とん,とん,とん,と一定の音が作業台へ響く。
数十秒ほどで,すぐに問題が分かった。
「……硬い」
刃が筋に当たるたび,手へ鈍い抵抗が返ってくる。
「角猪だからね」
別の作業をしていたマルタが横から肉を覗き込み,白っぽい筋の一本を指で示した。
「そこは先に外した方がいいよ。筋ごと細かくしようとすると,刃が負ける」
「こうですか?」
「そう。肉の向きも見な。長い筋を残すと,焼いたときにも硬いよ」
理人よりずっと手慣れた指が,肉の繊維をなぞる。
「なるほど……」
言われた通り,大きな筋を外してから叩き直す。
少し楽になったものの,楽というだけで簡単になったわけではなかった。
とん,とん,とん。
腕が重くなる。
細かくなった部分を寄せ,大きな部分をまた叩く。日本の包丁より厚く重い刃は力をかけやすい反面,細かく刻むには慣れが必要だった。
「……ミンサーって偉大だな」
「みんさー?」
「さっき言ってた,肉を細かくする道具です」
「ああ」
「今,心から欲しいです」
「そんなにかい?」
「かなり」
マルタが笑った。
しばらく続けると,何とかひき肉らしい見た目にはなった。ただし,よく見ると細かい部分と大きな粒が混じっている。
もう少し叩くべきか迷ったが,腕もかなり疲れている。
「まあ……肉感があるタイプということで」
「自分に言い聞かせてないかい?」
「多少は」
次は脂だった。
角猪の脂を少量刻み,赤身へ混ぜる。
そこで手が止まった。
「……どのくらいだ?」
日本でハンバーグを作るときは,店で売られている合挽肉をそのまま使っていた。牛が何割で豚が何割,脂肪が何パーセントなど,細かく考えたことはない。
脂の少ない肉なら牛脂を足すとおいしくなる,という話なら動画で見た覚えがある。
では,どれくらい入れればいいのか。
そこまでは覚えていなかった。
「もう少し入れるか……?」
独り言を聞いたマルタが,肉を一瞥した。
「角猪の脂は,冷めるとけっこう固くなるよ」
「じゃあ,入れすぎない方がいい?」
「それは,何を作りたいかによるね」
もっともな答えだった。
「……最初は少なめにします」
失敗したら次に変えればいい。
そう決めて,理人は脂を混ぜた。
次は涙玉を刻む。
包丁を入れるたびに刺激が強くなり,すぐに目が痛くなった。
「これは日本と一緒だ……」
「泣いてるじゃないか」
「泣いてません。玉ねぎです」
「涙玉だよ」
「それです」
袖で目元を拭うと,マルタがまた笑った。
みじん切りにした涙玉を小さな鉄鍋へ入れ,竈の上に置く。
薪火は,日本のガスコンロのように火力をつまみ一つで変えることができない。昨日から見て多少は分かったつもりだったが,鍋を置いた途端に底から強い音がした。
「そこは強すぎるよ」
「やっぱり?」
「もう少し端へ寄せな。真ん中は煮込み用だよ」
マルタに言われて鍋をずらすと,音が少し落ち着いた。
木べらで涙玉を混ぜる。
じゅう,という音とともに立ち上がってきた香りに,理人は思わず口元を緩めた。
「おお……」
「何だい?」
「知ってる匂いです」
「ただの涙玉じゃないか」
「自分には結構大事なんです」
炒めているうちに白かった粒が透き通り,少しずつ色づいていく。ただ,日本の玉ねぎを炒めたときよりも,鍋の底へ水分が出ている気がした。
「けっこう水が出ますね」
「今の時期の涙玉は水気が多いよ」
「もう少し飛ばした方がいいかな」
水気が残りすぎれば,肉だねが緩くなるような気がする。
もう少し炒め,鍋底の水分がだいたい見えなくなったところで,理人は火から外した。
「こんなものかな」
本来なら,ここから冷ます。
熱い玉ねぎをそのまま肉へ入れるのはよくなかったはずだ。肉の脂が溶けるからだったか,傷みやすくなるからだったか。理由は曖昧だが,冷ましてから混ぜるという工程は覚えている。
そこで,昨日試した力を思い出した。
「……これ,使えるな」
「何が?」
マルタが振り向く。
「ちょっと試してみます」
理人は鍋を石の台へ移した。
片手を熱の残る鍋の取っ手へ添え,もう片方の指先を,そばに置いてあった水の器へ入れる。
昨日と同じだ。
熱い方から,冷たい方へ。
二つの間で,熱を移す。
そう意識する。
「……」
じわりと,感覚がつながった。
昨日,石と水で試したときよりも分かりやすい。
しばらくすると,指を入れている水が少しずつぬるくなってきた。一方で,鍋から伝わってくる熱は弱くなっていく。
「本当に冷めてるねえ」
マルタが鍋へ手を近づけ,感心したように言った。
「自分でも,思ったより使えそうです」
数十秒ほど続けたところで止める。
完全に冷たくなったわけではない。ただ,肉へ混ぜても問題なさそうな程度には熱が下がっていた。
「これなら,待つ時間を短くできるな」
少し嬉しかった。
異世界へ来てから手に入ったらしい力が,初めて自分のやりたいことに役立った。
敵を倒したわけでもない。巨大な炎を出したわけでもない。
ただ,炒めた涙玉を少し早く冷ましただけだ。
それでも,理人には十分だった。
「いい能力かもしれない」
「何て魔法なんだい?」
「分かりません」
「名前は?」
「昨日初めて使えたので,まだ」
「じゃあ,自分でつければいいじゃないか」
「そんなものなんですか?」
「固有能力なら,呼び方なんて本人次第だよ」
聞き慣れない言葉に,理人は顔を上げた。
「固有能力?」
「そこから知らないのかい?」
「知りません」
「本当に何も知らないねえ」
「自覚はあります」
マルタは呆れながらも,作業の手を止めずに説明した。
「普通の魔法とは違う,本人だけが使える変わった力のことさ。生まれつき持ってる人もいるし,ある日急に使えるようになる人もいる。珍しくはあるけど,おとぎ話ってほどじゃないよ」
「例えば?」
「触ったものの重さを変えたり,動物の言葉が分かったり,怪我をした場所を見つけたり。人によってばらばらだね」
「だから固有能力なんですね」
「そういうこと」
理人は冷めた鍋を見る。
熱いものから冷たいものへ熱を移す。今のところ,できるのはそれだけだ。
「じゃあ……《熱交換》で」
「ねつこうかん?」
「そのままですけど,分かりやすいので」
「ずいぶん堅い名前だねえ」
「自分が分かればいいです」
「教師だねえ」
何をもって教師らしいのかは分からないが,マルタは楽しそうだった。
理人は冷ました涙玉を肉へ加え,先ほど砕いたパンへ少量の乳をかける。
「それ,本当に入れるのかい?」
「はい」
「肉にパンを?」
「入れます」
「変わってるねえ」
「自分も最初に知ったときはそう思いました」
硬いパンは乳を吸って少し柔らかくなったものの,大きな粒はまだ残っている。
卵を割り,塩と黒香子も用意する。
そこで,理人の手が止まった。
「……塩って,先だったかな」
肉だけを塩で先に練って粘りを出す,という話を聞いた覚えがある。
いや,全部一緒に入れて混ぜるレシピもあったはずだ。
普段は動画やレシピを横に置いて作ることが多かったため,工程の意味まできちんと記憶していない。
「何を悩んでるんだい?」
「混ぜる順番です」
「違うとどうなるの?」
「……少し変わるはずです」
「何が?」
「そこまでは覚えてません」
「頼りないねえ」
「自分でもそう思います」
結局,理人は卵,柔らかくしたパン,涙玉を肉へ入れ,塩と黒香子も加えた。
手を洗い,肉だねへ指を入れる。
ひやりとした感触。
全体を掴むようにして,混ぜる。
肉と脂,涙玉,卵,パンが少しずつ一つになっていく。
「粘りが出るまで……だったよな」
手の中で肉を捏ねながら,昔見た料理動画を思い出そうとする。
何分混ぜるのか。
どこまで粘れば十分なのか。
そこまでは覚えていない。
ただ,見慣れた肉だねらしい状態にはなってきた。
「こんなものか」
理人は一個分を手に取った。
左右の手へ,ぱん,ぱん,と軽く打ちつけながら空気を抜く。
「何やってるんだい?」
「中の空気を抜いてます」
「そんなことするの?」
「焼いたときに割れにくくなる……はずです」
「はず?」
「なります」
「今,言い直したね」
「気のせいです」
楕円形に整え,中央を指で少しくぼませる。
手の中に,見慣れた形ができた。
「これが?」
「ハンバーグです」
「まだ生の肉じゃないか」
「焼いたら完成です」
「なるほどね」
マルタが横から覗き込む。
理人も,手の中の肉だねを見た。
表面に多少ごつごつしたところはあるが,形だけならちゃんとハンバーグに見える。
それだけで,急にうまくいきそうな気がしてくる。
「いけるな」
「自信あるのかい?」
「かなり」
口にしてから,少しだけ笑った。
肉も違う。野菜も,パンも,火も違う。それでも,形になってしまえば知っている料理に見えた。
ハンバーグだ。
日本で何度も作ったことがある。
だから,きっと大丈夫だろう。
「じゃあ,焼くかい?」
「はい」
マルタが厚い鉄板を竈へ載せた。持ち上げるだけでも苦労しそうな重さで,家庭用のフライパンとはまるで違う。
「これで焼くんですね」
「肉ならいつもこれだよ」
「フライパンみたいなのは?」
「ふらいぱん?」
「浅くて,持ち手のある鍋です」
「似たものはあるけど,わざわざ出さなくてもこれで焼けるよ」
「確かに」
鉄板が温まるにつれ,表面からじわじわと熱気が上がってくる。
理人は手をかざした。
「……この辺ですか?」
「真ん中は強いよ。肉なら,最初は少し外側でいい」
言われた位置へ薄く油を引く。
火加減を数字で設定できるわけでも,鉄板の温度を測れるわけでもない。
マルタが毎日使っている場所を信じるしかない。
「よし」
肉だねを持ち上げ,鉄板へ置いた。
じゅうっ,と勢いのある音が厨房へ広がる。
その瞬間,脂と肉の香りが立ち上がった。続いて,炒めた涙玉と黒香子の香りが混じる。
「おお……」
思わず声が出る。
理人が知っているハンバーグとは少し違う。それでも,間違いなく腹の減る匂いだった。
「いい匂いじゃないか」
「でしょう?」
少し得意になって答える。
肉だねの縁から脂が染み出し,鉄板の上で小さく弾ける。表面の色も少しずつ変わってきた。
「……いい感じ」
ここまでは,思った以上にうまくいっている。
マルタも隣から覗き込み,鼻を鳴らした。
「端が少し柔らかそうだけど,焼ければ固まるのかい?」
「たぶん」
「また出たね」
「焼いたら固まります」
今度は言い切った。
ただ,よく見ると肉の表面には粗く刻まれた粒が残り,ところどころから涙玉の小さな欠片が見えている。鉄板の下では薪が爆ぜるたびに炎が揺れ,脂の焼ける音も強くなったり弱くなったりした。
それでも,匂いはいい。
見た目も,悪くない。
「そろそろ返します」
理人は木べらを肉の下へ滑り込ませる。
少し柔らかい。
慎重に持ち上げ,一気に裏返した。
じゅうっ。
「おお」
表になった面には,しっかりとした焼き色がついていた。
濃い茶色の表面から脂が光り,見た目だけなら十分にうまそうだ。
「いいじゃないか」
「でしょう?」
マルタにも認められ,理人は少しだけ肩の力を抜いた。
思っていたより順調だ。
異世界の材料でも,ちゃんと作れるのかもしれない。
そう思った直後だった。
ぴしり。
小さな音がした。
「……ん?」
肉の中央へ,細い線が走っている。
理人が見つめている間にも,その線はゆっくりと横へ伸びていった。
マルタが隣から覗き込む。
「リヒト」
「はい」
「それ,割れてきてないかい?」
理人は答えず,鉄板の上のハンバーグを見つめた。
焼き色はいい。
匂いもいい。
形だって,まだハンバーグに見える。
ただ,中央に走った亀裂だけは,確実に広がっていた。
「……割れた」




