第45話 旅支度の市場
翌朝,理人が厨房へ降りると,マルタはいつものように朝食の準備をしていた。
大鍋から湯気が上がり,焼き台では薄切りの肉が音を立てている。バルドは食堂側で椅子を整えており,ぽんたはまだ降りてきていない。クウは厨房の隅で丸くなっていたが,理人が入ってきた気配に耳だけを動かした。
「おはようございます」
「おはよう。ちょうどいいところに来たね」
マルタは鍋を混ぜていた木匙を置くと,前掛けのポケットから小さな革袋を取り出した。
「これ,あんたの分」
「何です?」
「金」
「それは見れば分かります」
「なら話が早い」
差し出された革袋を受け取ると,見た目より重かった。中で硬貨が触れ合う音がして,理人は少し眉を寄せる。
「多くないですか?」
「まだ数えてないだろ」
「重さで何となく」
「あんた,この町の金の重さまで分かるようになったのかい」
「そこまではわからないですけど」
袋の口を開いて中を見ると,やはり自分が想像していたより多い。理人は数枚を確認したところで手を止め,マルタを見た。
「これ,本当に自分のですか?」
「そう言っただろ。最初の三日は飯と寝床だけって約束だったけど,その後もずっと働かせてたからね。部屋と食事の分を引いて,残りをまとめた」
「でも,自分はそれで十分だって」
「それはあんたが勝手に十分だと思ってただけだよ」
「いや,でも」
「あんたが働いたかどうかは,あんたじゃなくて雇った側が決めるんだよ」
言い返そうとして,理人は黙った。
理屈としては分かる。
むしろ,日本で教師をしていた頃なら,働いた分の給与を受け取るのは当然だと言っていただろう。
ただ,異世界へ来た初日に寝る場所をもらい,毎日食事を出してもらい,町で暮らすためのことまで教えてもらった。その感覚が強すぎて,自分が宿へどれほど返せていたのかは今でもよく分からない。
「マルタさん」
「返させないよ」
「まだ何も言ってません」
「返そうとした顔だった」
「そんなに分かりやすいですか」
「しばらく一緒に働いてるからね」
マルタはそれで話は終わりだと言わんばかりに,もう一度木匙を持った。
「旅に要るものを買ってきな。塩でも香辛料でも,保存食でもいい。十日以上かかるから,手元に少しは持ってた方がいいものもあるだろ」
「商隊でも食事はあるそうです」
「全部向こう任せにする気かい?」
「炊事を手伝う側なので,それは困りますね」
「だろ」
理人は革袋をもう一度見た。
ちょうど今日,ハリスへ返事をしに行くつもりだった。
王都へ行く。
昨日までは考えているだけだった予定が,金を受け取ったことで急に現実へ近づいた気がする。
「ありがとうございます」
「礼はちゃんと王都まで着いてからにしな」
「そこまでですか」
「道中で全部食い物に使って立ち往生したら困るからね」
「そこまで計画性なくないですよ」
「どうだか」
マルタは笑った。
その声につられたのか,厨房の隅にいたクウが顔を上げる。
「市場に行くの?」
「そのつもりです。ハリスさんに返事して,旅に必要なものを少し買おうかと」
「俺も行く」
声がした。
振り返ると,いつの間にか厨房の入口にぽんたがいた。寝起きらしく背中の毛が少し潰れている。
「起きてたのか」
「市場って聞こえた」
「そこだけ聞こえるんだな」
「旅の買い物だろ?」
「そう」
ぽんたは一度頷いたあと,少しだけ間を置いた。
「じゃあ,行く」
「クウは?」
理人が尋ねると,クウも立ち上がった。
「私も行っていい?」
「もちろん」
そう答えてから,理人は一瞬だけ考えた。
前に市場へ買い物へ行ったときも三人だった。
昨日,ハリスのところへ話を聞きに行ったときもそうだ。
だから今日も三人で行くこと自体は何もおかしくない。
けれど,買うのは自分の旅支度だ。
その違いを,理人は意識しておくことにした。
◇
朝食の片づけを終えて宿を出ると,アルカの通りにはすでに人が増え始めていた。
市場へ近づくにつれ,野菜を積んだ荷車や,空の籠を抱えた店の者とすれ違う。ぽんたはいつものように少し先を歩き,クウは理人の横についていた。
「先にハリスさんのところに行きます」
「買い物じゃないの?」
「そのあと」
「串焼きは?」
「もっとあと」
「まだあるかな?」
「何で俺に聞くんだよ」
「前あったから」
ぽんたは期待を隠す気もない。
理人は苦笑しながら,市場の南側へ向かった。
青い布を掛けた荷車は,前に来たときと同じ場所にあった。今日は荷の積み替えをしているらしく,数人の男たちが木箱を運び,ハリスはその横で何か書かれた板を確認している。
理人には当然読めない。
この問題も王都へ行ったからといって勝手に解決するわけではないので,いずれ本気で勉強した方がいいだろう。
「ハリスさん」
声をかけると,男が顔を上げた。
「おう。決めたか?」
「はい。王都へ行きます」
口にした瞬間,昨日宿でマルタたちへ伝えたときとは違う感覚があった。
宿の中で言うのは決意だった。
今の一言は,約束に近い。
「炊事を手伝うって条件でお願いしたいです」
「分かった。なら一人分押さえとく」
ハリスは持っていた板へ何かを書き込んだ。
自分の名前なのか,人数なのか,それすら理人には分からない。
「出発は予定通り?」
「ああ。朝,日が上がる前にはここへ来い。荷を積み終えたら出る。遅れても待たんぞ」
「分かりました」
ハリスの視線が,理人の足元へ移る。
ぽんたとクウが並んでいた。
「で,そっちは?」
前にも聞かれた。
理人は答える前に,二匹を見た。
ぽんたはハリスを見返している。
クウも黙っている。
「まだです」
理人はそう答えた。
「まだ?」
「自分が行くことは決めました。でも,ぽんたとクウがどうするかは二匹が決めることなので」
ハリスは少しだけ眉を上げたものの,特に何か言うことはなかった。
「なら決まったら言え。魔獣でも荷車に乗るなら人数には入れるし,歩くなら歩くで事前に知っておきたい」
「分かりました」
「喋るなら,まあ人間一人増えるのと大して変わらんか」
「俺,人間より軽いぞ」
ぽんたがすぐ口を挟む。
「飯は?」
「食う」
「なら軽いだけじゃ得しねえな」
「いっぱい働けるぞ」
「何ができる」
「箱」
「荷物か?」
「俺が箱!」
「ややこしいな」
ハリスが少し笑った。
クウも口元を緩める。
「決まったら,また来ます」
理人が言うと,ハリスは「ああ」とだけ返し,また荷札へ目を戻した。
その場を離れてからもしばらく,ぽんたは何も言わなかった。
理人も,あえて聞かなかった。
◇
「で,何買うんだ?」
市場の中央へ入ったところで,ぽんたが聞いた。
「まずは塩。それから黒香子を少し。道中で料理を手伝うなら,最低限自分で使えるものがあった方がいいと思う」
「宿の持ってけば?」
「店のだから駄目」
「ちょっとくらい」
「駄目」
「マルタならくれそうだけど」
「だからって勝手に持っていく理由にはならないだろ」
その横でクウが少し考える。
「香草は?」
「迷ってます。乾いたものなら持ちやすいですけど,何に使うか分からないまま大量に買っても仕方ないので」
「前の店,見てみる?」
「そうですね」
以前マルタに買い物を頼まれたときに立ち寄った香草屋へ向かうと,店主の老人はクウを見るなり思い出したらしい。
「お,宿の狐か」
「クウだよ」
「そうだったな」
老人は笑い,理人が王都までの旅用に香草を少し欲しいと伝えると,乾燥させた葉を何種類か出してくれた。
「旅ならこれが楽だ。肉にも煮込みにも使えるし,多少入れすぎてもひどいことにはならん」
理人が葉を指先で崩すと,青さの残る香りが広がる。
クウも横から鼻を近づけた。
「前に見たのより,少し軽い匂いだね」
「旅向けにしっかり乾かしてあるからな。生の葉ほど香りは強くない」
「肉には?」
「脂の多い肉なら合うよ」
その一言で,理人は角猪を思い浮かべた。
いろいろ考え始めたが,止める。
今日は研究用の買い物ではない。
「少しください」
「少しか?」
「持てる量にしないと」
「堅実だな」
「旅なので」
小さな包みに入れてもらう。
塩も,同じように使いやすい量だけ買った。黒香子は宿で使っているものと同じ店を選び,香りを確かめてから少量にする。
ぽんたは途中から退屈そうだった。
「食えないものばっかり買ってる」
「全部食い物に使うぞ」
「今食えない」
「そこかよ」
クウが小さく笑った。
◇
次に立ち寄ったのは,乾物を扱う店だった。
干し肉や硬いパン,乾燥させた豆や根菜が並んでいる。
商隊で食事が出るとはいえ,何かあったときのために自分でも少し持っておきたい。マルタも予備は持たせると言っていたが,自分用に何を選ぶか考えるのも悪くない。
「これ,どれくらい持ちます?」
干し肉を指して尋ねると,店の女性が保存の目安と食べ方を教えてくれた。
そのまま噛むには硬いが,湯で戻せば少し柔らかくなる。塩気が強いので,煮込みへ入れるなら追加の塩は少なくていいらしい。
「これ,料理にも使えそうですね」
「保存食を料理にするの?」
クウが聞く。
「普通に食べてもいいですけど,十日ずっと硬い肉を噛むよりは煮た方がうまいでしょう」
「俺,硬くても食えるぞ」
「ぽんた基準で考えてない」
「何で!」
「人間だから」
「それ便利な言い訳だな」
ぽんたが不満そうに言う。
理人は干し肉を少量と,硬いパンを二つだけ買った。
荷物を増やしすぎない。
必要なものは途中の宿場でも買えるとハリスが言っていた。
最初から十日分すべてを背負う必要はない。
◇
買ったものを袋へ入れながら市場を歩いていると,ぽんたの歩みが急に遅くなった。
理由は聞くまでもない。
少し先に,前にも見た串焼きの屋台がある。
角猪より小さな魔獣の肉だろうか。薄い肉を串へ刺し,炭火で焼いている。表面には香草と塩が振られ,脂が炭へ落ちるたびに香ばしい煙が上がっていた。
ぽんたは屋台を見る。
それから理人を見る。
また屋台を見る。
「今日は見るだけじゃないぞ」
理人が言う。
ぽんたの耳が立った。
「買う?」
「買う」
「いいの!?」
「マルタさんから給料もらったから」
「給料?」
「今まで働いた分」
「俺も働いた」
「お前はその都度もらってただろ」
「あれ肉に使った」
「知ってる」
ぽんたは少し考えたあと,それでも嬉しそうに屋台へ向かった。
前に市場へ来たときは,宿の買い物だった。
マルタから預かった金で,自分たちの食べ物を勝手に買うわけにはいかない。
今日は違う。
自分で働いて受け取った金だ。
何に使うかは自分で決めていい。
「三本ください」
理人が言うと,クウがこちらを見る。
「私もいいの?」
「食べない?」
「食べるよ」
「なら三本」
店主が串を渡してくれる。
熱いので,理人とクウは少し待ったが,ぽんたはすぐにかぶりついた。
「熱っ」
「だから待てって」
「うまい!」
「どっちなんだよ」
理人も一口食べる。
塩気は少し強い。
肉は薄いので表面の焼けた部分が多く,炭の香りがしっかりついている。香草も単純だが,歩きながら食べるならこのくらい分かりやすい方が合っていた。
「うまいな」
「だろ!」
「何でぽんたが得意そうなんだ」
「俺が見つけた」
「前からある店だろ」
クウは急がずに一口噛み,少し鼻から息を抜いた。
「煙の匂いがするね」
「炭で焼いてるからでしょうね」
「この葉の匂いも好き」
「さっき買ったのとは違いますね」
「うん。こっちの方が強い」
理人は串に残った肉を見る。
旅の途中でも,こういう簡単な焼き物なら作れるだろう。
肉と塩,香草,火があればいい。
わざわざハンバーグばかり作る必要はない。
道中では,その土地で手に入るものをそのまま食べるのも楽しそうだった。
「リヒト」
「何?」
「もう一本いける」
「聞いてない」
「給料あるんだろ?」
「俺のだぞ」
「友達に使ってもいいぞ」
「都合いいな」
理人は笑った。
結局,追加は買わなかった。
代わりに,少し先の店で焼いた根菜を三人で分けることにした。
◇
市場をさらに歩くと,以前,王都方面から来た商人が店を出していた場所へ着いた。
硬いパンや粉,淡い黄色のチーズを並べていた店である。
今日も同じ男がいた。
「また来たか」
「覚えてました?」
「喋る狸と狐連れてる客は,そう何人もいない」
「俺,目立つ?」
「かなり」
ぽんたは少し嬉しそうだった。
並んでいるチーズを見ると,前に試食したもののほかにも種類が増えている。色が濃いもの,白っぽいもの,表面が少し硬く乾いたものがあった。
「王都に行くことにしました」
理人が言うと,商人は少し驚いたあと笑った。
「食い物見にか?」
「それもあります」
「本当に行くのか」
「はい」
「なら,向こうでこれだけ見て満足するなよ。市場にはもっとある」
男は並べていたチーズを顎で示した。
「ここに持ってくるのは,日持ちするものが中心だ。柔らかいやつは運びにくいからな」
「柔らかいチーズもあるんですか?」
「いくらでも」
理人の中で,一気に質問が増えた。
味は,脂は,溶け方は。
パンへ挟むのか,料理へ使うのか。
「顔変わったぞ」
ぽんたが言う。
「そう?」
「料理のこと考えてる顔」
「まだ何も言ってない」
「分かる」
クウまで小さく頷いた。
「私も少し分かるようになったよ」
「そんな顔あります?」
「ある」
二匹に揃って言われると反論しづらい。
商人が笑いながら,小さなチーズの欠片を三つ切った。
「旅立つ前の餞別だ。食ってけ」
「いいんですか?」
「王都でうまいもん見つけたら,今度こっちに戻ってきたとき教えてくれ」
差し出されたチーズを受け取る。
前に食べたものより少し柔らかく,口に入れると乳の香りが強かった。塩気は穏やかで,噛むうちに脂がほどける。
ぽんたはすぐに,
「これ肉と食ったらうまそう」
と言った。
「珍しく同意」
「珍しくは余計だ」
クウはしばらく味わってから,
「焼いたら匂い変わる?」
と店主へ聞いていた。
「変わるぞ。こいつは少し溶ける」
その言葉に,理人とクウが同時にチーズを見る。
「リヒト」
「はい」
「考えてる?」
「考えてます」
「やっぱり」
クウが少し笑った。
理人も笑い返した。
◇
買い物を終える頃には,革袋の重さは少し減り,代わりに肩へ掛けた袋が少し重くなっていた。
塩,黒香子,乾燥香草,少量の保存食。
どれも特別なものではない。
けれど,異世界へ来たばかりの頃は,自分一人で市場へ来て何かを買うことすら難しかった。
値段も分からず,文字も読めず,町の道さえ覚えていなかった。
今も文字は読めない。
そこはあまり進歩していない。
それでも,自分の金を持ち,自分で必要なものを選び,来週には王都へ向かう商隊へ乗ることになっている。
理人は歩きながら,隣を見る。
クウがいる。
少し先にはぽんたがいて,さっき食べた串焼きの話をまだしている。
「もう一本買えばよかった」
「まだ言ってるのか」
「王都まで十日以上だろ。今のうちに食っといた方がいい」
「どういう理屈だよ」
「王都に同じ串焼きあるか分からないだろ」
そこで,理人は少しだけ足を緩めた。
確かにそうだった。
王都にはもっと多くの食べ物がある。
知らないパンも,チーズも,料理もある。
けれど,アルカにあるものがそのまま向こうにもあるとは限らない。
今日食べた串焼きも。
見慣れた市場も。
煮込み鹿亭の料理も。
離れてから初めて,ここにしかなかったと気づくものもあるのだろう。
「じゃあ,帰りにもう一本買うか?」
理人が言うと,ぽんたが勢いよく振り返った。
「本当!?」
「三人で一本な」
「少ない!」
「さっき食っただろ」
「旅立ち前だぞ!」
「まだ何日もある」
「今しか食えないかもしれない!」
さっき自分が考えたことを,ずいぶん都合よく使われている気がする。
クウが横で笑っていた。
「一本を三人なら,私はいいよ」
「クウ!」
「少し食べられれば十分だから」
「じゃあ俺が残り食う!」
「最初からそれ狙ってない?」
「狙ってない!」
声が大きい。
市場の人間が何人かこちらを見ている。
けれど,もう以前ほど気にならなかった。
理人は肩の袋を持ち直し,二匹と並んで歩く。
王都へ行くと決めたのは自分だ。
二匹がどうするのかは,まだ分からない。
だから,今この時間を旅の始まりだと思うのは早いのだろう。
それでも。
三人で市場を歩き,食べ物の匂いに足を止め,余計なものを買うかどうかで言い合っていると,今までと何も変わらないように思える。
そして同時に,少しずつ終わりへ近づいているようにも感じた。
「リヒト,早く!」
ぽんたが串焼きの屋台の前から呼ぶ。
「勝手に行くなよ」
「待ってる!」
理人が歩調を速めると,クウも隣についてきた。
市場には,焼けた肉と香草の匂いが漂っている。
アルカへ来てから,何度も嗅いだ匂いだった。
今のうちに,もう少し覚えておいてもいいかもしれない。
そう思いながら,理人は二匹と一緒に屋台へ向かった。
本日の更新はここまでです。
王都への準備も,少しずつ始まりました。
三連休最終日の明日も,朝・昼・夜に更新予定です。
ここまで読んでくださり,ありがとうございます。




