第2話 知らない町と,知っている味
森を出るまでに,理人は三度ほど後ろを振り返った。
最初は,また角猪が出てこないか確認するため。次は,ガルドとミレナが本当に自分を町まで連れていってくれるのか,今さらながら少し不安になったため。そして最後は,単純に森の景色を覚えておこうと思ったからだった。
もっとも,角猪は現れなかったし,二人が理人を置いていく気配もない。森も振り返るたび,高い木々と暗い下草,その隙間から差し込む朝の光が見えるばかりだった。
日本であれば,森林浴という言葉が似合いそうな場所である。
ただし,角の生えた巨大な猪に追いかけ回されなければ,という条件付きだが。
「リヒト」
「はい」
「さっきから後ろばかり見てるけど,何かいる?」
前を歩いていたミレナが,腰まで伸びた草を避けながら振り返った。
「いえ。もう出てこないかなと思って」
「角猪が?」
「はい」
「あれくらいなら,森の浅いところにもたまに出るよ」
「たまに」
「毎日じゃない」
安心していいのか分からない説明だった。
理人は少し考えてから,前を歩く二人に追いつく。
「この辺だと,あれは強い方なんですか?」
「角猪?」
「はい」
ミレナは歩きながら少し首を傾げた。
「弱くはないけど,別に強くもないかな。一人で森に入るような新人なら危ないけど,慣れた二人か三人で狩るなら普通」
「……あれで?」
直径四十センチほどありそうな木を削りながら突っ込んできた巨大な猪が,普通らしい。
この世界について,新しい情報が一つ増えた。あまり嬉しくない種類の情報だった。
「ガルドさんたちは,ああいうのを普段から狩ってるんですか?」
「俺は猟師だ」
先頭を歩いていたガルドが答えた。
「町の近くの森なら,大体の魔獣は分かる。ミレナは冒険者だ」
「一応ね」
ミレナが腰の剣を軽く叩いた。
「一応?」
「まだ三年目」
「十分長くないですか?」
「上を見るとね」
理人には基準が分からない。教師三年目なら,少なくとも新人扱いされなくなり始める頃だが,冒険者の三年目がどの程度なのかは想像もつかなかった。
それより,先ほどから気になっていたことがある。
「じゃあ,ガルドさんが使ったあの光る矢も,魔法ですか?」
「魔法矢だな」
ガルドは当然のように答えた。
やはり,魔法は存在するらしい。
巨大な猪の次は魔法である。驚くべきことなのだろうが,実物をすでに見ている以上,ないと言われる方が困る。
「魔法って,普通にあるんですね」
その言葉に,ガルドの足が止まった。少し遅れてミレナも立ち止まり,二人そろって理人を見る。
「……普通にって?」
「いや,その」
理人は言葉を選んだ。
日本には魔法がありません,と説明して信じてもらえるかは分からない。そもそも,日本という国名からして二人には通じなかった。
「自分のいたところでは,見たことがなかったので」
「魔法を?」
「はい」
ミレナが目を細めた。
「本当にどこから来たの,あんた」
「それは自分も知りたいです」
しばらく理人の顔を見ていたミレナは,やがて小さく息を吐いた。
「まあ,変なやつなのは分かった」
「否定しづらいですね」
「悪いやつではなさそうだけど」
「そこはありがとうございます」
ミレナが少し笑い,再び歩き出した。
理人としては,できれば「普通の人」に分類してもらいたかった。しかし,朝起きたら森にいて,魔法を知らず,角猪に追われていた男が普通に見えるとも思えない。
「魔法は,誰でも使えるんですか?」
「誰でもってわけじゃない」
今度はガルドが答えた。
「魔力を持ってない人間はいない。ただ,持ってる量も得意なことも違うし,まともに魔法を使えないやつもいる」
「魔力は全員にある。でも,魔法を使えるとは限らない」
「そうだ。俺みたいにな」
理人はガルドの背中を見る。
「さっきの矢,かなり光ってましたけど」
「あれは俺が雷を出したわけじゃない。この弓と矢の力だ」
ガルドが手にした弓を少し持ち上げた。
「魔石を仕込んである。俺にできるのは,動かすための魔力を流すくらいだ」
「魔石」
「それも知らない?」
ミレナが振り返る。
「たぶん,知らないことの方が多いです」
「先が長そう」
「自分でもそう思います」
ミレナは少し考えてから,顎に指を当てた。
「簡単に言えば,魔獣なんかの中にできる魔力の塊。道具に使ったり,魔法の補助に使ったりするの。全部の魔獣から取れるわけじゃないけど,強いやつほど大きかったり,質がよかったりする」
理人は,倒れた角猪を思い出した。
ガルドから「魔力が残っているから触るな」と言われたばかりだ。
「あの猪にも?」
「あったよ。小さいけど」
「じゃあ,さっきの猪は魔獣なんですね」
「角猪はね。普通の猪もいるよ」
「普通の猪もいるんですか」
なぜか,ほんの少し安心した。何に安心したのかは自分でもよく分からない。
「魔獣と普通の動物は,見れば分かるものなんですか?」
「大体は」
「角が生えてたから?」
「それもあるけど」
ミレナが答えながら,足元の枝を踏み越える。
「魔獣は体の中に魔力を持ってるから,慣れた人なら近くにいると何となく分かることもあるよ。強いやつなら,圧迫感があるとか,肌がぴりぴりするとか。感じ方は人によるけど」
理人の舌の奥に,先ほどの苦味が蘇った気がした。
「……味がすることは?」
「味?」
ミレナが振り返り,ガルドまで肩越しにこちらを見る。
「口の中が苦くなる,とか」
「聞いたことない」
ミレナは即答した。
「角猪が近くにいたとき?」
「はい」
「それ,変なもの食べたんじゃない?」
「何も食べてません」
「じゃあ分からない」
あっさりと片づけられた。
理人もそれ以上は聞かなかった。自分だけに起きたことなのか,偶然なのか,それとも魔力と何か関係があるのか。今はまだ情報が少なすぎる。
分からないものを,無理に分かったことにする必要はない。
そのまましばらく進むと,木々の間隔が少しずつ広がり,足元の傾斜も緩やかになってきた。
やがて木立が途切れ,視界が一気に開ける。
「お……」
理人は思わず足を止めた。
森の向こうには緩やかな草原が広がり,ところどころに畑が見える。そのさらに先には,町を囲む灰色の壁があった。
高さは五,六メートルほどだろうか。巨大な要塞というほどではないが,人の暮らす場所を外の世界からはっきりと区切るには十分な高さだった。壁の向こうには,赤茶色や灰色の屋根がいくつも覗いている。
「アルカだ」
ガルドが言った。
「アルカ」
「この辺じゃ一番大きい町だ。魔境の森の近くじゃ,ここを拠点にする猟師や冒険者も多い」
「魔境?」
「あんたがいた森の,もっと奥の方だよ」
ミレナが何でもないことのように言う。
「奥には行かない方がいいよ」
「行く予定はありません」
「それがいい」
先ほどの角猪が浅い場所に出る程度なのだから,奥に何がいるのかは聞かない方がよさそうだった。
理人は再び城壁へ目を向ける。
アルカ。
その固有名詞には確かに知らない土地の響きがあるのに,先ほどからガルドやミレナの言葉は,意味がそのまま日本語として頭に入ってきている。
あまりに自然だったせいで,今まで深く考えていなかった。
「一つ聞いてもいいですか?」
「何?」
「今,自分は何語を話してます?」
今度はミレナが完全に足を止めた。
「……共通語だけど」
「そうですか」
「それも知らないの?」
「自分には,日本語を話してるようにしか感じないんです」
「ニホンゴ?」
「自分の国の言葉です」
「じゃあ,今は?」
「普通に話せてます」
ミレナは何とも言えない顔でガルドを見る。
ガルドは顎に手を当て,しばらく考えていたが,
「転移者かもしれんな」
と口にした。
理人は瞬きをする。
「転移者?」
「昔話みたいなもんだ」
「実際にいるんですか?」
「俺は会ったことない」
「私も」
ミレナが肩をすくめた。
「古い話とか昔話に出てくるの。遠い土地じゃなくて,知らない世界から人が来た,って」
「知らない世界……」
理人は遠くの城壁を見た。
異世界。
その言葉を考えなかったわけではない。巨大な角猪と魔法を見た時点で,可能性としてはとっくに頭の中にあった。
ただ,誰かの口からそれに近い話を聞くと,さすがに重みが違う。
「帰った人は?」
気づけば,そう聞いていた。
ガルドは少しだけ黙った。
「俺は知らん」
「そうですか」
胸の奥が,わずかに重くなる。
帰る方法について,今のところ手掛かりは何もないらしい。
だが,ここで考え続けたところで情報は増えない。
理人は一度息を吐き,城壁へ向かって歩き出した。
「まず町ですね」
「あんた,変に落ち着いてるね」
「慌てても帰り道が出てくるわけではないので」
ミレナが笑う。
「そういうところ,本当に変」
「褒めてないですよね?」
「半分くらい」
アルカの城門へ近づくにつれて,道を行く人の数が増えていった。
荷車を引く男や,大きな籠を背負った女,槍を持った三人組が行き交い,その間を,大きな蜥蜴のような生き物に荷車を引かせた商人まで進んでいる。
理人は思わずそちらへ目を向けた。
「馬じゃない」
「あれは荷蜥蜴」
ミレナが理人の視線に気づいた。
「おとなしいし,馬より力があるから,この辺じゃよく使うよ」
「噛みません?」
「怒らせなきゃ」
「それは馬でも同じですね」
荷蜥蜴は理人の視線など気にした様子もなく,太い尾を揺らしながら,のそのそと城門へ向かっていった。
未知の生き物ではあるが,こちらでは荷運びに使う家畜らしい。
そういうものなのだろう。
城門の脇では,二人の衛兵が出入りする人間を確認していた。槍に革鎧,腰には短剣という姿は,理人が想像する昔の兵士に比較的近い。
ただ,一人の手首には青い石のはまった腕輪があり,前を歩いていた商人が門を通るとき,それが一瞬だけ淡く光った。
「あれも魔法ですか?」
「魔道具だ」
ガルドが答える。
「危険な魔力を持ったものが入らないか見るための道具だな」
「魔道具」
「魔力を使って動く道具全般だ。さっきの俺の弓もそうだ」
理人はもう一度,衛兵の腕輪を見る。
魔法を使える人間だけが便利なのではなく,魔石や魔力を利用した道具が生活の中に組み込まれているらしい。
そう考えると,単に「魔法がある」というだけでは済まない。
もっとも,その違いを理解するのは,ここで暮らし始めてからでいい。
城門では,ガルドが衛兵と二言三言話した。
どうやら理人のことを説明しているらしく,衛兵は一度怪訝そうな顔でこちらを見たものの,ガルドの顔を知っているらしい。
「ガルドが連れてきたなら,ひとまずいい」
結局,それだけで町へ入れてもらえた。
身分証明書も住所もなく,自分がどこから来たのかすら説明できない理人としては,ありがたい話だった。
城門をくぐった途端,周囲の音が一気に増える。
人の話し声に,荷車の車輪が石を踏む音,どこかから聞こえる金属を叩く音。通りでは商人が声を張り上げ,その向こうからは煙と一緒に肉の焼ける匂いが流れてきた。
「……いい匂い」
思わず口から出た。
脂の焼ける香ばしさに,青い香草らしき匂いが混じっている。
通り沿いの小さな屋台では,鉄板のようなものの上で串に刺した肉を焼いていた。一切れ一切れが,日本の焼き鳥よりかなり大きい。
「腹減った?」
ミレナが聞く。
「さっきまでは,そうでもなかったんですけど」
匂いを嗅いだ途端,急に腹が空いてきた。
角猪から逃げ回ったのだから,当然といえば当然なのかもしれない。
「宿で食べればいい。もうすぐだから」
「宿?」
「この町に知り合い,いないんでしょ?」
「たぶん一人もいません」
「なら,ガルドがよく使ってる宿屋に行けばいいよ。飯もまともだし」
「まともって」
「外れじゃないって意味」
「それなら安心しました」
アルカの建物は,石造りと木造が入り交じっていた。一階だけを石で造り,二階から上を木にしている家も多い。窓にはガラスが入っているものもあれば,木の鎧戸だけのものもあり,道は中央だけに石が敷かれている。
日本の町とはまるで違う。
それでも,そこで人が暮らしているということは一目で分かった。
八百屋らしい店先には,人参に似た細長い紫色の根菜や,拳ほどの黄色い実,玉ねぎによく似た丸い野菜が籠いっぱいに並んでいる。その隣の店から漂ってきたのは,小麦が焼ける匂いだった。
「パンはある」
「そりゃあるよ」
独り言をミレナに拾われた。
「いえ,何でもないです」
「さっきから変なところで驚くね」
「自分の知ってるものがあると,ちょっと安心するんです」
「変な人」
「今日はそれを何回言われるんでしょう」
ミレナは楽しそうに笑っていた。
やがて通りを一本曲がると,少し大きな建物の軒先に木製の看板が下がっていた。
看板には大きな鍋と,その隣に角のある動物が描かれている。さらに,見たことのない文字が何文字か並んでいた。
「……」
理人は立ち止まった。
文字であることは分かる。
だが,読めない。
「何が?」
少し先まで歩いたミレナが振り返る。
「看板です。読めない」
「『煮込み鹿亭』」
「鹿?」
「角鹿の絵」
理人は改めて看板を見上げる。
文字は曲線と直線が複雑に組み合わさっていて,アルファベットでも漢字でもない。どこからどう読めばいいのかすら見当がつかなかった。
「喋れるのに,文字は読めないんだ」
「みたいですね」
「変なの」
「自分もそう思います」
聞けるし,話せる。だが,文字はまったく読めない。
この形を知らない以上,当然ながら書くこともできないだろう。
この世界で困りそうなことが,また一つ増えた。
ガルドが扉を開ける。
店内は思ったより広く,入口近くには六人ほど座れそうな木のテーブルが四つ並んでいた。奥には長いカウンターがあり,そのさらに向こうが厨房らしい。
まだ昼には少し早いが,すでに二組の客が食事をしている。
「いらっしゃい!」
奥から,よく通る声が飛んできた。
ほどなくして現れたのは,五十歳前後に見える大柄な女性だった。白い前掛けを身につけ,髪を後ろできっちりまとめている。
「ガルドじゃないか。朝から珍しいね」
「森で拾った」
「人を?」
「はい」
理人は一応,片手を上げた。
「高瀬理人です」
「変な名前だね」
「今日二回目です」
「リヒトでいいそうだ」
ガルドが補足する。
女性は「ふうん」と言いながら,理人を頭から足元まで遠慮なく眺めた。
「確かに格好も変わってるねえ」
白いシャツにスラックス。
日本では何の変哲もない服装だが,この町ではかなり目立つらしい。
「私はマルタ。この宿の主人……と言いたいところだけど,主人は夫でね。私は飯の方を任されてる」
「高瀬理人です。よろしくお願いします」
「まあ,座りな。顔色が悪いよ」
言われて初めて,理人は自分が思っていた以上に疲れていることに気づいた。
促されるまま木の椅子へ腰を下ろす。見た目は簡素だが,座り心地はそれほど悪くない。
「何食べる?」
マルタが聞いた。
「え?」
「腹減ってるだろ?」
「それは……」
そこで理人は,自分の財布の中身を思い出した。
日本円の紙幣と硬貨。
この町で使えるとは到底思えない。
「お金が」
「俺が出す」
ガルドが言った。
「いや,それは」
「角猪の囮になってくれた分だと思っとけ」
「好きでなったわけじゃないです」
「なら,助けた礼を町まで運んだ分と相殺だ」
「計算がよく分かりません」
「細かいね,あんた」
横で聞いていたマルタが笑った。
「とりあえず食べな。金の話はそのあとでいいよ」
どうやら,ここで断っても話が進まないらしい。
「……ありがとうございます」
マルタが厨房へ戻っていく。
ミレナはこのあと用事があるらしく,「じゃあね,リヒト」と手を振って先に店を出ていった。ガルドも角猪の処理について猟師仲間と話す必要があるらしく,少し休んだあとで席を立つ。
気がつけば,理人は一人で木のテーブルに座っていた。
ほんの数時間前まで,日本にいたはずなのに。
そう考えると急に現実味がなくなるので,理人は考えるのをやめた。
やがて厨房の方から,肉と香草の匂いが近づいてくる。
「ほら」
マルタが料理を次々とテーブルへ置いた。
まずは,丸いパンを半分に切ったもの。表面は濃い茶色に焼けている。
その隣には湯気の立つ深い器が置かれた。中には一口大の肉と,人参に似た根菜,葉野菜,白っぽい豆がたっぷり入っている。澄んだ色ではないが,煮込まれた肉と野菜の香りが湯気と一緒に立ち上った。
最後に,小さな皿へ白い塊が一切れ。
「これは?」
「山羊のチーズ」
「チーズ」
知っている食べ物の名前が出てきて,理人は少し安心した。
マルタが不思議そうにこちらを見る。
「好きかい?」
「好きです」
「ならよかった」
理人は木の匙を取り,煮込みを一口すくった。
「……」
思わず,黙る。
肉はよく煮込まれていて,歯を立てると簡単にほぐれた。少し独特の香りはあるものの,嫌な臭みではない。脂は控えめで,その分,汁には肉の旨味がしっかりと出ている。
根菜には甘みがあり,最後に香草の爽やかな匂いが鼻へ抜けた。
「どう?」
マルタが聞いた。
「おいしいです」
「そりゃよかった」
「普通に」
「普通に?」
「あ,いえ。かなりおいしいです」
危ないところだった。
どうやら自分の中にも,異世界の料理なら少しくらい粗雑なのではないか,という根拠のない想像があったらしい。
実際には,まるで違った。
普通にうまい。
いや,かなりうまい。
「これ,何の肉ですか?」
「森鹿」
「魔獣?」
「そうだよ」
理人の匙が止まった。
「魔獣って,食べるんですね」
「食べないのかい?」
今度はマルタの方が驚いた。
「自分のいたところには,魔獣がいなかったので」
「それじゃ,肉は何を食べてたんだい?」
「牛とか,豚とか,鶏です」
「ウシ?」
「……たぶん,似た動物はいると思います」
説明しようとすると,どこから話せばいいのか分からない。
理人は諦めて,もう一口,森鹿の肉を口に入れた。
魔獣。
朝,自分を追いかけ回した角猪と同じ分類に入る生き物。
そう考えても,目の前の煮込みは変わらずうまかった。
「角猪も食べます?」
「食べるよ」
マルタは迷いなく答えた。
「今日,ガルドが持ってきたやつかい?」
「たぶん,それです」
「あれは少し肉が硬いけど,しっかり煮込めば悪くないよ。脂も使えるしね」
「脂……」
「どうした?」
「いえ」
理人の頭に,昨夜食べたハンバーグが浮かんだ。
挽肉に玉ねぎ,パン粉と卵を混ぜて成形し,フライパンで焼く。焼けた表面に箸を入れれば,中から肉汁がにじむ。
そして今,この世界には魔獣の肉がある。
森鹿と角猪。同じ魔獣でも,肉質はかなり違うらしい。
そもそも,普通の動物と魔獣では何が違うのか。生きている間に魔力を持つというだけで,肉としては同じなのか。
味は。
「リヒト?」
「はい」
「今,妙な顔してたよ」
「何か作れそうだなと思って」
「料理できるのかい?」
「家庭料理なら。それなりには」
「へえ」
マルタの目が少し変わった。
「料理人ってほどではないですけど。作るのは好きなので」
「だったら,ちょうどいいかもしれないね」
「何がですか?」
「行くところ,ないんだろ?」
理人は返事に詰まった。
ない。
少なくとも,今のところは。
この町に知り合いはおらず,使える金もない。身分を証明するものもなく,文字すら読めない。日本へ帰る方法に至っては,手掛かりすらなかった。
「うちは日によって人手が足りなくてね。皿洗いと掃除,厨房の手伝いくらいなら,寝床と飯を出せるかもしれないよ」
「……助かります」
「まだ決まりじゃないよ。旦那にも聞かなきゃならないからね」
「それでも十分です」
今の理人にとっては,今日の夜に眠る場所があるかもしれないというだけで十分すぎる話だった。
マルタは満足そうに一度頷くと,「冷めないうちに食べな」と言い残し,厨房へ戻っていった。
理人はパンをちぎった。
表面はしっかり焼かれて硬いが,中は少し詰まっていて,噛むほどに小麦の香りが広がる。日本でよく食べていた柔らかなパンとは違うが,これはこれで悪くない。
山羊のチーズは味が濃く,わずかな酸味があった。単独ではかなり存在感があるが,煮込みと一緒に食べると不思議なくらいよく合う。
「……うまいな」
小さく呟いた。
異世界。
魔法に魔獣,知らない文字。自分がどこにいるのかさえ正確には分からず,日本へ帰れるかどうかも分からない。
不安がないわけではない。
考え始めれば,いくらでも出てくる。
それでも,食事がおいしい。
それだけで,ほんの少しだけ状況がましに思えた。
最後のパンで器の底に残った汁を拭い,口へ運ぶ。
そこで,理人はふと考えた。
森鹿がこれだけおいしいなら。
あの角猪は,どんな味がするのだろう。
朝は恐怖しか感じなかった巨大な魔獣を思い出す。あの太い胴も,木を削る勢いで地面を蹴っていた脚も,肉にして煮込めばうまいらしい。
しかも,脂も使えるという。
「……」
そこまで考えてから,理人は少しだけ眉を寄せた。
異世界に来て,まだ半日も経っていない。
帰る方法すら分からないというのに,すでに魔獣の味を気にしている。
「まあ……食べられるものは,知っておいて損はないか」
誰に聞かせるでもなくそう呟き,最後のチーズを口に入れる。
それが言い訳なのかどうかは,自分でもよく分からなかった。




