第1話 異世界で最初にしたことは逃走
高瀬理人が最初に感じたのは,土の匂いだった。
湿った土と草,それから名前の分からない青臭い何かが混じっている。少なくとも,自宅のベッドで目を覚ましたときに嗅ぐ匂いではない。
「……ん?」
目を開くと,そこにあったのは緑だった。
視界の半分ほどを草の緑が占め,その向こうには深い色をした木々が並んでいる。重なった枝葉の隙間からは,青い空がのぞいていた。
理人はしばらく瞬きをしたあと,仰向けになったまま昨夜のことを思い返した。
仕事を終えて帰宅し,夕飯を作った。冷蔵庫に合挽肉が残っていたので,献立はハンバーグにした。
玉ねぎはみじん切りにして電子レンジで先に火を通し,肉は動画で見た方法を試して,まず塩だけを加えて練った。ソースはケチャップと中濃ソースに,少しだけ赤ワイン。
悪くなかった。むしろ,かなりうまくできた。
その後は風呂に入り,ベッドで料理動画を見て――。
「そこからがないな」
記憶はそこで途切れている。
酒は飲んでいないし,疲れてはいたものの,意識を失うほどではなかった。そもそも,一人暮らしの部屋で眠っていたはずの人間が,朝になったら森の中に転がっている理由を昨日の行動から導き出そうとすること自体,かなり無理がある。
理人は上体を起こし,自分の格好を見下ろした。
スラックスに白いシャツ,薄手の紺のジャケット。昨日,学校から帰ってきたときの服装そのままで,なぜか革靴まで履いている。左手には腕時計,ポケットには財布と鍵もあった。
右のポケットからスマートフォンを取り出す。表示されている時刻は午前七時十二分だったが,アンテナは一本も立っていない。
「ですよね」
圏外だった。
念のため緊急通報も試してみたが,つながらない。地図アプリも現在地を取得できなかった。
理人はスマートフォンをしまい,立ち上がった。
二十五歳,高校教員。身長は一七六センチで,運動不足というほどではない。しかし,森で遭難したときに役立つ専門技能など持っているはずもなかった。
数学なら教えられる。高校生が相手なら,数列でも微積分でも説明できるし,簡単な料理もできる。
だが,方角すら分からない森から自力で生還する方法となると,動画で見た記憶すらない。
「……さて」
一度,ゆっくり息を吐いた。
慌てても情報は増えない。
そう自分に言い聞かせてから,理人はあらためて周囲を見渡した。
植物に詳しいわけではない。それでも,日本の森とはどこか違うことくらいは分かった。
まず,木が異様に高い。幹の太さよりも,真っ直ぐ伸びたその高さに違和感がある。上部では枝葉が幾重にも重なり,森の奥を薄暗くしていた。その一方で,理人が倒れていた辺りだけは木がまばらで,小さな草地になっている。
葉の形にも見覚えがなかった。近くの低木には,手のひらほどもある青みがかった葉が何枚もついている。
「外国……?」
可能性の一つとして口に出してみて,すぐに自分で否定する。
誘拐されて外国の森へ捨てられた,という方がまだ現実的なのかもしれない。しかし,パスポートも持たない人間を,自宅から本人に気づかれないまま国外へ運ぶ方法を考えれば,それも十分に非現実的だった。
腕時計を見ると,七時十五分になっていた。
三分考えたところで,状況は何一つ改善していない。
「歩くしかないか」
少なくとも,ここに座っていても仕方がない。水音でも,道でも,人の声でもいい。そのどれかを探す必要がある。
ただし,無計画に森の奥へ入るのは避けたい。
理人は草地の周囲を一度歩き,地面を観察した。一方向だけ,わずかに草が倒れている。
獣道なのか,人が通った跡なのかまでは分からない。それでも,何の手掛かりもない方向へ進むよりはましだった。
スマートフォンは電源を切る。バッテリーは八十二パーセント残っている。通信できない以上,ライトや時計として使えるよう温存しておいた方がいい。
それから十分ほど歩いた間に,理人は二度足を止めた。
どちらも,聞き覚えのない鳴き声がしたからだ。一度目は高い笛のような声で,二度目は遠くから「ゴォン」と響く,鳥とは到底思えない音だった。
二度目については,深く考えないことにした。
知らないものについて想像を広げても,ろくな結論にはならない。
森は静かだった。風が吹けば頭上で葉が擦れ,木漏れ日が地面の上を揺れる。早朝らしい冷えた空気も気持ちがいい。
状況さえ除けば,散歩としては悪くなかった。
「状況が悪すぎるけど」
気づけば独り言が増えていた。一人でいるからなのか,声を出して精神を落ち着けようとしているのか,自分でもよく分からない。
さらに少し進んだところで,理人は足を止めた。
木の根元に,赤い実がなっている。
イチゴを大きくしたような形で,表面には小さな白い粒が並んでいた。
食べられるかもしれない,と考えかけて,
「いや,食べないだろ」
すぐに当然の結論へ戻る。
山菜の知識すらない人間が,異国かもしれない森で正体不明の実を口にする理由はない。空腹ならまだ迷ったかもしれないが,昨夜ハンバーグを二個食べたおかげで,今のところ腹も減っていなかった。
昨夜。
その言葉が頭に浮かんだところで,理人は少しだけ黙った。
本当に,自宅から突然ここへ来たのだとしたら。
学校はどうなっているだろう。
一時間目は二年生の数学Ⅱだった。今ごろは連絡なしの欠勤扱いになっているかもしれない。管理職にも同僚にも迷惑がかかるし,時間が経てば両親にも連絡が行くだろう。
「……戻れるなら,戻らないとな」
言葉にしてみると,それはごく当然のことに思えた。
日本での生活に強い不満があったわけではない。教師の仕事は忙しいが,嫌いでもなかった。生徒に問題の解き方を説明し,理解した瞬間の顔を見るのは好きだったし,休みの日に料理を作って,たまに同僚や友人に食べてもらうのも好きだった。
失踪したい理由など,どこにもない。
問題は,戻り方どころか,ここへ来た原因すら分からないことだ。
「優先順位だな」
理人は小さく呟いた。
まずは安全を確保し,次に人を探す。それから現在地を確認する。帰る方法を考えるのは,その後でいい。
問題を分解すれば,少なくとも今するべきことは決まる。
そう考えた直後だった。
舌の奥に,妙な味がした。
「……?」
理人は足を止めた。
苦い。
コーヒーの苦味とは違う。薬をうっかり舐めたときのような,舌の付け根にまとわりつく嫌な苦味だった。
だが,何も口には入れていない。
理人は確かめるように舌を動かしたが,味は消えなかった。
「何だ?」
水も飲んでいないし,植物にも触れていない。
体調不良だろうか。
そう考えたとき,右手の茂みがガサッと揺れた。
理人は動きを止める。
口の奥の苦味が,少しだけ濃くなった。
もう一度,茂みが大きく揺れ,今度は枝の折れる音までした。かなり大きな何かがいる。
最初に浮かんだのは,熊だった。
熊なら,背中を向けて走ってはいけない。以前,ニュースか何かで見た記憶がある。
では,どうするのだったか。
目を合わせず,ゆっくり下がる。たしか,そんな話だった。
理人は音のした方向を見ながら,一歩だけ後ろへ下がった。
その瞬間,苦味がさらに強くなる。
何かがおかしい。
単に口の中に味が残っているという感覚ではなかった。目の前の何かが近づくほど,舌の奥にまとわりつく苦味まで濃くなっているような気がする。
そして,茂みの中からそれが姿を現した。
「……猪?」
形だけなら,猪だった。
ただし,大きさがおかしい。
肩の高さは理人の腰を超え,体長は二メートル近くある。黒褐色の毛に覆われた胴は太く,鼻先の左右から伸びた牙は,理人の前腕ほどもあった。
何より,額から一本の角が生えている。
「猪じゃないな」
冷静に訂正している場合ではなかった。
角の生えた巨大な猪が,理人を見た。
黒い目と視線が合った途端,口の奥の苦味が跳ね上がる。
猪は荒い鼻息を吐き,前脚で土を掻いた。
その様子を見た瞬間,理人の頭の中でいくつかの情報がつながった。
真正面。距離はおよそ十五メートル。相手はこちらを明らかに警戒している。牙も角もあり,体格差はどうしようもない。
対するこちらは革靴で,武器すらない。
「無理だな」
勝てる要素が一つもなかった。
次の瞬間,猪が地面を蹴った。
「うわっ!」
理人は横へ飛んだ。というより,必死に地面を転がった。
直後,風を切る音とともに巨大な胴体が,ついさっきまで理人のいた場所を通過していく。猪はそのまま数メートル進んだところで,土を抉りながら急停止した。
理人は慌てて起き上がる。
右の掌を擦りむいていた。じんじんと痛む。
痛いということは,少なくとも夢ではなさそうだ。
「確認する必要なかったな!」
猪がこちらを向き直った。
また苦味が強くなる。さっきよりも明らかに濃い。
そこで,理人は気づいた。
こいつが動く直前,苦味が強くなっている。
理由は分からない。だが,今のところ二回ともそうだった。
猪が頭を低くする。
舌の奥に,鋭い苦味が走った。
「来る」
今度は先ほどより早く動けた。
理人は近くの木の陰へ飛び込む。
直後,ドンッという鈍い衝撃音が森に響き,猪の角が木の幹へ突き刺さった。木全体が大きく揺れ,頭上から葉が降ってくる。
理人は幹の反対側から,その光景を見た。
直径四十センチはありそうな木の樹皮が,大きく抉れている。
あれが腹に入ったらどうなるか。
「死ぬな」
極めて簡単な計算だった。
猪が角を引き抜き始める。それを見た理人は,すぐに走った。
熊を相手に走ってはいけないという知識が,この生物にも当てはまる保証はない。それなら,木を挟みながら少しでも距離を取った方がいい。
幸い,猪の体は大きい。密集した木々の間を真っ直ぐ駆け抜けることはできない。一方で,理人なら細い隙間を抜けられる。
ただし,革靴なのが最悪だった。
地面は柔らかく,木の根も多い。一度大きく足を取られ,転びかける。
背後で,枝の折れる音がした。
同時に苦味が走る。
「またか!」
理人はすぐ横の木へ回り込んだ。直後,角猪の巨体がすぐ後ろを通過していく。
分かる。
少なくとも,攻撃の直前だけは分かる。
だからといって,勝てるわけではなかった。
理人は荒い息を吐きながら走り続けた。どうにか猪から離れようとするが,相手も諦める気配がない。
「何でそんなに俺を狙うんだよ……!」
当然,返事はなかった。
額から汗が流れ,呼吸が苦しくなってくる。
理人は体育教師ではない。日常的な運動といえば,校内を歩く程度だ。二十五歳とはいえ,全力疾走を何分も続けられるほど鍛えてはいなかった。
まずい。
体力勝負になれば負ける。
走りながら周囲を見る。
木々の向こう,少し先に大きな岩が見えた。その先は地面が緩やかに下っている。
逃げ道になるかもしれない。
理人が岩を回り込もうとした,そのときだった。
舌の奥の苦味が,唐突に強くなった。
「っ!」
反射的に身を伏せる。
何かが頭上を通り過ぎ,風圧で髪が揺れた。
猪ではない。
黄色い光だった。
それは理人の前方へ飛んでいき,バチンッと音を立てて地面へ突き刺さった。
「伏せてろ!」
男の声が響いた。
意味が分かる。
一瞬,日本語だと思った。
だが,考えている暇はなかった。
再び黄色い光が走り,今度は猪の肩へ突き刺さる。
「ブギィッ!」
猪が初めて悲鳴を上げた。
光の正体は矢だった。
ただし,普通の矢ではない。矢尻の周囲には黄色い光がまとわりつき,刺さった箇所から細い稲妻のようなものが走っている。
「魔法……?」
理人は思わず呟いた。
猪が方向を変え,新しく現れた二人へ向き直る。
一人は四十代ほどの男だった。日に焼けた顔に短い茶髪,革製らしい胸当てを身につけ,大きな弓を構えている。
もう一人は若い女で,二十歳前後に見えた。肩ほどまでの赤茶色の髪を後ろでまとめ,腰には剣を下げている。
女がその剣を抜いた。
「こっちだ,角猪!」
猪が女へ向けて地面を蹴る。
その瞬間,理人の口の中に,また強烈な苦味が広がった。
「来ます!」
思わず叫ぶ。
女は一瞬だけ理人へ視線を向けたが,足は止めなかった。
猪の突進をぎりぎりまで引きつける。
「分かってる!」
そう叫ぶと同時に横へかわし,すれ違いざまに剣を振り抜いた。
猪の前脚から血が飛ぶ。
それでも巨体は止まらない。勢いを殺しながら向きを変えようとする猪へ,男が弓を引き絞った。
黄色い光が,弦と矢の周囲に集まっていく。
「次で落とす!」
矢が飛んだ。
猪の首元へ深く突き刺さり,バチッと先ほどより大きな音が響く。
黄色い光が全身を駆け抜けた直後,猪の脚から力が抜けた。
巨体は勢いのまま地面を滑り,土煙を上げて止まる。
数秒待っても,猪は動かなかった。
理人も,すぐには動けなかった。
心臓がうるさい。肺が痛み,足も震えている。
それでも,頭の中だけは妙に冷静だった。
角の生えた巨大な猪に,黄色い光をまとう矢。あれほどの巨体と正面から渡り合った剣士。
どう考えても,普通ではない。
そして,先ほどまで舌の奥に張りついていた強烈な苦味も,いつの間にか消えていた。
「……なんだ,あれ」
口にしてから,自分でも何を指したのか分からなくなった。
猪なのか,光る矢なのか。それとも,何も口にしていないのに感じていた,あの苦味なのか。
男は倒れた猪へ慎重に近づき,動かないことを確認してから理人を振り返った。
「怪我は?」
「あ……掌を少し」
「それだけか?」
「はい」
そこまで答えてから,理人は初めて気づいた。
言葉が通じている。
男がわずかに眉をひそめた。
「見ない顔だな。どこの者だ?」
「日本です」
「ニホン?」
「……ですよね」
どうやら聞いたことのない名前らしい。
予想はしていた。してはいたが,実際に聞き返されると,思った以上に心にくるものがある。
女は剣についた血を草で拭いながら,こちらへ歩いてきた。
「旅人にしちゃ軽装すぎるね。剣どころか,短刀もないじゃない」
「朝起きたら,ここにいたので」
「は?」
「自分でも,よく分かっていません」
女が男を見る。
男も女を見る。
当然の反応だった。
理人だって,同じ話をされたらまず事情を疑う。
「頭は打ってないか?」
「たぶん」
「名前は?」
「高瀬理人です」
「タカセ……?」
男が発音しづらそうに繰り返した。
「理人が名前です。リヒトで構いません」
「リヒトか」
それなら言いやすいらしい。男は一度頷いた。
「俺はガルド。こっちはミレナだ」
「よろしく」
女――ミレナが軽く手を上げる。
ガルドは周囲へ視線を巡らせたあと,倒れた猪へ向き直った。
「とりあえず,ここで話すのはやめるぞ。角猪が一頭だけとは限らん」
「角猪……」
「知らないのか?」
「初めて見ました」
ガルドの表情に,わずかに疑いの色が増した。
「……本当にどこから来たんだ,お前?」
それはこちらが聞きたい。
ただ,少なくとも一つだけ分かったことがある。
ここは,自分の知っている日本ではない可能性がかなり高い。
魔法としか思えないものがあり,角の生えた巨大な猪がいて,それを人間が剣と光る矢で倒す。
理人は,地面に倒れた角猪へ目を向けた。
さっきまであれほど恐ろしかった巨体も,動かなくなった途端,不思議と現実的なものに見えてくる。
太い脚に厚い胴,黒褐色の毛皮。鼻先の近くからは二本の大きな牙が伸びている。
恐怖が少し薄れたせいだろうか。
ほんの一瞬だけ,理人の頭に場違いな疑問が浮かんだ。
――これ,食べられるんだろうか。
すぐに,自分で打ち消す。
今考えることではない。
「リヒト!」
「あ,はい」
「歩けるか?」
「大丈夫です」
「なら町まで来い。詳しい話はそこで聞く」
「助かります」
理人は素直に頭を下げた。
他に選択肢はない。知らない森を一人で歩き回るより,巨大な猪を倒せる二人についていく方が,どう考えても生存率は高かった。
ガルドが角猪の脚へ太い縄を結び始め,ミレナがその反対側を持つ。
理人も手伝おうと一歩近づいたところで,
「触るな」
ガルドに止められた。
「え?」
「まだ魔力が残ってる。慣れてない奴が素手で触ると,酔うことがある」
「魔力……」
理人は,思わずその言葉を繰り返した。
ガルドは,ごく当たり前のことを言ったような顔をしている。
「何だ?」
「いえ」
聞きたいことが,一気に増えた。
魔力とは何なのか。先ほどの矢は,本当に魔法だったのか。角猪とは何なのか。そもそも,ここはどこなのか。
そして,あの苦味は何だったのか。
だが,一度に聞いたところで整理できない。
理人は一度息を吐いた。
まず町へ行って,安全を確保する。話はそれからだ。
「行きましょう」
自分に言い聞かせるようにそう言うと,ガルドが森の向こうへ続く細い道を先に歩き始めた。その後ろをミレナが続き,理人も二人を追う。
十数歩進んだところで,理人は一度だけ振り返った。
木々の間から,倒れた角猪の黒い体が見える。
ついさっきまで,恐ろしくて仕方のなかった相手だ。
それなのに,先ほど頭に浮かんだ疑問は,まだ消えていなかった。
――食べられるんだろうか。
自分でも呆れる。
異世界らしき場所へ放り出され,命を落としかけた直後だというのに。
理人は小さく息を吐くと,今度こそ前を向き,二人の後を追った。
そのどうでもよさそうな疑問が,この先の人生をずいぶん遠くまで連れていくことを,このときの理人はまだ知らなかった。




