第47話 行きたい場所
ぽんたが王都へ行くと決めた翌日も,煮込み鹿亭の朝はいつも通り始まった。
理人が厨房へ降りるころには竈へ火が入り,マルタが大鍋を見ながら朝食の準備を進めている。ぽんたは昨日までと何も変わらない顔でパンの籠を運び,自分が旅へ出ることを決めたからといって仕事を免除されるとは考えていないらしい。
むしろ朝から機嫌がよかった。
「王都行ったら,最初に肉見るからな」
「何で俺に宣言するんだよ」
「忘れないように」
「自分で覚えとけ」
「お前,食い物見ると別のこと考えるだろ」
「ぽんたに言われたくない」
二人のやり取りを聞きながら,クウは厨房の奥で乾燥香草の束へ鼻を近づけていた。
「こっちは大丈夫だよ。こっちの束は,少し湿ってるかも」
マルタが受け取り,紐をほどいて中を確かめる。
「本当だね。こっちは今日使っちまおう」
「うん」
クウはそれだけ答え,次の束へ鼻を向けた。
いつも通りだった。
少なくとも,理人にはそう見えた。
昨日,ぽんたが王都へ行くと決めたことは,朝食のときにクウにも伝えてある。
「そう」
クウは一度ぽんたを見て,
「決めたんだね」
と言っただけだった。
驚きもしなければ,自分も行くとも言わなかった。
理人も聞かなかった。
ぽんたのときと同じように,決めるのはクウ自身だからだ。
その考えは変わっていない。
ただ,昨日ぽんたと話したことで,理人の中では一つだけ変わったことがある。
自分はクウにも一緒に来てほしいと強く思っている。
ぽんたに対してそうだったように,クウについても同じだった。
それを言うことと,決めることを強いることは別なのかもしれない。
昨日までは,そこをうまく分けられていなかった。
「リヒト」
呼ばれて顔を上げる。
クウがこちらを見ていた。
「何?」
「涙玉,切り終わってるよ」
手元を見ると,いつの間にか木皿の上には刻んだ涙玉が十分な量になっていた。
「あ,本当だ」
「今日,少し変だね」
「考え事してました」
「王都?」
「まあ,それも」
クウは小さく首を傾げたが,それ以上は聞かなかった。
理人も,今ここで話すことではないと思った。
◇
昼の仕事が一段落したころ,クウの方から声をかけてきた。
「リヒト,今日,少し外に行かない?」
「市場?」
「違うよ。人が少ないところ」
理人は手にしていた布巾を置いた。
「どこか行きたい場所ある?」
「町の外側。森が見えるところまで」
「森に戻る?」
「戻らないよ」
クウはそう言ってから,少し考えるように耳を動かした。
「ちょっと見たいだけ」
「分かった」
危険な場所へ行く話でもない。
アルカの森側には,町の外周に沿うように人の通る道があり,そこからなら森の端を見ることができる。森そのものへ入らなければ,今の状況なら問題はないだろう。
「ぽんたも呼ぶ?」
「今日はいいかな」
クウの返事は早かった。
理人は一瞬だけ彼女を見る。
理由までは分からないが,わざわざ聞く必要もない。
「じゃあ二人で行きますか」
「うん」
その言葉を聞いて,クウの耳がわずかに前を向いた。
◇
午後のアルカは,市場を外れるとずいぶん静かだった。
石畳の通りには時折荷車が通るものの,中心部のような人混みはなく,店先から聞こえる声も遠い。森側へ近づくにつれ建物の間隔が少しずつ広がり,やがて町を囲む柵と,その向こうに続く緑が見えてきた。
森の異変が起きていたころは,この辺りにも見張りが増えていた。
今は人数も減り,外側の道を行き来する採集者の姿も戻り始めている。
クウは理人の少し前を歩いていた。
市場では人を避けるために理人の横へ寄ることが多いが,ここでは周囲に余裕があるためか,自分の好きな場所を選んで歩いている。
時折立ち止まり,風へ鼻を向ける。
灰銀色の毛が風に揺れ,日の光の当たり方によって白にも薄い灰色にも見えた。
「何か匂う?」
「いろいろ」
「便利な答えですね」
「本当にいろいろするんだよ」
以前も似たようなことを言われた気がする。
クウは少し笑い,また風の方へ顔を向けた。
「森の匂い,前と同じ?」
「ほとんどね。あの変な感じはもうないよ」
「よかった」
「うん」
クウはそのまま道を進み,柵の近くにある低い草地で足を止めた。
町の向こうには森が広がっている。
理人にはただ木々が重なって見えるだけだが,クウにとっては違うのだろう。耳を動かし,風を嗅ぎ,しばらく何も言わず森を見ていた。
理人も隣に立つ。
急かす必要はない。
やがて,クウが口を開いた。
「もう戻れると思う」
「森に?」
「うん。前にいた辺りなら,今は普通だよ」
理人は少しだけ胸の奥が重くなるのを感じた。
予想していなかったわけではない。
むしろ,クウには最初からその選択肢があった。
森の異変から逃れるために町へ来たのだから,森が元へ戻れば帰るのは自然なことだ。
「そうだね」
理人は答えた。
「宿に残ることもできると思うけど」
「マルタもそう言ってた」
「もう聞いたんだ」
「昨日ね。香草見るなら助かるって」
「仕事まである」
「あるね」
クウは少し楽しそうに言った。
森へ戻れる。
宿にも残れる。
そのどちらにも,クウが困る理由はほとんどない。
ぽんたのように「戻れるけれど戻らない」と決める必要すらないように見えた。
だからこそ,理人には余計に口を出しづらかった。
「リヒトは」
クウが言う。
「俺?」
「私が森へ戻っても,ここへ残ってもいいと思ってる?」
「クウが決めることだから,何とも言えないけど……」
いろいろ考えていたはずなのに,当たり障りのないことを答えてしまった。
クウは理人を見る。
しばらく何も言わなかった。
その視線に,理人は少しだけ居心地の悪さを覚える。
「何?」
「やっぱりそう言うんだね」
クウはそう言って口を閉じた。
「変ですか?」
「変じゃないよ」
クウは一度森へ目を戻した。
「優しいとは思う」
「ならよかった」
「でも,聞きたいのはそれじゃないかな」
理人は口を閉じた。
昨日,似たことを言われた。
ぽんたにも,自分が決めればいいと言っているだけでは答えになっていないと気づかされたばかりである。
クウはぽんたより直接的だった。
「リヒトは,私がどうしてもいいって言うよね」
「うん」
「でも,リヒトはどうしてほしいの?」
予想していたはずなのに,実際に聞かれると答えに詰まった。
理人は森を見る。
風が木々の上を通り,遠くで鳥の声が聞こえる。
ここで「クウが決めればいい」と繰り返せば,また同じになる。
自分の希望を言わないことが,相手を尊重することになるとは限らない。
昨日,ようやく気づいたことだった。
「俺は」
口にして,一度止まる。
クウは急かさず待っている。
「一緒に来てほしい」
言ってしまうと,思ったより短かった。
クウの耳が少しだけ動いた。
「王都に?」
「うん」
「どうして?」
今度は理由を聞かれた。
理人は少し考える。
「クウの力があると料理に便利だから,って言ったら怒る?」
「少しね」
「じゃあ,それは二番目くらいで」
「あるんだ」
「便利なのは本当だから」
クウの口元がわずかに緩んだ。
理人も少し笑い,続ける。
「市場で知らない香草を見たとき,クウが匂いを確かめるのを見るのも面白いし,新しい食べ物を見つけたら,クウがどう感じるのかも聞きたい。」
「なるほどね」
「あと」
理人は少し言いにくくなった。
「三人でいるのに慣れたから」
クウがこちらを見る。
「ぽんたが一緒に行くって決めたときも嬉しかった。クウも来てくれたら,もっと嬉しいと思う」
そこまで言ってから,理人は息を吐いた。
「でも,これは俺の希望だから。それでクウが決める必要はないよ」
「分かってる」
返事はすぐだった。
クウは少しだけ呆れたように理人を見る。
「そこまで言われなくても分かるよ」
「一応」
「リヒトは,そういうところ気にしすぎだね」
「教師だったので」
「それ,関係ある?」
「……今は気にしなくてよかったかも」
クウが小さく笑った。
森から吹いてきた風が二人の間を通る。
しばらく,どちらも話さなかった。
理人は答えを待っていたが,今度は焦らなかった。
自分が言うべきことは言った。
あとは,本当にクウが決めればいい。
◇
「私ね」
しばらくして,クウが口を開いた。
「森に戻るのも嫌じゃないよ」
「うん」
「ここに残るのも,前よりずっと平気になった。マルタの仕事も嫌いじゃないし,香草を見るのも面白いから」
クウは町の方へ一度目を向けた。
煮込み鹿亭はここから見えない。
それでも,どちらにあるかは分かっているのだろう。
「人間の町って,もっと嫌なところだと思ってた」
「今も人が多いところは苦手だろ」
「苦手だよ。でも,全部嫌いではないかな」
市場へ初めて行ったとき,クウは人が増えるたび理人の近くへ寄ってきた。
子どもに突然手を伸ばされれば身体を引いた。
それでも市場へ行かなくなったわけではない。
最近では,香草の店主と普通に話すことさえある。
「森にいたら知らなかったことが,ここで増えたの」
クウは続ける。
「涙玉も,黒香子も知ってたけど,こんなふうに料理にするのは知らなかった。肉の匂いが,焼き方や香草で変わるのも面白かったし,市場には森にない匂いがいっぱいあった」
「チーズも?」
「好きだったよ」
「王都にはもっとあるらしい」
「それも聞いた」
クウの耳が少し前へ向く。
「王都には,アルカにない食べ物もあるんだよね」
「かなりあると思う」
「香草も?」
「あるでしょうね。市場が大きいなら,ほかの土地から来るものも多そうだし」
「知らない匂いも?」
「それは確実に」
クウは少し考えるように鼻先を上げた。
まだ見たこともない王都の匂いを,風の中から探そうとしているようにも見える。
「じゃあ,見てみたい」
静かな声だった。
けれど,迷っているようには聞こえなかった。
「森にいれば,森のことは分かる。でも,外に何があるかは分からないままだよね」
「そうだね」
「前は,それでもよかったの」
クウが理人を見る。
「でも今は,少しもったいないと思う」
その言葉は,理人にはよく分かった。
自分も同じだった。
アルカにあるものだけで,ちゃんとおいしいハンバーグができた。
それでも,知らないものがあると分かってしまえば,見てみたくなる。
「それに」
クウは少し間を置いた。
「ぽんたも行くんでしょ」
「うん」
「リヒトも行く」
「そう」
「なら,私だけ残る理由も,今のところ思いつかないかな」
「それ,消去法じゃない?」
「違うよ」
クウは少し笑った。
「私が行きたいから行くの」
はっきりと言った。
「知らない場所を見たいし,知らない匂いも知りたい。それに,また三人で何か作るなら,私もいたいと思う」
理人はしばらく何も言えなかった。
嬉しくて。
「じゃあ」
「うん」
クウは一度頷いた。
「私も王都へ行くよ」
理人の肩から,気づかないうちに入っていた力が抜けた。
「分かった」
「それだけ?」
昨日も似たようなことを言われた気がする。
理人は思わず笑った。
「嬉しいです」
「急に丁寧だね」
「何となく」
「そこは普通でいいよ」
「じゃあ,嬉しい」
クウの目が少し細くなる。
「うん」
その返事を聞いて,理人も笑った。
◇
宿へ戻ろうと歩き出したときだった。
クウが一歩だけ理人へ寄った。
市場で人を避けるときのような距離ではない。
理人が足を止める。
「どうした?」
返事の代わりに,クウはそのまま横を通り,灰銀色の身体を理人の脚へ軽く擦りつけた。
柔らかな毛がズボン越しに触れる。
理人は動けなかった。
クウは一度離れたが,歩き出さず,すぐ横に立ったままだった。
「……クウ?」
「何?」
何でもないことのような返事だった。
理人は手を下ろしかけて,止める。
市場で子どもが触ろうとしたとき,クウは嫌がった。
それを知っている。
だから,自分から触れる気はなかった。
ところがクウは,止まった理人の手を見たあと,一歩近づいた。
そして,頭をわずかに上げる。
灰銀色の毛が,理人の指先へ触れた。
偶然ではない。
それでも理人は,すぐには動かなかった。
クウも離れない。
少し迷ってから,理人は指先を動かした。
頭の上から耳の間へ,毛並みに沿ってゆっくり撫でる。
思っていたより柔らかかった。
ぽんたの毛とは違う。
ぽんたは厚く,少し弾くような感触があるが,クウの毛は細く滑らかで,指を動かすとその下へ静かに沈んでいく。
理人は一度撫でただけで手を止めた。
クウはまだ動かなかった。
もう一度だけ,今度は首の後ろへ向かって軽く撫でる。
大きな耳が少しだけ横へ倒れた。
「……撫でちゃっていいの?」
思わず聞く。
クウは理人を見上げた。
「今さら聞くんだね」
「いや,確認は大事だから」
「そうだね」
クウはそれ以上何も言わなかった。
ただ,離れもしなかった。
理人も,三度目は少しだけ自然に手を動かした。
動物が好きだった。
日本にいたころは飼えなかった。
異世界へ来てから,ぽんたの毛には何度も触れている。
それでもクウについては,ずっと距離を守ってきた。
その距離を縮めたのが,自分ではなくクウの方だったことが,理人には少し嬉しかった。
「リヒト」
「何?」
「そろそろ帰らない?」
「あ,はい」
手を離す。
クウは何事もなかったように歩き出した。
理人もその横へ並ぶ。
少し進んだところで,クウがこちらを見る。
「また敬語になってるよ」
「今のは癖」
「ふうん」
「何?」
「別に」
クウは少しだけ楽しそうだった。
◇
町へ戻るころには,夕方の空気が少し冷たくなっていた。
煮込み鹿亭の方からは,まだ見えないうちから料理の匂いが流れてくる。焼いた肉と煮込み,それに今日は少し強めの香草が混ざっている。
「今日,香草変えた?」
クウが鼻を動かした。
「ここから分かる?」
「少しね」
「帰ったらマルタさんに聞いてみよう」
「うん」
二人で歩きながら,理人は明日のことを考える。
ハリスへ,もう一度話をしなければならない。
一人分ではなく,今度は三人だ。
正確には,人間一人と狸一匹,狐一匹である。
ハリスがどんな顔をするか少し気になる。
「リヒト」
「何?」
「ぽんたには,私から言うよ」
「そう?」
「うん」
クウは少し笑った。
「きっと騒ぐから」
「それは否定できない」
「俺も行くって決めたんだから,クウも来ると思ってた,とか言いそう」
「言いそうだな」
二人とも少し笑った。
宿へ近づくにつれ,人の声と食器の音が聞こえ始める。
昨日までは,王都へ行くのは自分だけだった。
その夜,ぽんたが一緒に行くと言った。
そして今日,クウも自分で決めた。
三人で行く。
そう考えた瞬間,王都までの十日余りの道のりが,昨日までとは違って見えた。
知らない道。
知らない町。
知らない料理。
そこへ向かうことへの不安がなくなったわけではない。
それでも,一人で行く旅ではなくなった。
「クウ」
「何?」
「王都で,何か好きな匂い見つかるといいな」
クウは少し考えたあと,前を向いたまま答えた。
「一つじゃ足りないかな」
「欲張りだね」
「リヒトに言われたくないよ」
それには反論できなかった。
理人は笑いながら,クウと並んで煮込み鹿亭へ戻った。




