第40話 王都へ行く
ハンバーグを作った翌朝,理人はいつもより少し早く目が覚めた。
昨日の味が,まだ頭に残っている。
角猪の肉を粗さの違う二種類に分け,脂を混ぜ,涙玉と黒香子の香りを残した。ぽんたの《物質変化》とクウの《境界魔法》,自分の《熱交換》も使ったが,どれか一つに頼ったわけではない。
自分で食べて,うまいと思えた。
そこまではいい。
問題は,そのあとだった。
「……王都か」
口に出してみる。
寝台の脇で丸くなっていたぽんたが,片耳だけ動かした。
「何?」
「起きてた?」
「今起きた」
ぽんたは顔だけを上げ,大きく欠伸をする。
「王都って言った?」
「言った」
「行くの?」
理人はすぐには答えなかった。
「まだ考えてる」
「何を?」
「行くなら,どうやって行くかとか。何があるのかとか」
「遠い?」
「たぶ……」
言いかけて,理人は少し考え直す。
「近くはないと思う」
「何日?」
「それもちゃんと聞かないとな」
ぽんたは眠そうな目のまま理人を見る。
「じゃあ行くか分かんない?」
「今はまだ」
「ふうん」
それ以上は聞かず,ぽんたは再び顔を前脚の間へ戻した。
理人も起き上がり,服を整える。
王都へ行く。
言葉にすると,大きな話に聞こえる。
けれど,理人が求めているのは王や貴族に会うことでも,何か大きな仕事をすることでもない。
市場で見たチーズ。
アルカでは種類の少ないパン。
乳製品。
さらに,ここにはない食材や料理。
昨日のハンバーグを食べたことで,足りないものが見えたのではない。
逆だった。
今あるもので十分おいしくできたからこそ,ほかの材料を知ったらどうなるのかが気になった。
理人には,その好奇心を無視する理由がなかった。
◇
朝食の仕込みを手伝いながら,理人はマルタへ尋ねた。
「王都って,ここからどれくらいかかります?」
マルタの手が止まる。
「急だね」
「昨日ちょっと話してて,気になって」
「歩きならかなりかかるよ。荷車なら,道が悪くなければ十日ちょっとってところかね」
「十日……」
思っていたより遠い。
「途中に町は?」
「あるよ。宿場も何か所かある。ただし,毎日ちゃんと屋根のあるところへ泊まれるとは限らないね」
「野営も?」
「商隊ならすることもあるさ」
マルタは鍋の中を一度かき混ぜ,理人を見る。
「本気で行く気かい?」
「まだ決めたわけではないです」
「理由は?」
理人は少し迷ったが,隠すことでもない。
「王都の方が,パンや乳製品の種類が多いって聞いたので」
マルタの眉が上がる。
「それだけ?」
「今のところは」
「ハンバーグのために?」
「……それもありますが,いろいろ見てみたいです」
マルタは数秒黙ったあと,声を上げて笑った。
「ほんとにあんたらしいね」
「そんなに変ですか」
「普通,王都へ行きたいって言われたら,仕事とか金とか,冒険者なら名を上げたいとか,そういう話だと思うだろ」
「自分は教師だったので」
「それもこっちじゃ役に立ってないじゃないか」
「文字も読めませんしね」
「そこはそろそろ覚えな」
「はい」
痛いところだった。
そこへクウが香草の束を運んできた。
「何の話?」
マルタが先に答える。
「リヒトが王都に興味あるんだとさ」
クウの動きがわずかに止まった。
「王都?」
「行くって決めたわけじゃないですよ」
「遠いの?」
「荷車で十日くらいらしいです」
「結構遠いね」
クウはそれだけ言い,持っていた香草を棚へ置いた。
理人には,少しだけ耳の向きが変わったように見えたが,意味までは分からない。
◇
昼前,ガルドが煮込み鹿亭へ顔を出した。
理人はちょうどいいと思い,食事を運ぶついでに声をかける。
「ガルドさん,王都まで行くなら,やっぱり一人は危ないですか」
「やめとけ」
返事が早かった。
「やっぱり?」
「道はある。人も通る。だが,森より安全ってだけだ」
ガルドは水を一口飲む。
「野盗もいれば,魔獣も出る。道を外せば迷う。お前は旅慣れてないだろ」
「全く」
「なら商隊に入れ」
「同行できるんですか?」
「荷運びでも護衛でもできるならな。何もできなくても,金払えば乗せる商人はいる」
「なるほど」
理人は頭の中で整理する。
一人で徒歩。
それはない。
この世界へ来て最初に角猪から逃げ回ったことを考えれば,自分の旅の能力を過大評価する気にはなれなかった。
「ちょうど来週,王都方面へ出る商隊があるぞ」
「来週?」
「ああ。月に何度か来る大きいところだ。アルカの肉や皮を運んで,向こうから布や穀物を持ってくる」
理人は思わず身を乗り出した。
「一般の人も一緒に行ける?」
「空きがあればな。商人のハリスに聞け」
「どこにいます?」
「市場の南側。でかい青い布を掛けた荷車がある」
理人は覚える。
市場で,青い布,商人のハリス。
「行く気になったか?」
ガルドが聞く。
「少し」
「少しか」
「安全に行けるなら,現実的かなと思って」
「それなら先に聞いてこい。空きがなければ考えても仕方ない」
「そうします」
ガルドは頷き,そこで話を終えた。
その判断の早さがありがたい。
理人も,まず条件を知らなければ始まらないと思った。
◇
午後。
理人は一人で市場へ向かうつもりだった。
「俺も行く」
宿を出る直前,ぽんたが当然のようについてくる。
「買い物じゃないぞ」
「知ってる」
「商人に話聞くだけ」
「それも知ってる」
「誰から聞いた」
「クウ」
振り返ると,クウも少し離れたところにいた。
「私も聞いたよ」
「ふたりとも来るんですか」
「駄目?」
クウが尋ねる。
「駄目ではないですけど」
結局,三人で市場へ向かうことになった。
少し前に買い出しへ来たときと同じ道だ。
ぽんたは串焼きの屋台を一度だけ見たが,今日は立ち止まらなかった。クウも人が増えるところでは自然に理人の近くへ寄るものの,以前ほど周囲を気にしている様子はない。
「青い布ってあれ?」
クウが先に見つけた。
市場の南側に,大きな荷車が何台も並んでいる。そのうち三台には,確かに濃い青色の布が掛けられていた。
「たぶん,あれでしょうね」
三人で近づくと,荷車の横で荷札を確認していた男が顔を上げた。
四十代くらいだろうか。日に焼けた顔で,腰には短剣を下げているが,冒険者というより商人らしい落ち着きがある。
「何か用か?」
「ハリスさんですか?」
「そうだが」
「ガルドさんから聞きました。来週,王都方面へ行く商隊が出るって」
「ああ」
ハリスは理人を一度見て,足元のぽんたとクウへ視線を移した。
「三人か?」
「……いや,自分はまだ行くか考えてるところで」
「そっちの魔獣は?」
理人が答えるより早く,ぽんたが胸を張る。
「俺,ぽんた」
「名前じゃなくてだな」
「喋る狸です」
理人が補足すると,ハリスはしばらくぽんたを見る。
「見れば分かるような,分からんような」
「こっちはクウです」
「私は狐だよ」
クウが自分で答えた。
ハリスは少し驚いたものの,それ以上深くは聞かなかった。
「王都まで行きたいなら,空きはある。客として乗るなら金がいるぞ」
「どれくらいです?」
提示された額を聞き,理人は少し考え込んだ。
市場でお使いをしていたから,どれくらいの金額なのかは分かった。
マルタにお願いすれば,きっと払ってもらえなくはない。
だが,申し訳ない気持ちになる。
「働くなら?」
「荷物運びと見張りの手伝い。護衛は経験者だけだ」
「料理は?」
理人が聞くと,ハリスの眉が動いた。
「できるのか?」
「宿で働いてます」
「どこだ」
「煮込み鹿亭です」
「ああ,マルタのところか」
どうやら知っているらしい。
「なら話は早い。道中の炊事を手伝うなら,多少安くできる。人数多いと飯作るだけでも手がいるからな」
理人の中で,一気に現実味が増した。
料理をする。
荷物を運ぶ。
必要なら水や食材の温度管理もできる。
戦えなくても,何もできないわけではない。
「途中,食材を買える場所はあります?」
「宿場ならな。あとは村に寄ることもある」
「王都に着いたら?」
「うちの荷車は中央市場まで行く」
「中央市場……」
理人が呟くと,ハリスが笑った。
「食い物目当てか?」
「……そんなことは……」
「変わった客だな」
最近,何度か似たことを言われている気がする。
◇
話を聞き終え,三人は市場を出た。
来週,空きはある。
炊事を手伝えば,費用も抑えられる。
王都の中央市場まで行く。
条件としては悪くない。
「行く?」
ぽんたが尋ねた。
「まだ少し考える」
「まだ?」
「宿のこともあるし,文字も読めないし,向こうでどうするか決めてない」
「でも行きたい?」
今度はクウだった。
理人は歩きながら考える。
「行きたいですね」
口に出すと,思ったより簡単だった。
「王都に何があるか見たいです。パンも,乳製品も,料理も。それに,アルカだけにずっといる理由もないので」
この世界へ来たとき,自分には何もなかった。
住む場所も,仕事も,知り合いも。
それが今は,煮込み鹿亭で働き,ガルドやミレナ,ドランと話し,ぽんたとクウが隣を歩いている。
アルカはもう,ただ流れ着いた町ではない。
だからこそ,離れることを考えると少し迷う。
「戻ってくることもできますよね」
理人が言う。
クウがこちらを見る。
「アルカに?」
「はい。別に一度出たら終わりじゃないでしょうし」
「そうだね」
クウはそれだけ答えた。
ぽんたは少し先を歩きながら,何も言わない。
◇
煮込み鹿亭へ戻ると,理人はマルタとバルドへ商隊の話をした。
「来週ねえ」
マルタは腕を組む。
「急すぎます?」
「急じゃないよ。いつまでもここで皿洗ってるつもりでもないだろ」
「皿洗いだけじゃないですよ」
「知ってるさ」
マルタは笑う。
バルドも横から頷いた。
「行きたいなら行ってみればいい。王都は見るもの多いぞ」
「行ったことあるんですか?」
「昔な。マルタと二人で」
「初めて聞きました」
「聞かれてないからな」
相変わらず必要なことしか話さない。
「食べ物は?」
理人が尋ねると,マルタが呆れた顔をした。
「そこから聞くのかい」
「大事なので」
「パン屋だけでも,アルカとは数が違うよ。乳を扱う店も多いし,チーズだって市場で選べる。金があればね」
「やっぱり……」
「ただし,うまいものばかりじゃないよ」
「それも見たいです」
マルタは理人の顔をしばらく見ていた。
それから,小さく息を吐く。
「もう行く顔してるじゃないか」
理人は返事をする前に,自分でも考えた。
不安はある。
文字も読めない。
王都に知り合いはいない。
道中も安全とは限らない。
それでも,商隊がある。
料理で働ける。
今までより安全に移動できる。
そして,行きたい理由がある。
「……行こうと思います」
言葉にすると,今度は迷わなかった。
マルタが頷く。
「なら,ハリスには早めに返事しな」
「明日行きます」
「荷物も考えないとね」
「そんなに持ってないですけど」
「だからって着替え一枚で十日旅する気かい?」
「それは困ります」
「だろ?」
理人は苦笑した。
王都へ行く。
ようやく,それが予定になった。
◇
その夜,理人は部屋で持ち物を確認していた。
こちらへ来たときに持っていたもの。
アルカで増えたもの。
大した量ではない。
「ほんとに行くの?」
ぽんたが寝台の下から尋ねた。
「うん」
「来週?」
「そのつもり」
ぽんたはしばらく黙っていた。
いつもなら,食べ物の話か,王都に何があるのかを聞きそうなのに,今日は妙に静かだ。
「ぽんた?」
「何?」
「いや」
理人はそれ以上聞かなかった。
行くと決めたのは自分だ。
ぽんたやクウがどうするかは,別の話である。
森へ戻ることもできる。
アルカに残ることもできる。
煮込み鹿亭なら,二匹を追い出すようなことはしないだろう。
だから,理人から当然のように「一緒に来るだろ」と言うつもりはなかった。
荷物を元へ戻し,窓の外を見る。
アルカの夜は静かだった。
初めて来たときには読めなかった宿の看板は,今も全部は読めない。
それでも,ここが煮込み鹿亭だということはもう分かる。
理人は窓を閉めた。
王都へ行く。
もっとおいしいハンバーグを作るために。
そして,まだ知らないものを見に行くために。




