第44話 働いた分[マルタ]
その日の営業が終わったのは,いつもより少し遅かった。
最後の客を見送ったあと,理人は食堂の卓を拭き,空になった水差しを厨房へ運んでから二階へ上がった。ぽんたもそのあとを追い,クウは少し前まで香草の籠を確認していたが,マルタにもういいと言われると静かに奥へ消えていった。
厨房には洗い終えた皿が重ねられ,火を落とした竈にはまだわずかな熱が残っている。昼間なら客の声や食器の音が絶えない場所も,店を閉めれば急に広く感じられた。
マルタは最後の布巾を絞って干すと,食堂の隅で帳面を開いていたバルドへ声をかけた。
「昼に言った話だけどね」
「リヒトか」
「そう」
バルドは帳面から顔を上げた。
「王都へ行くってやつか」
「本人はもう行く気だよ。ハリスにも明日返事するって言ってたし,あの顔なら今さら止めたところで聞かないだろうね」
「止める気あるのか?」
「ないよ」
マルタは向かいの椅子を引き,そこへ腰を下ろした。
止める気は,本当になかった。
寂しくないのかと聞かれれば,少し違う。
理人がいなくなれば仕事は増える。朝になれば勝手に厨房へ降りてきて,言われる前に皿を片づけたり,水を運んだりする人間が一人減るのだから,楽になるはずがない。
ぽんたやクウがどうするのかは,まだ誰も聞いていない。
あの二匹が宿へ残る可能性だってあるし,森へ戻ることもできる。それでも,理人がいなくなれば,今までと同じにはならないだろう。
そう思うくらいには,あの三人がいる光景が宿の日常へ馴染んでいた。
「それで,何を持たせる?」
マルタが尋ねると,バルドは少し考えてから帳面を閉じた。
「先に金だろ」
「やっぱりそう思うかい」
「あいつ,金持ってないだろ」
「来たときよりはあるよ。買い物の残りを返さず懐へ入れてるって意味じゃないけどね」
「分かってる」
バルドが呆れたように答える。
理人は店の金に関しては妙に律儀だった。買い物を頼めば,戻ってくるなり品物と残った銅貨を一緒に差し出す。値段の分からない頃など,店主に言われた額をそのまま払って帰ってきたため,最初のうちはマルタがあとから相場を教える必要まであった。
そんな男なので,自分のための金はほとんど使わない。
「そもそも,給金をまともに渡してないんだよね」
マルタが言うと,バルドは何も答えなかった。
「三日働いて,使えそうならそのまま置くって言っただろ?」
「ああ」
「最初の三日は飯と寝床だけ。それは最初に話したからいい。でも三日を過ぎてからも,結局そのままだった」
「本人も何も言わなかったな」
「そこに甘えたんだよ」
当時は,少し長く泊まることになる程度に思っていた。
文字も読めず,町のことも知らない若者に,当面の飯と寝床を与える。その代わりに宿の仕事を手伝わせるなら,お互い困らないだろうというくらいの話だった。
ところが,理人は三日経ってもいた。
一週間経っても働いていた。
そのうち料理まで手伝い,買い物へ行き,森の異変が起これば猟師たちに持たせる水を冷やし,食材の保存にも力を貸した。
マルタとしては,住み込みの働き手が一人増えた感覚になっていたのだろう。
理人自身も,飯が食えて寝る場所があるなら十分だと言い続けた。
「まさか,狸の方が先に給料もらうとはねえ」
思い出して言うと,バルドの口元がわずかに動いた。
「ぽんたか」
「最初に仕事させた日に銅貨一枚渡しただろ。あのときは,働いたら金がもらえるって教えるつもりだったけどさ」
「肉が買えるって言ったら,急に働き始めたな」
「あれは分かりやすくていいよ」
人間の理人は飯と寝床だけで黙々と働き,狸のぽんたは銅貨一枚で目を輝かせた。
今になって思えば,順番が逆だった気もする。
「だから,ちゃんと渡そうと思ってる」
マルタが言うと,バルドは頷いた。
「全部を普通の日雇いで計算するのは違うぞ。部屋も飯も出してる」
「分かってるよ。だから差し引いた上でさ」
「それならいい」
バルドはもう一度帳面を開き,空いているところへ指を滑らせた。宿代と食事代,理人が働き始めてからの日数を大まかに数えながら,何度か小さく頷く。
細かく一日ずつ値を付けるのは難しい。
皿を洗った日もあれば,厨房で朝から動いた日もある。森の騒ぎで普段とは違う仕事をしたこともあったし,《熱交換》で冷やした水や食材へいくら払うのが正しいかなど,二人にも分からなかった。
ならば,あまり細かく考えても仕方がない。
「これくらいか」
バルドが示した額を見て,マルタは少し眉を上げた。
「もうちょっと出してもいいんじゃない?」
「何でだ」
「餞別」
「今のが給金だろ」
「だから,給金と餞別は別だよ」
「一緒に渡せば分からん」
「こっちが分かってるだろ」
バルドはしばらくマルタを見ていたが,やがて小さく息を吐いた。
「好きにしろ」
「最初からそのつもりさ」
「なら何で聞いた」
「一応,宿の主人だからね」
「こういうときだけか」
マルタは笑いながら立ち上がり,厨房奥の小さな戸棚を開いた。そこには日々の仕入れに使う金とは別に,急な買い足しや修理へ回すための金が入っている。
給金の分をそこから数え,さらに何枚かを加える。
大金というほどではない。
王都でしばらく何もせず暮らせるような額を渡すつもりもなかった。そんなものを持たせれば,今度は道中で余計な心配が増える。
それでも,旅に必要なものをいくつか買い,王都へ着いたあとに困らない程度の余裕は持たせられる。
「これなら,調味料くらい自分で好きなの選べるだろ」
「食い物に使う前提なのか」
「あの子だよ?」
「……そうだな」
バルドの納得が早かった。
◇
金の話がまとまると,今度は持たせる物の話になった。
「保存食は?」
バルドが尋ねる。
「商隊でも飯は出るだろうけど,自分の分が少しあるに越したことはないね。硬いパンと干し肉は,出る日の朝に包んでやるよ」
「多くするな。荷物になる」
「分かってる。二,三日分を予備に持たせるくらいさ」
「水袋は?」
「今使ってる予備が一つある。口もまだ傷んでないから,あれを持たせようか」
「鍋は商隊にある」
「鍋までは持たせないよ。あんなものまで背負わせたら,王都に着く前に嫌になる」
話しているうちに,旅へ持っていく物が少しずつ形になっていく。
着替えを入れる袋。
雨を避ける布。
水袋。
予備の保存食。
あとは市場で本人に買わせればいい。
塩や香辛料も,理人なら自分で選びたがるだろう。旅先で料理を手伝うなら,少しくらい手元へ置いておく方が便利だ。
「包丁は?」
マルタがふと思いついて尋ねる。
バルドが厨房の壁へ目を向けた。
「店のは駄目だぞ」
「分かってるよ」
「一本減ると困る」
「だから,古い方」
調理台の下には,今はほとんど使っていない包丁が一本ある。刃は少し短くなっているが,研げばまだ十分使える。
理人が来た頃,欠けた包丁を何本かドランへ持っていったことを思い出す。
あのときは,ハンバーグを作るための道具が欲しいと言っていた。
今度は,本当に自分で使う包丁を持って町を出ることになるのかもしれない。
「研いどくか」
バルドが言った。
「明日でいいよ。まだ時間はあるんだから」
「忘れる」
「じゃあ今やる?」
「眠い」
「どっちなんだい」
バルドは答えず,大きく欠伸をした。
マルタは笑ったが,包丁を持たせるかどうかは少し考えた。
使える物はありがたい。
けれど,何でもこちらで用意してやる必要もない。
理人は王都へ「知らないものを見に行く」と言った。なら,必要なものを自分で選ぶところから旅なのだろう。
「包丁はやめとこうかね」
「何でだ」
「王都に行けば,ここよりいろいろあるだろ。あの子なら,そのうち自分で欲しいもの見つけるよ」
「火山領まで行くとか言い出しそうだな」
「ドランに何か吹き込まれてるからねえ」
そうなったら,それはそのときだ。
道具を探すために遠くまで行くのも,理人なら本当にやりかねない。
「じゃあ,今ある物で持たせるのは,水袋と雨よけの布。それから出発の日の食べ物だね」
「金も」
「それが一番大事だよ」
「本人は食材が一番って言いそうだ」
「だから金を渡すんだろ。好きなの買わせるために」
マルタは数え終えた銅貨を小さな革袋へ入れた。
ちゃり,ちゃりと硬い音が重なり,最後に口紐を引けば,掌に乗せるには少し重いくらいの袋になった。
それを見て,少しだけ迷う。
「多いかね」
「少ないよりいい」
「珍しく太っ腹だね」
「お前が足したんだろ」
「そうだった」
マルタは袋を手の中で一度転がした。
これを渡したら,理人はまず驚くだろう。
「こんなにもらえません」
とでも言うかもしれない。
容易に想像できた。
「受け取らないって言ったら?」
「働いた分だと言え」
「それでも遠慮するよ,あの子」
「なら帳面見せろ」
「読めないよ」
一瞬,二人とも黙った。
先に笑ったのはマルタだった。
「そうだったね」
「便利だな」
「何が」
「こっちが適当に書いても分からん」
「そんなことしたらあたしが怒るよ」
「冗談だ」
バルドまでそんな冗談を言うのが少し可笑しくて,マルタはしばらく笑った。
笑いが収まると,革袋を卓の上へ置く。
「じゃあ,こう言うよ。最初の三日は約束通り飯と寝床だけ。その後の分は,住み込みの分を引いて,残りをまとめたって」
「それでいい」
「餞別も混じってるとは言わない方がいいかね」
「言ったら返すぞ」
「だろうね」
なら,黙って足しておけばいい。
給金を細かく計算したところで,本当のところなど誰にも分からない。料理を手伝った分,森の騒ぎで働いた分,ぽんたやクウが宿で仕事をするきっかけを作った分まで値段へ直せと言われても困る。
少しくらい多くてもいい。
旅立つ人間へ渡す金というのは,そういうものだろう。
◇
「ぽんたとクウは,どうすると思う?」
片づけを終えかけたところで,バルドが尋ねた。
マルタはすぐには答えなかった。
二匹とも,理人が王都へ行くと聞いている。
ぽんたはいつもより静かになった時間があり,クウも王都まで十日ほどだと聞いたとき,わずかに動きを止めていた。
ただ,どちらもまだ「一緒に行く」とは言っていない。
「あの子たちが決めることだよ」
「リヒトは誘わないのか」
「誘わないだろうね」
「そうだろうな」
そこは二人とも同じ考えだった。
理人は,二匹が一緒に来ることを当然とは思わないだろう。
森へ戻りたいなら戻ればいい。
この宿へ残りたいなら,マルタとしては置いてやるつもりだった。
ぽんたなら働けば飯くらい出せるし,クウの鼻は厨房でも十分役に立つ。
「残るって言ったら?」
バルドが聞く。
「働かせるよ」
「やっぱりか」
「当たり前だろ。飯食うんだから」
「クウにも銅貨やるのか」
「本人が欲しがるならね。ぽんたみたいに全部肉へ変えるとは思わないけど」
想像すると,また少し笑えた。
ただ,マルタの中には,別の光景も浮かんでいた。
市場へ買い物に行くとき,いつの間にか三人で出ていく。
理人の少し前をぽんたが歩き,クウは横へつく。
帰ってくれば,ぽんたが余計なものを食べたがった話をし,クウは見つけた香草の話をする。
別々の場所から来た三人が,今ではそうやって一緒にいる。
あれをばらばらにする理由も,マルタには思いつかなかった。
けれど,だからといって自分が決めることでもない。
「まあ,その話は本人たちに任せよう」
「ああ」
「今あたしたちが考えるのは,理人をどう送り出すかだよ」
「明日渡すのか?」
マルタは卓上の革袋を見る。
「いや,もう少し後でもいいと思ってたけど……」
そこで考え直した。
旅に必要な物は,自分で買わなければならない。出発の日に金を渡しても遅い。
「明日渡そうかね」
「なら朝だな」
「市場に行かせよう。旅で必要なもの,自分で選ばせるよ」
「一人で?」
「どうせ二匹もついてくだろ」
バルドは否定しなかった。
マルタにも,その光景が簡単に想像できる。
ぽんたは市場と聞けば食べ物を期待するだろうし,クウも理人の旅支度なら気にするはずだ。
以前三人を買い物へ出したとき,ぽんたはずっと串焼きへ目を向けていた。それでも宿の金だからと,理人は買わせなかった。
そのことを思い出し,マルタは革袋へもう一枚だけ銅貨を加えた。
「増えたぞ」
バルドが言う。
「これは給金じゃないよ」
「じゃあ何だ」
「買い食い分」
「甘いな」
「最後くらいいいだろ」
「まだ最後じゃない」
「そうだったね」
出発までは,まだ数日ある。
明日の朝も理人は厨房へ降りてくるだろうし,ぽんたは腹が減ったと言い,クウは香草を確かめる。
いつも通りの朝が,まだ何度か残っている。
だから今からしんみりする必要はない。
マルタは革袋の口をきつく結び,明日の仕入れ用とは別の場所へ置いた。
旅へ出るなら,必要なものを買えばいい。
塩でも,黒香子でも,保存食でも,知らない道具でもいい。
少しくらい余ったなら,三人で何か食べてもいい。
どうせ理人のことだから,自分だけでは使わないだろう。
「さて」
マルタは立ち上がった。
「寝るよ。明日も朝早いんだから」
「ああ」
バルドが灯りを一つ消し,食堂が少し暗くなる。
二階から物音は聞こえない。理人も,ぽんたも,クウも,もう休んでいるのだろう。
マルタは厨房へ戻る前に,棚へ置いた革袋を一度だけ振り返った。
最初は三日だけのつもりだった。
その三日が思ったより長くなり,気づけば,送り出すための金を夫と二人で数えている。
明日の朝,理人はどんな顔をするだろう。
おそらく,素直には受け取らない。
そこまで考えて,マルタは笑った。
なら,受け取らせればいい。
働いた分を渡すのも,宿を預かる者の仕事なのだから。




