第41話 森で拾った男[ガルド]
ガルドが理人を初めて見たとき,真っ先に思ったのは,森にいる格好ではない,ということだった。
白いシャツに細身のズボン,足には木の根や泥を踏むことなど考えていないような靴を履いている。その格好のまま角猪に追われているのだから,何をしに森へ入ったのかと考える以前の問題だった。
しかも,武器を持っていない。
角猪へ反撃する様子もなく,ただ必死に距離を取ろうとしている。
よく生きていたものだと思う。
ガルドとミレナが角猪を仕留めたあとも,理人はしばらく息を切らしながら倒れた魔獣を見ていた。怯えて動けないのかと思ったが,どうも違ったらしい。少し落ち着くと,自分がどこにいるのか,あれは何という生き物なのか,町はどちらにあるのかと順に尋ね始めた。
その中でも,倒れた角猪へ何度か視線を戻していた。つい先ほどまで自分を追い回していた魔獣なのだから気になるのは当然だと思ったが,怯えているだけにしては,どこか見るところが違う気もした。
もっとも,あの頃のガルドには,その視線の意味までは分からなかった。
食えると教えれば,少し興味を示す。
うまいかと聞いてくる。
部位によると答えれば,今度はどこが違うのか気にする。
妙な男だとは思ったが,面倒な男だとはまだ思っていなかった。
それは,煮込み鹿亭へ預けてからだった。
◇
理人がハンバーグという料理を作ろうとしていることは,最初から詳しく聞いていたわけではない。
ガルドの耳へ入ってきたのは,断片的な話ばかりだった。
角猪の肉を包丁で細かく刻んだらしい。
涙玉とパンまで混ぜたらしい。
焼いたら割れた。
中まで火が通らず,焼き直したら硬くなった。
最後はマルタが煮込みへ入れた。
そこまで聞いたときは,何がしたいのか分からなかった。
普通に焼くか,硬い肉なら煮込めばいい。
角猪は珍しい肉でもない。アルカで暮らしていれば,どう食えばそれなりにうまいかくらいは誰でも知っている。
わざわざ細かくし,混ぜ,形を作り直してから焼く理由など,ガルドにはなかった。
ところが,失敗したはずの理人は,やめるどころか今度は肉のことを聞きに来た。
「肩と腹だと,やっぱり脂の量はかなり違いますか?」
「ああ」
「脚は?」
「よく動く分,硬い」
「背中は?」
「部位にもよるが,脚よりは柔らかい」
聞いたことを,理人は頭の中で一つずつ並べているようだった。
知ったかぶりをして話を進めることはない。分からないことがあれば聞き,ガルドが「それは俺にも分からん」と答えれば,そこで一度止まる。
そのくせ,しばらくすると別の方向からまた同じ問題へ戻ってくる。
肉の硬さが問題なら,細かくすればどうか。
脂が足りないなら,別の部位を混ぜればどうか。
肉汁が流れるなら,何を入れれば残るのか。
ガルドには料理の細かな理屈など分からないが,理人が何をしているかくらいは途中から見えてきた。
こいつは,知らないやり方を知っているのではない。
知っているところまで持っていくために,足りないものを一つずつ埋めているのだ。
元いたところでは教師だったと聞いた。
ガルドには教師という仕事もよく分からなかったが,少なくとも,物を考えることには慣れているらしい。
ただし,考えれば何でもできると思っているわけではなかった。
森へ行くとなれば,一人で入ろうとはしない。
道具の材料が欲しいだけでも,ガルドとミレナについてきてもらう。
「鉄屑のために死にたくないので」
真顔でそう言ったときには,少し笑った。
もっともな話だった。
欲しいものがあるから危険へ飛び込む人間は多い。冒険者だけではない。猟師でも,あと少し奥へ行けば獲物がいると分かれば判断を誤ることがある。
理人は,好奇心の割にその辺りだけ妙に冷静だった。
だから,ガルドも森へ連れていくことができた。
そこで,ぽんたと出会った。
◇
今でも,あの日のことを思い出すと,最初に浮かぶのは狸ではなく鍋だった。
古い猟師小屋跡で鉄屑を拾っている最中,草の中にあった鍋へ理人が手を伸ばすと,鍋が逃げた。
次には箱になり,その箱まで逃げたと思えば,今度は棒になった。
三人で警戒しながら追って,最後に姿を現したのが変化狸だった。
普通の変化狸ならガルドも知っている。
鳥や獣へ姿を変える魔獣だ。
鍋や箱になるものなど聞いたことがない。
珍しい個体だと思った。
理人は別のことを考えていたらしい。
何に変われるのか。
どんな形を覚えているのか。
褒めると反応するのか。
危なくないと判断してからは,狸の能力そのものへ興味を向けていた。
それでも,無理に捕まえようとはしなかった。
翌日にはハンバーグを持って会いに行き,その後も何度か森へ通っていたが,理人がぽんたを「便利な魔獣」として扱っているようには見えなかった。
名前まで付けた。
ぽんた。
本人は最初かなり不服そうだったが,結局その名前で返事をするようになった。
ガルドが面白いと思ったのは,そこからだった。
理人がぽんたへ何かを頼む。
ぽんたが文句を言う。
理人も言い返す。
しばらくすると,何事もなかったようにまた二人で肉や道具の話をしている。
最初はハンバーグを食うために理人へ近づいていたように見えた狸が,気づけば理人の仕事を手伝い,宿の中をうろつくようになっていた。
火爪熊が浅いところまで出てきたと分かったときには,理人の方が先に,
「今日は戻るな」
と言っていた。
森で生きる魔獣に対して,人間の自分が何でも守れるなどとは考えていない。それでも,自分にできるところでは放っておかない。
ぽんたも,そういうところを見ていたのだろう。
◇
クウについては,ぽんたよりさらに分かりにくかった。
最初から人間を嫌っていたわけではないが,自分から町へ寄ってくるような狐でもなかった。
森の異変を避けるため,自分の周囲だけ魔力を遠ざけて暮らしていた。
喋ることにも驚いたが,それ以上にガルドが気になったのは,理人との距離だった。
理人はクウの力を知っても,すぐ何かに使おうとはしなかった。
できることを聞き,分からないと言われればそれ以上押さない。
疲れていると見れば止める。
宿へ来てからも,ぽんたには遠慮なく言うくせに,クウには少しだけ余白を残して接していた。
それが正しいやり方なのかどうか,ガルドには分からない。
ただ,しばらく見ているうちに,クウの立つ場所が変わった。
最初は少し離れたところから理人たちを見ていた狐が,気づけばぽんたと言い合いをし,厨房で理人の作業を覗き,三人で歩くときにも自然と同じ場所にいる。
理人自身は,その変化をどこまで分かっているのか怪しかった。
ぽんたがそばにいる。
クウもいる。
それをいつの間にか当たり前のものとして受け入れている。
ガルドから見ると,むしろその無頓着さがよかったのかもしれない。
二匹とも,理人に飼われているわけではない。
理人も,飼っているつもりはない。
それでも一緒に飯を食い,一緒に仕事をし,何かあれば互いに気にする。
妙な三人だった。
◇
森の異変が収まったあと,その三人が作るハンバーグを食べることになった。
煮込み鹿亭へ入ると,ドランまでいた。
「お前まで呼ばれたのか」
「狸に呼ばれた」
「俺が呼んだ!」
ぽんたがすぐに訂正する。
その声を聞きながら,ガルドは厨房へ目を向けた。
理人が鉄板の前にいる。
ぽんたはその横で肉を見張るように座り,クウは少し離れた位置から香りを確かめていた。
初めて失敗した頃のことを,ガルド自身が見ていたわけではない。
それでも,あの料理がここまで来る間に何が増えたのかは分かる。
理人が肉を覚えた。
ぽんたが肉を細かくする道具になった。
クウが香りや肉の状態を見るようになった。
いつの間にか,理人一人の料理ではなくなっている。
やがて,鉄板へ肉が置かれた。
脂の弾ける音と一緒に,香りが食堂まで流れてくる。
まず分かったのは角猪の脂だった。
焼いた脂には独特の強さがある。腹側の肉なら,火へ乗せた瞬間から甘いような濃い匂いが立つ。
そこへ,炒めた涙玉の柔らかな甘い香りが重なり,黒香子の刺激が遅れて鼻へ届く。
妙な匂いではない。
むしろ腹が減る匂いだった。
けれど,ガルドが気にしていたのは,最後に角猪が残るかどうかだった。
細かくする。
脂を混ぜる。
パンや乳まで入れる。
そこまで触れば,肉そのものが分からなくなるのではないかと思っていた。
皿へ置かれたハンバーグへナイフを入れる。
思っていたより抵抗がない。
肩肉をそのまま厚く焼けば,もっと刃へ力がいる。筋が残っていれば,切ったときから分かることさえある。
これは違った。
表面は焼き締まっているのに,中は柔らかく刃が入る。
切り口から肉汁が少し滲み,細かな肉の間に,粗く残った肉の粒が見えた。
まず一口。
舌へ触れた瞬間には,思った以上に柔らかいと感じた。
すぐに脂がほどけ,熱い肉汁が口へ広がる。
涙玉の甘さと黒香子の香りが混じっている。
ここまでは,ガルドが普段食べる角猪とはずいぶん違う。
だが,二度,三度と噛んだところで,知っている味が出てきた。
赤身だった。
角猪の肩肉が持つ,少し強く,噛むほど濃くなる味。
細かくされていても消えていない。
粗い粒へ歯が当たるたび,肉そのものの感触が返ってくる。その合間へ脂が入り込んでいるから,肩肉特有の硬さだけが後へ残らない。
ガルドはもう一口食べた。
今度は,少し意識して噛む。
柔らかい。
だが,柔らかすぎない。
もし全てを細かく潰し,脂をもっと増やしたなら,さらに柔らかくはできただろう。
だが,それではきっと,今噛んだときに返ってきたものがなくなる。
角猪を狩り,解体し,何度も食べてきたから分かる。
これは食べやすくするために,角猪を別のものへ変えた料理ではない。
角猪のままで,食べにくいところだけをうまく外した料理だった。
不思議だった。
肉を切り刻み,別の部位を混ぜ,さらにいくつもの材料まで足しているのに,その結果として,元の肉の良さがかえって分かりやすくなっている。
「ガルドさん」
理人の声で顔を上げる。
「どうでした?」
「うまかった」
まず出たのは,それだけだった。
理人が少し待っている。
横からミレナも口を出した。
「それだけ?」
「ない」
「肉の仕事してるのに」
「だからだ」
ガルドは水を一口飲んでから,自分の皿を見る。
細かな料理の言葉など知らない。
香りがどう重なるだとか,どの材料がどの味を引き出すだとか,そんな説明はマルタに任せればいい。
自分に分かるのは肉だった。
「角猪の肩だろ」
「はい」
「焼くだけなら,もう少し噛む肉だ」
「そうですね」
「脂の多いところを混ぜてるのは分かる。だが,角猪じゃなくなってはいない」
理人の表情が少し変わる。
「そこ,残ってます?」
「ああ」
やはり,そこを気にしていたらしい。
「柔らかくしたいだけなら,もっと細かくすりゃいい。脂も増やせばいい。だが,それじゃ別の肉になる」
ガルドは残っていた一切れを口へ入れた。
噛めば,再び角猪の味が戻ってくる。
「これくらいなら,ちゃんと角猪を食ってるって分かる」
それが一番の感想だった。
うまい料理はほかにもある。
柔らかい肉も食べたことがある。
だが,角猪を使った料理なら,角猪を食べたと思える方がいい。
理人が何度も失敗しながら作りたかったものが,最初からそこまで考えたものだったのかは知らない。
おそらく,違う。
最初は単に,自分の知っているハンバーグを食べたかっただけなのだろう。
それが,肉を知り,ぽんたと道具を作り,クウの力まで借りるうちに,アルカで作る料理へ変わった。
ガルドには,そう見えた。
◇
食べ終わったあと,理人は空になった皿を見ながら,また考え込んでいた。
「どうした?」
「いや。おいしくできたなと思って」
「なら難しい顔するな」
そう返すと,理人は少し笑った。
「もう一個思ったことがあって」
「何だ」
「もっとできそうだなって」
ぽんたがすぐに,
「まだ?」
と嫌そうな顔をした。
ドランも呆れていた。
ガルドには,それほど意外ではなかった。
理人は,分からないことを見つけると考える。
失敗すれば理由を探す。
うまくいけば,今度はその先を見たがる。
森で出会った頃から,結局そこは変わっていない。
変わったのは,隣にいるものが増えたことだ。
ぽんたがいて,クウがいる。
二匹とも勝手なことを言い,理人も勝手に返す。
それでも料理を作るときには,自然とそれぞれの役割ができている。
理人一人が前を歩き,二匹がついていくようには見えない。
三人で少しずつ進んでいる。
その姿を見ながら,ガルドは何となく思った。
理人が次にどこかへ行くとしても,昔ほど心配する必要はないのかもしれない。
◇
その考えが現実になったのは,そう時間が経たないうちだった。
煮込み鹿亭へ昼飯を食べに行くと,理人が王都までの道について聞いてきた。
「一人は危ないですか」
「やめとけ」
そこだけは即答した。
理人が以前よりこの世界に慣れたことと,十日以上の旅を一人でできることは別の話だ。
魔獣もいる。
野盗もいる。
道を外れれば迷う。
そこで商隊の話をし,ちょうど来週王都方面へ出るハリスを教えた。
理人は,勢いで「行きます」とは言わなかった。
商隊へ同行できる条件を確認すると言い,その日のうちに市場へ話を聞きに行ったらしい。
そういうところも変わっていない。
行きたいから行く,で終わらせず,どうすれば安全に行けるかを先に考える。
後で王都へ行くと決めたと聞いたときも,ガルドは驚かなかった。
むしろ,最後のハンバーグを食べた時点で,何となく予想していた。
あれだけうまくできた料理を前にして,満足するより先に「もっとできそうだ」と言った男だ。
アルカにないものが王都にあると知れば,見に行きたくなるだろう。
パンも乳製品も種類が多いらしい,と理人は言った。
ほかの料理も見たいらしい。
別の肉にも興味がある。
結局,食い物の話ばかりだった。
だが,その方が理人らしかった。
名を上げるためでも,大金を稼ぐためでもない。
強い魔獣を倒しに行くわけでもない。
知らないものを見て,食べて,また料理を作りたい。
その程度の理由で町を出るくらいが,ちょうどいいのかもしれない。
「向こうでも,分からんものを分かったつもりになるなよ」
ガルドが言うと,理人は一度目を瞬いた。
「それは大丈夫だと思います。分からないこと,多いので」
「自信持って言うことじゃないだろ」
「でも事実です」
ガルドは笑った。
森で拾ったときには,何も知らない男だった。
今だって,知らないことの方が多いだろう。
けれど,あの頃とは違う。
分からなければ聞く相手がいる。
できなければ手を借りることを知っている。
危なければ引くこともできる。
そして,どうやら一人でもない。
ぽんたとクウがこの先どうするのか,ガルドはまだ聞いていなかったが,少なくとも二匹が何も感じていないようには見えなかった。
そこは本人たちが決めればいい。
ガルドが口を出すことではない。
「帰ってきたら,また何か作れ」
そう言うと,理人が少し笑った。
「ハンバーグですか?」
「それでもいい」
「別の料理でも?」
「うまけりゃな」
「じゃあ,何か覚えてきます」
「覚えるだけじゃなく,食えるものにしてこい」
「そこは頑張ります」
それで十分だった。
森で偶然見つけた男を,いつまでも拾ったばかりの人間として扱う必要はない。
あとは自分で歩けばいい。
どうせ王都でも,知らない肉を前にして難しい顔をし,誰かにあれこれ聞いた末に,また妙な料理を始めるのだろう。
そして,うまくいってもいかなくても,最後にはまた次のことを考える。
ガルドには,そんな理人の姿が簡単に想像できた。




