第3話 冷たい肉と,ぬるい水
昼を過ぎる頃には,理人の仕事が決まっていた。
正確には,三日間の試用期間が決まった,というべきだろう。
「三日」
マルタは太い指を三本立てた。
「三日働いて,使えそうならそのまま置く。駄目なら,そのときはまた考えな」
「分かりました」
「給料は最初から出せないよ。その代わり,飯と寝床」
「十分です」
「即答だね」
「今の自分には,一番必要なので」
マルタは少しだけ目を細めて笑った。
「話が早いのは嫌いじゃないよ」
宿の主人である夫にも,すでに話は通っていたらしい。
夫の名はバルド。四十代後半ほどに見える大柄な男で,昼過ぎに仕入れから戻ってくるなり,理人を一度だけ上から下まで眺めた。
「皿,割るか?」
「できれば割りません」
「ならいい」
それだけだった。
採用基準が低い。
もっとも,こちらに支払われるのは当面の飯と寝床だけだ。向こうとしても,大きな損にはならないのだろう。
理人は店の奥にある小さな部屋を与えられた。藁を詰めたらしいベッドと,小さな机に椅子,壁際には木製の棚があり,窓が一つだけついている。
日本で暮らしていたワンルームより,ずっと狭い。
だが,森の地面と比べれば何百倍もいい。
「……ありがたいな」
ベッドへ手を置くと,寝具は少し硬かった。それでも,今夜眠れる場所があるというだけで十分だった。
今朝までは自宅のベッドで寝ていたのだ。
それを考えると,今日一日の変化はあまりにも大きい。
理人は机の上に持ち物を並べてみた。財布,鍵,スマートフォン,腕時計,ハンカチ,ボールペン。それだけである。
財布の中には,日本円が一万三千円ほど入っていた。この世界では,おそらくただの紙切れだ。クレジットカードもあるが,こちらは少し高級そうな紙切れでしかない。
「スマホも,今のところ時計とカメラか」
電源を入れてみる。当然ながら圏外で,朝から変化はない。残量は七十八パーセントだった。
省電力設定を確認してから,再び電源を切る。
保存されている動画なら見られるので,運がよければ料理のレシピを確認することもできる。ただ,料理動画を片っ端から保存していたわけではない。
「もっとダウンロードしておけばよかった」
こんな理由で後悔する日が来るとは思わなかった。
財布とスマートフォンは,なくさないよう棚の奥へしまっておく。どちらも,失えば二度と手に入らない可能性が高い。
それからシャツの袖をまくったところで,
「リヒト!」
廊下の向こうから,マルタの大きな声が飛んできた。
「はい!」
「働くんだろ!」
「今行きます」
こうして,試用期間一日目が始まった。
◇
最初の仕事は,皿洗いだった。
当然といえば当然である。
料理ができると本人が言っているだけで,マルタからすれば,今朝森からやってきた正体のよく分からない男だ。いきなり包丁を握らせる方がおかしい。
「洗ったら,そこに立てて。鍋はこっち」
「はい」
「木皿は水に浸けっぱなしにしない」
「はい」
「返事だけはいいね」
「仕事なので」
「堅いなあ」
そう言いながらも,マルタは笑っていた。
厨房は,外から見た印象より広かった。奥には石と煉瓦のようなもので組まれた大きな竈が二つあり,その横に厚い木の作業台が置かれている。壁には大小さまざまな鍋や鉄板,包丁,木べらなどが掛けられ,必要な道具へすぐ手が届くようになっていた。
水場にあるのは,大きな木桶だ。
蛇口はない。
「水は?」
「その桶」
「なくなったら?」
「裏の井戸」
「なるほど」
不便ではあるが,仕組みは単純だった。水を使うなら,自分で運ぶ。それだけの話だ。
日本の飲食店で働いた経験はないものの,自炊をする人間なら皿くらいは洗える。
理人は皿に残った食べ物を木べらで落としてから,桶の水で洗っていく。洗剤らしいものは見当たらなかったが,代わりに灰を使った洗浄用の粉が置かれており,油のついた皿にはそれを使うらしい。
「これ,結構落ちますね」
「灰だからね」
「アルカリか」
「あるかり?」
「いえ,何でもないです」
高校数学教師なので,もちろん化学の専門家ではない。それでも,灰が油汚れを落とすという話くらいは,どこかで見た記憶があった。
問題があるとすれば,別のところだ。
「……水が冷たいな」
井戸水だからだろう。外の空気は日本の九月か十月頃に近く感じるが,桶の水はかなり冷たく,数枚洗っただけで指先が冷えてきた。
とはいえ,働き始めたばかりで文句を言うほどのことでもない。理人は手をこすり合わせてから,また皿を水へ沈めた。
昼時を過ぎたため,店内は比較的静かだった。それでも客が完全に途切れるわけではなく,マルタが注文を受け,バルドが料理を運んでいる。
厨房では,大鍋から絶えず湯気が上がっていた。昼に食べた森鹿の煮込みだろう。肉と野菜に香草の匂いが混じり,腹はいっぱいのはずなのに,また食べたくなる香りだった。
洗い物を続けながら,理人は自然とマルタの動きを目で追っていた。
鍋を混ぜ,匙ですくって味を確かめ,何かの粉を少し足す。それから火の様子を見て,薪を一本だけ追加する。一つ一つの動作に迷いがなく,この厨房で長く料理をしてきたことが伝わってくる。
「料理,好きなのかい?」
不意に聞かれて,理人は顔を上げた。
「え?」
「さっきから,ずっと鍋見てる」
「ああ……好きです」
「作る方?」
「食べるのもですけど,作る方も」
「何が得意?」
そう聞かれると,意外に難しい。
カレーやパスタ,唐揚げ,炒飯,鍋。家庭で作るようなものなら,大抵はそれなりに作れる。ただ,「得意料理」と言えるものを一つ選ぶなら。
「ハンバーグですかね」
「はんばーぐ?」
「肉料理です」
「どんな?」
「肉を細かくして,玉ねぎなんかを混ぜて,丸めて焼きます」
「腸詰めみたいなもん?」
「少し似てますけど,皮はないです」
「肉団子?」
「それより大きいですね」
説明してみると,思った以上に難しい。
マルタの表情を見る限り,やはり形までは想像できていないらしい。
「うまいのかい?」
「うまいです」
そこだけは迷わず即答した。
マルタが吹き出す。
「ずいぶん自信あるね」
「好きなので」
「じゃあ,そのうち作ってみな」
「材料があれば」
「肉ならあるよ」
そう言って,マルタは厨房の隅を指した。
そこには大きな木箱が置かれており,上にかけられた布をめくると,中にはいくつもの肉の塊が並んでいた。
「森鹿ですか?」
「今日は森鹿と角猪。さっきガルドが持ってきた分もある」
「もう?」
「解体は早いからね」
理人は思わず箱へ近づいた。
角猪。今朝,自分を殺しかけた魔獣である。
あれだけ恐ろしかった生き物も,毛皮や骨を取り除けば,目の前にあるのは赤い肉だった。
「触っても大丈夫ですか?」
「もういいよ。魔力も落ち着いてる」
理人は箱の端にある角猪の肉へ,そっと指先で触れた。
ひやりと冷たい。
それ自体は,生肉なのだから当然だ。
だが,次の瞬間。
「……ん?」
舌の奥に,ほんのわずかな苦味を感じた。
森で角猪と向き合ったときに感じたものとは,比べものにならないほど弱い。あの刺激を百とするなら,二か三程度だろう。
「どうした?」
「いえ」
理人はもう一度,肉へ触れてみた。
やはり,薄い苦味がある。
今度は,隣に置かれていた森鹿の肉へ指を伸ばした。
「……甘い?」
「何が?」
「いえ,何でもないです」
正確には,甘いというより,甘さに似た何かだった。食べ物の味を舌で感じるのとは少し違うのに,なぜかそう表現したくなる。
マルタが怪訝そうにこちらを見ている。
理人は肉から手を離した。
角猪では苦味を感じ,森鹿では少し甘いような感覚がある。どちらも口には入れていない。
昨日まで,もちろんこんな感覚はなかった。
自分の体がおかしくなったのか。それとも,この世界に来たことで何かが変わったのか。
今のところ,判断する材料が足りない。
「……魔力?」
小さく呟くと,マルタが振り返った。
「何だい?」
「魔獣の肉にも,魔力って残ってるんですよね?」
「そりゃ残るよ。時間が経てば薄くなるけど」
「種類によって違います?」
「もちろん」
「味にも関係しますか?」
そこで,マルタの手が止まった。
「味?」
「魔力が多い魔獣の方がうまいとか,そういうことは」
「うーん」
マルタは木べらを持ったまま少し考えた。
「強い魔獣の肉は,高く売れることが多いね」
「やっぱり」
「でも,強けりゃ何でもうまいわけじゃないよ。臭いのもあるし,硬いのもある。毒持ちなんか食えないし」
「なるほど」
「どうして?」
「ちょっと気になって」
理人はもう一度,角猪の肉を見る。
魔力が残っている。
種類によって性質も違う。
なら,今感じたものも魔力と何か関係があるのかもしれない。
ただし,今はそれ以上のことは分からない。
「……面白いな」
「何が?」
「いえ,まだ何でもないです」
結論を出すには早い。
理人は木箱から離れ,皿洗いへ戻った。
◇
夕方になると,仕事量は一気に増えた。
宿泊客が戻り,町の人間も食事にやってくる。厨房の空気も昼間とは変わり,煮込みの匂いや薪の煙,焼けた肉の香りが次々に混ざっていった。
「リヒト,そっち終わったら野菜!」
「はい」
いつの間にか,仕事は皿洗いだけではなくなっていた。
洗った皿を片づけると,理人は作業台へ移る。マルタが大きな籠を置いた。
「これは皮を剥いて,こっちは洗うだけ。切らなくていいよ」
「分かりました」
昼の煮込みにも入っていた根菜だった。
形は人参に近いが,皮は紫色をしている。借りた包丁で剥いてみると,中身は白かった。
包丁の刃は日本で使っていた三徳包丁より厚く,重心も少し違う。最初は扱いにくかったものの,皮を剥く程度なら問題はない。
「包丁は使えるんだね」
「普通くらいには」
「指切らないでよ」
「気をつけます」
それだけ確認すると,マルタは別の作業へ戻っていった。
理人は黙々と皮を剥く。
こういう作業は嫌いではない。むしろ,手を動かしている方が考えを整理しやすかった。
異世界への転移。魔獣と魔法。なぜか通じる言葉と,読めない文字。魔力らしきものを味のように感じたこと。そして,帰る方法。
考えなければならないことはいくらでもある。
ただ,今すぐ答えが出そうなものは少ない。
なら,分かることから順番に片づければいい。
七本目の根菜を剥き終わったところで,理人は顔を上げた。
「次は?」
「こっち」
マルタが今度は,大きな肉の塊を持ってきた。
角猪だった。
「表面だけ洗って」
「肉を?」
「解体のときに土がついたからね」
「分かりました」
小さな桶へ水を汲み,手を入れた瞬間,理人は思わず肩を縮めた。
「冷た……」
昼から何度も触れている水だ。
分かっていたはずなのだが,今日はすでに長い時間,冷たい水へ手を入れ続けている。指先はかなり冷えていた。
少しだけぬるければいいのに。
そう思いながら,左手を水へ入れ,右手で角猪の肉をつかんだ。
その瞬間だった。
「……?」
違和感があった。
手の中の水が,ほんの少しだけ温かくなった気がする。
理人は動きを止めた。
気のせいかもしれない。
冷えた手が水の温度に慣れただけという可能性もある。
だが,右手に持っている肉へ意識を向けると,今度はこちらが妙に冷たく感じられた。
「……さっきより?」
肉を持ち直してみる。
確信できるほど大きな変化ではない。だが,水は先ほどよりぬるく,肉は逆に少し冷たくなっているように思える。
両手を離す。
それ以上の変化は起こらなかった。
「リヒト?」
マルタの声に,理人は顔を上げた。
「はい」
「止まってるよ」
「すみません」
理人は慌てて作業を再開した。
ただ,頭の中では別のことを考えていた。
今,何が起きた?
水が温かくなり,肉が冷たくなった。
もちろん,偶然という可能性はある。水は手の熱で温まっただけかもしれないし,肉は最初からそれくらい冷えていたのかもしれない。
肉を洗い終え,次の塊を手に取る。
今度は意識してみることにした。
右手で肉を持ち,左手を水へ入れる。
さっきと同じように,水を少し温かくしたい。
「……」
何も変わらない。
もう一度,少し意識を強くしてみる。
「何してるんだい?」
「実験です」
「仕事中に?」
「……すみません」
「終わってからやりな」
「はい」
当然だった。
理人は大人しく仕事へ戻った。
◇
夜,店の仕事が終わったあと。
理人は宿の裏庭にいた。
木の机の上には,小さな器に入れた井戸水と,庭で拾った石を一つ置いている。比較するため,もう一つ同じように水を入れた器も用意した。
「……よし」
ひとまず,一人で試すことにした。
誰かに見られて説明を求められても,今の自分にはまだ説明できない。
まず,一つ目の器へ右手を入れる。
昼間のように,水を温かくしたいと考えてみた。
「……」
何も起こらない。
しばらく待ってみたが,やはり変化は感じられなかった。隣の器の水と触り比べても,大きな違いはない。
「片方だけじゃ駄目なのか」
次に,右手で石を持ち,左手を水へ入れた。
昼間は,片方に水,片方に肉があった。
同じ形にしてみる。
水を温めて,石を冷やす。
そう意識する。
「……」
すぐには何も感じない。
失敗かと思いかけた頃,左手に触れている水の感覚が,ほんの少しだけ変わった。
「お」
ぬるい。
同時に,右手の石が冷たくなっている。
「できた」
思わず声が出た。
石から手を離し,もう一方の器の水と比べてみる。
湯気が出るような変化ではない。温度計もないので正確なことは分からないが,触れば違いが分かる程度には温まっていた。
次は逆を試す。
水を冷やし,石を温める。
今度も時間はかかった。
しばらく両方へ触れたまま意識を向けていると,やがて水の冷たさが強くなった。同時に,石にはわずかな温かさを感じる。
「……逆もできるのか」
理人は石を机へ置いた。
火を出したわけではない。
何もないところから冷たさが生まれたわけでもなさそうだ。
一方が温かくなると,同時にもう一方が冷たくなる。
「熱を……移してる?」
独り言が,静かな裏庭に落ちた。
高校では数学を教えていたが,熱について専門的に学んでいたわけではない。それでも,火を起こしているのではなく,冷たくした分だけ別のものが温かくなっている,という程度なら分かる。
もう一つ,確認してみる。
理人は右手だけを石へ置いた。
「温かくなれ」
何も起きない。
今度は冷たくしようとしてみるが,こちらも変化はなかった。
「やっぱり,二つ必要か」
左手を水へ戻す。
石から水へ,熱を動かす。
そう意識すると,先ほどより少しだけ早く感覚をつかめた。
石が冷え,水がぬるくなる。
「なるほど」
まだ断定はできない。
ただ,今のところは,熱そのものを作ったり消したりしているというより,触れている二つのものの間で動かしている,と考えた方が説明しやすい。
理人は水の器を眺めた。
派手ではないが,使い道はいくつか思いつく。
水を少し冷やす。
食材を冷やす。
逆に,何かを冷やす代わりに別のものを温める。
今の程度なら大量の水や大きな鍋をどうこうするのは難しそうだが,小さなものなら役に立つかもしれない。
そこで,ふと朝の角猪が頭に浮かんだ。
「戦闘……」
敵を凍らせる。
武器を熱くする。
物語なら,そんな使い方もありそうだ。
理人は今しがた冷やした石を指先でつまんだ。
「今の速度じゃ無理だな」
小さな石の温度を少し変えるだけで,十秒以上はかかっている。
角猪が突っ込んでくるまでに,そんな時間をくれるはずがない。
しかも今のところ,二つのものへ同時に触れていなければ使えないらしい。角猪から熱を奪おうとするなら,あの角を避けながら自分から触りに行くことになる。
「却下」
少なくとも,今の段階で戦いに使おうと考えるのは現実的ではない。
それより気になるのは,別のことだった。
この力を使うと,何が減るのか。
魔力なのか,体力なのか。何度でも使えるのか,限界があるのか。
「確認するなら,少しずつだな」
突然倒れるまで試すのは馬鹿だ。
今日はすでに一度,死にかけている。
二度目は要らない。
そう考えて器を片づけようとしたところで,
「何やってるんだい?」
「うわっ」
理人は思わず肩を跳ねさせた。
振り返ると,マルタが立っていた。
「驚いた……」
「それはこっちの台詞だよ。こんな時間に水遊びかい?」
「少し試したいことがあって」
「魔法?」
「たぶん」
正直に答えると,マルタが首を傾げた。
「たぶん?」
「今日,初めてできたので」
「今日?」
今度は明らかに興味を引かれたらしく,マルタが机へ近づいてくる。
「何ができるんだい?」
理人は少し迷ってから,机の上の石を指した。
「これ,触ってもらえます?」
「石?」
「はい」
マルタが手に取る。
「普通だね」
「水も触ってみてください」
指を入れたマルタが頷いた。
「冷たい」
「じゃあ,見ててください」
理人は右手で石を持ち,左手を水へ入れた。
石から水へ。
頭の中で,昼間から何度か試した感覚を思い出す。
十秒。
さらに少し待つ。
「……おや」
マルタが眉を上げた。
「石が冷たくなった」
「水は?」
マルタが指を入れる。
「ぬるくなってる」
「やっぱり」
「熱の魔法かい?」
「最初は自分もそう思ったんですけど」
理人は石を机へ戻した。
「片方を温かくすると,もう片方が冷たくなるみたいなんです。片方だけだと,今のところ何も起きなくて」
「変なの」
「自分もそう思います」
「でも,便利じゃないか」
「そうですか?」
「そりゃそうだよ」
マルタは迷わず答えた。
「夏場なんか,肉を冷やしておくだけでも大変なんだから」
「……あ」
理人は目を瞬いた。
食材の保存には使えるかもしれないと,自分でも考えていた。
ただ,実際にこの世界で毎日料理をしている人間からすぐ同じ言葉が出ると,思いつきだったものが急に現実味を帯びてくる。
「冷蔵庫,ないですもんね」
「れいぞうこ?」
「食べ物を冷やしておく箱です」
「そんなものがあるのかい?」
「自分のところには」
「便利な国だねえ」
「便利でした」
口に出してから,自分で少し黙った。
過去形になっていた。
マルタはそこには触れず,机の上の水へ視線を戻した。
「でも,これをたくさんできるなら,肉屋が喜ぶだろうね」
「たくさんは,まだ無理だと思います」
「なら,練習すればいいじゃないか」
「そんな簡単に上達しますかね」
「魔法なんて,大体そんなもんだよ。最初から上手いやつなんて,ほとんどいないさ。使ってりゃ多少はましになる」
「そういうものなんですか」
「私は魔法なんて,火をちょっと出すくらいしかできないけどね」
「火,出せるんですか?」
「厨房じゃ便利だよ」
「十分すごいと思いますけど」
マルタが楽しそうに笑った。
「リヒトの方が変わってるよ」
「そうみたいですね」
理人も苦笑する。
この世界へ来てから,何度そう思ったか分からない。
「夜更かししすぎないでよ。明日も働いてもらうんだから」
「分かりました」
マルタが宿へ戻っていく。
一人になった裏庭で,理人は水の器を持ち上げた。
冷たいものと,温かいもの。
その間で,熱らしきものを動かす力。
まだ何ができるのかも,どこまでできるのかも分からない。
それでも,料理には使えそうだった。
肉を少し冷やしておく。水を冷たくする。何かを冷やす代わりに,別のものを温める。
今はまだ,どれも小さなことしかできない。
「……でも,結構いいかもな」
少しだけ口元が緩んだ。
異世界へ来て,自分にも何か変わった力があるらしい。
それが敵を吹き飛ばすような魔法ではなく,今のところ食材を冷やす方が役に立ちそうだというのは,少しおかしかった。
片づけを終え,理人は宿へ戻った。
自分の部屋へ向かう途中,厨房の横を通る。
そこには,明日の料理に使う角猪の肉が入った木箱が置かれていた。
朝には自分を追い回していた魔獣が,昼には肉になり,夕方には妙な力に気づくきっかけになった。
理人は足を止める。
角猪の肉は硬いと聞いた。
煮込めば食べられるのなら,それはそれでいい。
だが。
「細かくしたら,どうなるかな」
肉を細かくすれば,硬さはあまり気にならなくなるかもしれない。
刻んで,何かを混ぜて,まとめて焼く。
頭の中に,日本で何度も作った料理の形が浮かんだ。
「……ハンバーグなら,いけるんじゃないか?」
もちろん,答える者はいない。
それでも,異世界へ来て初めて,理人は明日のことを少しだけ楽しみにしながら眠りについた。




