第43話 うちの厨房[マルタ]
理人を最初に見たとき,マルタは三日もあれば見極めるには十分だと思った。
ガルドが森で拾ってきたという,見慣れない服を着た若い男だった。身元は分からず,この辺りのこともほとんど知らないうえ,金もなければ行く当てもない。それでも働く気はあるというので,ひとまず飯と寝床を渡して,皿洗いや雑用をさせることにした。
「三日」
指を三本立ててそう告げると,理人は素直に頷いた。
「三日働いて,使えそうならそのまま置く。駄目なら,そのときはまた考えな」
「分かりました」
「給料は最初から出せないよ。その代わり,飯と寝床」
「十分です」
あまりに返事が早いので,少し笑ったのを覚えている。
もっと困った顔をするかと思っていた。
けれど,理人にとっては,その日の夜を安心して眠れる場所の方がよほど大切だったのだろう。
実際,働かせてみれば扱いやすかった。
最初から何でも上手にできたわけではない。宿の仕事に慣れているはずもなく,皿の置き場所も野菜の種類も,客へ料理を運ぶ順番も知らなかった。
だが,一度言えば覚えようとする。
分からなければ聞く。
勝手な判断で仕事を増やすことも少ない。
何より,頼んだことを嫌がらなかった。
異世界から来たという話が本当なら,元いたところでは教師だったらしい。マルタには教師がどれほど偉い仕事なのか分からないが,少なくとも皿洗いよりは立派な仕事だったのだろう。
それでも,
「前は教師だったので,これはやりません」
などとは一度も言わなかった。
汚れた皿を洗い,床を拭き,野菜を運び,頼まれれば皮も剥く。
料理が好きだというので包丁を持たせてみれば,少なくとも危なっかしい使い方はしなかった。
家庭料理ならできる。
本人がそう言っていた通りだった。
上手い職人ではない。
けれど,料理をしたことのない人間でもなかった。
そのくらいが,最初の印象だった。
◇
少し変わった男だと思い始めたのは,肉を冷たくした日のことだった。
水へ手を入れ,もう片方の手で肉へ触れていると思ったら,肉は冷たくなり,代わりに水がぬるくなった。
魔法らしいと本人も気づいたばかりだった。
普通なら,そこで騒ぐか,もっと大きなことを試したがる者もいるだろう。
理人は違った。
肉が冷えた。
なら保存に使えるかもしれない。
最初に考えたのがそこだった。
マルタとしては,その方がありがたかった。
火を出せる者なら珍しくもない。腕に覚えのある冒険者なら,魔法で魔獣を倒すこともある。
だが,肉を少し長くいい状態で置いておける力の方が,宿の厨房ではよほど役に立つ。
もっとも,理人自身は便利だからと何にでも使おうとはしなかった。普通にできる仕事は普通にやり,必要なときだけ力を使う。
変なところで慎重だった。
そして,変なところで妙に熱心だった。
その代表が,ハンバーグだった。
◇
最初に名前を聞いたとき,何の料理かと思った。
肉を細かくして,涙玉やパン,卵を混ぜて,また一つにまとめて焼くのだという。
何でそんな面倒なことをするのか。
もっと言えば,そこまでするなら煮込みでいいのではないか。
そう思った。
けれど,理人はやる気だった。
角猪の肉を手で刻み,涙玉を切り,パンを乳へ浸し,卵や塩,黒香子まで混ぜて形を整える。
作業を見ているうちに,マルタも少し期待した。
鉄板へ置けば,脂の焼けるいい匂いがする。
表面にはきれいな焼き色もついた。
「いいじゃないか」
そう言ったとき,理人は少し得意そうだった。
直後に割れた。
肉汁も水分も外へ流れた。
火は強すぎる。
形を動かそうとすれば,さらに崩れる。
何とか中まで火を通そうとすれば,今度は肉が硬くなる。
横から見ているだけなら笑えるところもあったが,当人は真剣そのものだった。
最初は,
「食べられます」
と言っていた。
途中から,
「まだ食べられます」
になった。
基準が下がっていることには,本人も気づいていたはずだ。
最後に食べたときの顔を,マルタは覚えている。
誰に言われるまでもなく,失敗したと分かっていた。
あのとき,少しだけ心配した。
料理というのは,失敗すれば腹が立つ。
手間をかけた料理ほど,思い通りにならなければ悔しい。
元いたところの料理を再現したかったのなら,なおさらだっただろう。
ここには同じ肉も,同じ道具も,同じ火加減もない。
なら,諦めても不思議ではなかった。
「……やり直したいな」
理人はそう言った。
「また作る?」
「作ります」
迷いがない。
「好きなんだねえ,その料理」
「好きです」
「何でそこまでやるんだい?」
少しくらい,故郷を思い出す味だとか,大切な誰かに作ってもらった料理だとか,そんな話が出るかと思った。
理人は一瞬考えたあと,
「おいしいからです」
と言った。
思わず笑った。
ずいぶん単純な理由だった。
けれど,料理を作る理由としては悪くない。
むしろ,マルタにはよく分かった。
おいしいものを食べたい。
誰かに食べさせたい。
だから作る。
料理なんて,最初はそれで十分だ。
失敗した肉は捨てずに煮込みへ入れた。
崩して,野菜と煮汁を足し,塩と香草を整える。焼きすぎた肉は元へ戻らないが,汁と一緒なら十分食べられる。
「まずいものは,食えるようにすればいいんだよ」
あのとき理人へ言ったことを,マルタは今でも覚えている。
本人も覚えているかは知らない。
ただ,あれからの理人を見ていると,少しくらいは残っていたのかもしれないと思う。
うまくいかなければ,全部を捨てて最初からやり直すのではない。
どこが悪かったのかを見て,残せるところは残す。
肉も道具も作り方も,少しずつ変えていった。
◇
それだけなら,変わった料理へ熱心な働き手が一人増えただけだった。
いつからか,宿には狸まで増えた。
森で暮らしていた変化狸だという。
物へ姿を変えられる。
喋る。
名前はぽんた。
最初に一晩泊めたいと言われたとき,理人の顔を見て,マルタは断っても仕方がないと思った。
外へ出して何かあれば,どうせこの男はずっと気にする。
なら置いておけばいい。
ただし,飯と寝床が欲しいなら働いてもらう。
「鍋」
そう言ったら,ぽんたは本気で怒った。
「俺は鍋じゃねえ!」
「なれるんだろ?」
「なれるけど!」
「なら働けるね」
理人のときもそうだった。
泊まるなら働く。
食べるなら,自分のできる範囲で役に立つ。
人間だろうと狸だろうと,そこを変える理由はなかった。
最初は文句ばかりだったぽんたも,銅貨を一枚渡して,
「町で食べ物が買えるよ」
と教えると,翌日から急に働く気になった。
実に分かりやすかった。
低い台になって軽い料理を運び,小箱になって布を運び,無理な重さなら自分から断る。
客に驚かれて怒ることもあるが,仕事は投げ出さない。
そのうち,食堂で喋る狸にも客が慣れた。
今では,ぽんたが料理を運んでいても,常連なら少し笑う程度である。
その後には狐まで増えた。
クウはぽんたとは逆だった。
ぽんたが何にでも顔を突っ込みたがるなら,クウはしばらく離れたところから見ている。
客の多い食堂へ無理に出す必要はないと思ったので,厨房の中でできる仕事を探した。
鼻がいい。
香草の違いが分かる。
少し傷み始めた葉を,人間より早く見つけることもできる。
「これは少し変だよ。下の方」
そう言って分けた束をほどけば,中から黒ずんだ葉が出てきた。
これなら使える。
仕事というのは,腕力だけではない。
できることで役に立てばいい。
気づけば,厨房の中には妙な役割分担ができていた。
理人が皿や鍋を片づけ,ぽんたが軽い荷物を運び,クウが香草や保存食を確かめる。忙しいときにはそこへマルタの指示が飛び,三人ともそれぞれ違う返事をしながら動く。
最初は,誰もここにいなかった。
そのことを思い出す方が,いつの間にか難しくなっていた。
◇
森で大きな騒ぎがあった間も,三人は同じだった。
理人は何かを考え込む。
ぽんたはすぐ口を出す。
クウはその少し横から二人を見る。
危ないことがあれば心配し合うくせに,普段は遠慮がない。
「リヒト,それ違う」
「どこが?」
「知らない」
「じゃあ何で言ったんだよ」
「何となく」
「それはぽんたと同じだよ」
「俺を巻き込むな!」
そんな声が厨房から聞こえるようになっていた。
マルタには,三人がどういう関係なのかを言葉にする必要はなかった。
主人と従魔でもない。
飼い主と動物でもない。
同じ宿で暮らしているだけとも,少し違う。
ただ,一緒にいるのが普通になっていた。
それで十分だった。
だから森の異変が落ち着き,理人が久しぶりに角猪の肉を見ながら,
「ハンバーグ」
と言ったときも,マルタはもう理人一人の料理だとは思わなかった。
ぽんたの耳が立ち,クウも肉へ鼻を向ける。
理人が作る。
二匹も何かする。
そういう料理になっていた。
◇
最後のハンバーグを作った日は,朝から理人の様子が少し違った。
いつものように,何種類も小さく作って比べるためではない。
「今までやったことを,一回まとめてみようかと」
そう言った。
マルタは先に釘を刺した。
「なら料理として作りな。比べることばかり考えて,冷めた肉を並べるんじゃないよ」
「分かってます」
「本当に?」
「……気をつけます」
少し前なら,そんなやり取りのあとも理人は頭の中で試験のことばかり考えていたかもしれない。
今回は違った。
肉の状態を見て,必要なところだけクウに頼む。
ぽんたへは,粗くする肉と細かくする肉を分けて頼む。
涙玉はゆっくり炒め,甘い香りが出たところで止め,《熱交換》で冷ましてから肉へ加える。
黒香子も,ただ混ぜ込むのではなく香りが残るところを考えていた。
マルタは手を出さずに見ていた。
もちろん,危なければ口は出す。
火が強すぎれば言うし,肉の扱いがおかしければ止める。
だが,もう隣へ立って一つずつ教える必要はなかった。
最初の日は,火が強いことすら横から言った。
蓋もこの厨房のものを貸した。
割れ始めた肉を前に,どうにか食べられるところまで持っていくので精一杯だった。
今は,理人自身が鉄板を見ている。
ぽんたとクウの力も使っているが,任せきりではない。
何を頼んで,何を自分でやるかを決めている。
そこが,一番変わったところかもしれない。
便利な力が増えたことではない。
何をしなくてもいいのかまで,少しずつ分かってきたのだ。
焼けた肉を返すと,きれいな焼き色が現れた。
亀裂はない。
押しても崩れない。
それでいて,硬そうにも見えなかった。
「形もましになったね」
声をかけると,理人は不満そうにこちらを見る。
「前がひどかったみたいに言いますね」
「ひどかっただろ」
「……否定できないです」
それを聞きながら,マルタは少し笑った。
自分で言えるようになったなら,もう十分だった。
◇
皿へ置かれたハンバーグへナイフを入れると,まず切りやすさが違った。
表面はきちんと焼けている。
けれど,中まで固く締まってはいない。
刃を入れたところから崩れず,切り口には細かな肉の間へ粗い粒が残っている。
最初のものとは,見た目からして別物だった。
一口食べる。
まず,焼き目の香ばしさと黒香子の匂いが広がった。
そのすぐ後から,火を入れた涙玉の甘みが追ってくる。
涙玉は甘い。
だが,甘すぎない。
生の辛い匂いも残っていない。
肉へ混ぜたものの一つとして,ちゃんと馴染んでいる。
噛むと,今度は肉が前へ出た。
全部を同じ細かさにしていないせいか,ところどころに歯応えがある。粗い肉を噛んだところから角猪の濃さが広がり,その間を細かな肉と脂がつないでいる。
柔らかいのに,ただ柔らかいだけではない。
肉を噛んでいる感じが残る。
それでいて,角猪の肩をそのまま焼いたときのように,いつまでも筋が口へ残ることもない。
パンと乳も,最初のように肉の中で妙な塊にはなっていなかった。味として前へ出るわけではないのに,噛めば肉汁がぱさつかずに残っている。
卵も同じだった。
何か一つが強く主張するのではなく,全体を一皿へまとめている。
マルタは二口目を食べた。
今度は,少しゆっくり噛んだ。
最初に黒香子が立ち,涙玉の甘さが来る。脂の濃さが広がったあと,粗い肉へ歯が当たれば,角猪らしい力のある味が戻ってくる。
一口の中でも,ずっと同じではない。
そこがよかった。
肉を細かくして混ぜる料理と聞いたとき,全部が同じ味になりそうだと思っていた。
実際,作り方次第ではそうなるのだろう。
けれど,これは違う。
噛むたびに,少しずつ出てくるものが変わる。
脂。
肉。
涙玉。
黒香子。
それぞれが別々に浮いているわけではなく,食べている間に順番が入れ替わるような感じだった。
だから一皿食べても重たくなりすぎない。
角猪と脂をこれだけ使っているのに,途中で飽きない。
それは,料理人としてかなり大事なことだった。
「どうです?」
理人が気になっているらしい。
マルタはもう一切れ食べてから答えた。
「ちゃんと一皿で出せるね」
「そこからですか」
「そこが大事だよ」
本当にそう思っていた。
家で自分が食べるだけなら,多少崩れていてもいい。
味にむらがあっても,自分で納得して食べればいい。
けれど,店で出す料理は違う。
客が金を払い,腹を空かせて待っている。
一皿食べて,また頼みたいと思えるものにしなければならない。
「最初みたいに崩れない。硬くない。脂だけ浮いてこない。涙玉も生っぽくないし,黒香子も強すぎない」
理人は真面目に聞いている。
「それに,食べ終わる前に飽きない」
「飽きない?」
「肉だけがずっと同じ味で押してこないってことさ。脂も香りもちゃんと変わるからね」
理人は少し考えたあと,自分の皿を見た。
どうやら,そこまでは意識していなかったらしい。
それでいい。
料理というものは,作った本人が考えた通りの理由だけでうまくなるわけではない。
食べた側が見つける良さもある。
理人は「ハンバーグ」と呼んだ。
見たことも聞いたこともない名前だった。
最初に作ったときは,その名前を付けて客へ出せるものではなかった。
今日は違う。
もし明日,宿の客に,
「これは何だ?」
と聞かれたなら,
「ハンバーグだよ」
と答えてもいい。
そう思えた。
◇
食べ終わる頃には,八枚の皿がきれいに空いていた。
ぽんたは誰か残さないか最後まで期待していたらしいが,一つも残らなかった。
「一個もない……」
「それだけうまかったってことだろ」
「それは嬉しいけど,食いたい」
理人が呆れ,クウが笑う。
その横でドランまで口を挟み,ガルドとミレナもいる。
マルタは空いた皿を重ねながら,少し前の厨房を思い出していた。
最初は理人一人だった。
皿を割らないかとバルドに聞かれ,三日だけ働くことになった若者。
その男が料理を一つ失敗した。
もう一度作った。
その途中で狸が増えた。
その狸が肉を細かくする道具になった。
今度は狐が増えた。
その狐が香りを見て,肉の状態まで整えるようになった。
気づけば,三人で一つの料理を作っていた。
「今日のは,ちゃんと名前を付けて出せる料理になったね」
「名前ならハンバーグです」
「この辺じゃ誰も知らない名前だろ」
「覚えてもらえばいいです」
「強気になったね」
「そこだけは最初からです」
理人が笑った。
確かに,そこだけは最初から変わっていない。
失敗したその日に,もう一度作ると言った男だ。
おいしいから,という理由だけで。
マルタは重ねた皿を持ち上げた。
なら,これで終わるはずもないのだろう。
◇
翌朝。
「王都って,ここからどれくらいかかります?」
仕込みの途中でそう聞かれたとき,マルタは手を止めた。
意外ではなかった。
それでも,思っていたより早かった。
「急だね」
「昨日ちょっと話してて,気になって」
理由を聞けば,王都にはパンや乳製品の種類が多いらしいからだという。
やはり食べ物だった。
思わず笑った。
普通なら仕事だの金だの,何かもう少し立派な理由を口にするところだろう。
この男の場合,知らない材料がある。
見たことのない料理がある。
それで十分らしい。
マルタは,止めようとは思わなかった。
煮込み鹿亭に来た日から,理人はここに住み続けると約束したわけではない。
ただ行く場所がなく,飯と寝床が必要だったから働き始めただけだ。
その間に仕事を覚え,知り合いが増え,ぽんたとクウまでそばにいるようになった。
ここが居場所になったことと,ここから出てはいけないことは同じではない。
むしろ,初めて来た頃よりずっと送り出しやすい。
皿洗いしかできなかった男ではない。
料理もできる。
荷物も運べる。
自分の力で何ができて,何ができないかも少しは分かるようになった。
何より,分からないときには人へ聞く。
それなら,王都へ行っても何とかするだろう。
そう思う一方で。
マルタは厨房の中を見回した。
空いた籠を運ぶぽんたがいる。
クウが香草の束を嗅ぎ,理人が洗った皿を棚へ戻している。
いつもの光景だった。
いつの間にか,いつもの光景になっていた。
王都へ行くなら,この景色も変わる。
そこで初めて,少しだけ実感した。
理人は,本当に煮込み鹿亭を出るのかもしれない。
「マルタさん?」
理人がこちらを見る。
「何だい?」
「いや,止まってたので」
「ちょっと考えてただけだよ」
「何を?」
「夕飯のことさ」
嘘ではない。
料理人なら,朝から夕飯のことを考える。
ただ,今日はそれだけでもなかった。
理人は納得したように作業へ戻った。
マルタも鍋へ向き直る。
止めるつもりはない。
なら,送り出す側がやることを考えなければならない。
飯を食わせて,寝床を貸して,働かせてきた。
その働いた分を全部返せていたかと聞かれれば,少し怪しい。
マルタは鍋を一度かき混ぜると,食堂側にいる夫へ目を向けた。
「バルド」
「ん?」
「今夜,ちょっと話があるよ」
バルドは一度こちらを見たが,理由までは聞かなかった。
「分かった」
それだけ答えた。
理人には聞こえていない。
ぽんたは何かを運ぶのに夢中で,クウも香草を見ている。
マルタは三人を順に眺めてから,再び鍋へ向き直った。
送り出すなら。
手ぶらというわけにはいかないだろう。




