第38話 今までの全部
その日の朝,理人は角猪の肉を前にして,しばらく包丁を入れなかった。
肩に近い赤身と,腹側の脂が多い部分。涙玉,パン,乳,卵,塩,黒香子もそろっている。並んでいるものだけを見れば,最初にハンバーグを作ったときと大きくは変わらない。
けれど,理人にはもう同じ材料には見えなかった。
「今日は長いな」
作業台の下から,ぽんたが顔を出した。
「何が?」
「肉見てる時間」
「考えてるんだよ」
「昨日も考えてた」
「今日は作るために考えてる」
その一言で,ぽんたの耳が立つ。
「作る?」
「作る」
「ハンバーグ?」
「ハンバーグ」
ぽんたが勢いよく立ち上がった。
「クウ!」
「聞こえてるよ」
厨房の奥で香草を選んでいたクウが振り返る。声は落ち着いているが,尻尾の先が少し動いていた。
「今日は試すだけじゃないの?」
クウが理人へ尋ねる。
「一応,本番のつもりです」
「本番?」
「今までやったことを,一回まとめてみようかと」
マルタが鍋の蓋を置きながら,こちらへ目を向けた。
「また小さいのを何個も作るんじゃないんだね?」
「今日は普通の大きさで作ります」
「なら料理として作りな。比べることばかり考えて,冷めた肉を並べるんじゃないよ」
「分かってます」
「本当に?」
「……気をつけます」
マルタは満足そうに笑い,朝の仕込みへ戻った。
今日は正解を探すための小さな試験ではない。
今の自分たちが作れる,一番いいハンバーグを作る。
理人はそのつもりだった。
「リヒト」
ぽんたが何か思い出したように声を上げる。
「今日,ガルドとミレナ来るんだろ?」
「声はかけてあります」
「ドランは?」
理人の手が止まった。
「ドランさん?」
「呼ばねえの?」
ぽんたは不思議そうに首を傾げる。
「俺の道具,あいつに教えてもらっただろ」
言われてみれば,その通りだった。
簡易細断器の元になった道具を考え始めたときも,ぽんたが道具の構造を見るようになったときも,ドランには世話になっている。
「呼びたい?」
「……別に」
そう答えながら,ぽんたの耳がわずかに横へ逃げた。
分かりやすい。
「じゃあ声かけてきてもいいぞ」
「俺が?」
「言い出したのぽんただろ」
「一緒に来いよ」
「仕込みあるんだけど」
クウが横から二人を見る。
「私,行こうか?」
「クウが?」
「ぽんた一人だと,何言うか分からないから」
「何だよそれ!」
理人は少し考えたあと,笑った。
「じゃあ二人でお願いします。『昼過ぎにハンバーグ作るから,よかったら来てください』で通じます」
「はんばーぐって言って分かる?」
クウが聞く。
「分からないと思います」
「じゃあ何て言うんだよ」
「肉を細かくして丸めて焼く料理」
ぽんたが露骨に嫌そうな顔をした。
「長い」
「そこは頑張れ」
◇
最初に手をつけたのは,肉だった。
肩側の赤身を大きく切り分け,脂の多い腹側を別にする。以前なら七対三という比率だけを見ていたが,今日はその前に,一切れずつ指を触れさせていった。
舌の奥へ,角猪らしい硬質な味が返ってくる。
赤身には鉄に似た濃さがあり,脂に近づくにつれて角が取れ,丸い余韻へ変わる。ときどき,その中に細い刺激やざらつくような感覚が混じる肉がある。
「それ?」
先に戻ってきたクウが理人の手元を見ながら尋ねた。
「ここが少し強いです」
「やる?」
「お願いします。ただ,少しだけ」
理人は一切れを木皿へ移した。
クウがその周囲に《境界魔法》を作る。肉の外側で,周囲の魔力の感触が薄い膜に遮られたように弱まり,その一部だけが細く緩む。
理人は肉に触れたまま待った。
「まだ?」
「もう少し」
クウは黙って境界を保つ。
舌の端へ残っていた細い刺激が,少しずつ丸くなっていく。それでも,角猪らしい金属に似た濃さはまだ残っている。
「そこです」
クウがすぐに境界を解く。
理人はもう一度確認し,頷いた。
「ちょうどいい」
「次は?」
「こっちはそのままで大丈夫です」
すべてを整えるわけではない。
必要な肉だけ。
強すぎるところだけを少し抑え,肉の個性そのものは残す。
クウもそれを理解してきたらしく,理人が指示するまで自分から境界を変えようとはしなかった。
「ドラン来るって!」
厨房の入口から,ぽんたの声が響いた。
「早かったな」
「近かったから」
「ちゃんと説明できた?」
「できたぞ」
クウが少し遅れて教えてくれる。
「『肉を細かくして丸めて焼くから来い』って言ってたよ」
「ほぼ合ってるだろ!」
「招待の言い方ではないな」
理人が笑うと,ぽんたは少しだけ目を逸らした。
「来るって言ったからいいんだよ」
◇
「俺の出番は?」
しばらく待っていたぽんたが,肉の前へ座り込む。
「次」
「やっとか」
「今日は細かい方と粗い方,途中で変えてほしい」
「戻らずに?」
「できる?」
「できる」
答えに迷いがない。
ぽんたは少し広い場所へ移ると,身体を《物質変化》させた。
何度も使ってきた簡易細断器。
ただし,ドランの鍛冶場へ行く前とは形が違う。力のかかる縁は厚く,肉を通す中央部分は必要以上に重くしていない。穴の周囲も均一ではなく,支える場所と肉を切る場所で厚みが調整されている。
「前より道具っぽいな」
理人が言う。
「だろ?」
「褒めるとすぐ分かるな」
「もっと言っていいぞ」
「作業終わってからな」
「けち」
まず,赤身の多くを粗めに通す。
肉が潰れすぎないよう,理人も押し込む力を調整した。
「ここから少し細かく」
「分かった」
ぽんたは元へ戻らない。
器具の中央だけがゆっくり変わり,穴の大きさが一回り小さくなる。
「そこ,少し薄くなってない?」
クウが横から声をかける。
「どこ?」
「右の端」
理人が確認すると,確かに片側だけ少し頼りない。
「ぽんた,ここだけ少し戻せる?」
「やる」
指摘された場所が厚くなる。
「これくらい?」
「いいと思う」
「クウ,よく見てたな」
理人が感心すると,クウは少しだけ胸を張った。
「見てただけだよ」
「それが助かるんです」
ぽんたも器具の姿のまま声を出す。
「俺も助かった」
「じゃああとで何かちょうだい」
「なんで俺が払うんだよ!」
理人は笑いながら,残りの肉を通した。
粗い肉の粒と,少し細かな肉。
脂。
以前より,狙った違いがはっきりしている。
◇
涙玉は細かく刻み,弱い火でゆっくり炒めた。
生の刺激が消え,甘い香りが立ち始めたところで火から下ろす。
「クウ,どう?」
クウは少し離れた位置から鼻を動かした。
「もう辛い匂いはほとんどないよ。甘い方が強い」
「じゃあここで止めます」
平たい皿へ広げ,片手を皿へ,もう片方を冷たい水の器へ触れさせる。
《熱交換》。
涙玉の熱が水へ移っていく。
「それ,ほんと料理向きだな」
ぽんたが元の姿へ戻り,横から眺めていた。
「自分もそう思う」
「戦うより?」
「比べるまでもない」
「この前,熊滑らせたのに」
「できれば二度とやりたくないよ」
クウが理人を見る。
「その方がいいと思うよ」
「ですよね」
三人の意見は一致していた。
パンは乳へ浸しすぎないよう,少量ずつ加えた。
卵と塩を入れ,まず肉を冷たいまましっかり混ぜる。細かな肉が粗い粒の間へ入り,少しずつまとまりが出てきたところで,冷ました涙玉とパンを加える。
最後に黒香子。
混ぜ込みすぎない。
香りを完全に肉の奥へ沈めず,全体へ行き渡るところで手を止めた。
「今,いい匂いだよ」
クウが言った。
「黒香子,強すぎません?」
「大丈夫。涙玉も肉も分かるよ」
「なら,このくらいで」
理人は手を止める。
以前なら,均一に混ざるまで触り続けていたかもしれない。
だが,全部が完全に同じである必要はない。
肉の粒も,脂も,香りも,一口の中でまとまればいい。
「クウ,少しだけお願いします」
「焼くまで?」
「はい」
クウが肉だねの入った器を《境界魔法》で囲う。
成形の準備が整うまで,香りと温度の変化を少し抑えるだけでいい。
「これ,前より楽」
クウが言った。
「器の形なら,もう慣れた?」
「うん。どこまで囲うか分かりやすいから」
その横で,ぽんたが肉だねをじっと見ていた。
「もう焼けそう」
「まだ丸めてない」
「丸めなくても焼けるだろ」
「今日はちゃんとハンバーグにするんだよ」
◇
人数分を成形し始めたところで,理人はふと手を止めた。
「八個か」
「八?」
ぽんたが数え始める。
「リヒト,俺,クウ,マルタ,バルド,ガルド,ミレナ……」
「ドランさん」
「あ」
「呼んだのぽんただろ」
「忘れてた」
「ひどいな」
「来れば思い出す!」
ちょうどそのとき,表から聞き覚えのある低い声がした。
「誰を忘れてたって?」
ぽんたの耳が固まる。
厨房の入口に,ドランが立っていた。
仕事の途中なのか,腕にはまだ煤が残っている。
「……聞こえてた?」
「何がだ」
「何でもない」
ドランはぽんたを一瞥したあと,作業台の肉を見た。
「それが例のやつか」
「はい。ハンバーグです」
「これが?」
まだ生の肉だねを見て,ドランが眉を寄せる。
「肉を刻んだのは分かるが,なんでまた固め直す」
理人は少し笑った。
この反応はもっともだった。
「硬い部位でも食べやすくできますし,赤身と脂を混ぜて調整できるんです」
「なら煮込めばいいだろ」
「それでもおいしいです」
「じゃあ何でこっちにする」
「焼いた方もおいしいからです」
ドランが黙る。
「……それだけか?」
「それだけです」
「相変わらずだな」
呆れているようで,帰る気はないらしい。
ぽんたがドランの前へ進み出た。
「今日,俺も役に立ったぞ」
「見りゃ分かる」
「前よりよくなった」
「自分で言うな」
「ほんとだぞ!」
理人が間に入り,笑いながら言う。
「実際,かなり使いやすくなりました。穴の大きさも途中で変えられるようになってます」
ドランがぽんたを見る目が少し変わる。
「ほう」
「俺,ちゃんと考えて変わった」
「そうか」
「もっと何かないのかよ」
「料理食ってからだ」
ぽんたは不満そうだったが,尻尾はかなり上がっていた。
◇
八個の肉だねを成形する。
厚みは以前よりずっとそろっていた。
「俺の大きい?」
ぽんたが尋ねる。
「同じ」
「今日くらい大きくしてもいいだろ」
「今日だから同じにするんだよ」
「なんで?」
「焼き加減そろえたいから」
ドランが横から口を挟む。
「狸だけ半分にしとけ」
「なんでだよ!」
「うるさいからだ」
「呼ばなきゃよかった!」
「お前が呼んだんだろ」
クウが笑い,厨房の奥ではマルタまで肩を揺らしている。
理人も笑いながら,最後の一つを整えた。
「形もましになったね」
マルタが覗き込む。
「前がひどかったみたいに言いますね」
「ひどかっただろ」
「……否定できないです」
「何があった?」
ドランが聞く。
ぽんたがすぐに答える。
「最初のやつ,割れて肉汁なくなって,最後は煮込みになったって」
「ぽんた!」
「本当だろ」
ドランが理人を見る。
「よくまた作ろうと思ったな」
「自分でもそう思います」
「でも,今日はうまいぞ」
ぽんたが言い切る。
「まだ食ってないだろ」
「今までの全部だから」
「だから食ってないだろ」
ドランは呆れたように鼻を鳴らした。
◇
ガルドとミレナが来たのは,鉄板を温め始めた頃だった。
「今日はずいぶんいるな」
ガルドが食堂を見回し,ドランを見つける。
「お前まで呼ばれたのか」
「狸に呼ばれた」
「俺が呼んだ!」
ぽんたが胸を張る。
ミレナは厨房を覗き,並べられた肉だねを見た。
「今度は失敗しない?」
「前よりは自信あります」
「前もそれくらい言ってなかった?」
「最初の頃はもっと自信なかったです」
ミレナは笑いながら席へ向かった。
ドランだけはまだ鉄板の近くに残り,理人の手元を見ている。
「これを焼くだけか?」
「基本は」
「ずいぶん手間かけた割に,最後は普通だな」
「料理ってそういうものじゃないですか?」
「知らん」
「鍛冶も最後は叩くだけ,とは言わないでしょう」
ドランの眉が動いた。
「……言うようになったな」
「怒りました?」
「いや。少し分かった」
それだけ言うと,ドランも食堂側へ下がった。
理人は鉄板へ手をかざす。
熱は十分。
成形した肉だねを,一つずつ置いていく。
じゅっ,と脂の弾ける音が重なった。
すぐに肉の焼ける香りが広がる。
黒香子。
涙玉。
角猪の脂。
いくつもの匂いが混ざり,厨房から食堂へ流れていく。
「……いい匂い」
クウが小さく言った。
ぽんたはもう返事もしない。
鉄板だけを見ている。
「これがハンバーグか」
食堂側から,ドランの声が聞こえた。
「まだ焼いてる途中です」
「匂いは悪くないな」
ぽんたがすぐ振り返る。
「だろ!」
「お前が焼いてるわけじゃねえ」
「肉細かくした!」
「そこは認めてやる」
一瞬,ぽんたが黙った。
それから何も言わずに前を向いたが,尻尾だけが大きく揺れていた。
理人はその様子を見て少し笑い,鉄板へ意識を戻した。
表面に焼き色がつく。
脂が出る。
ただし,前のように肉汁が流れ出してはいない。
触りすぎず,待つ。
頃合いを見て,一つずつ返した。
きれいな焼き色がついている。
「おお」
ぽんたが声を漏らす。
「今のは私も言いたくなった」
ミレナまで身を乗り出していた。
ドランは腕を組んでいるが,視線は鉄板から離れない。
「焼いただけで,ずいぶん膨らむんだな」
「中の水分や脂もあると思います」
「崩れねえのか」
「今のところは」
「なるほどな」
道具を見るときと同じ目で,今度はハンバーグを見ている。
理人にはそれが少しおかしかった。
反対側も焼く。
理人は厚みを見ながら火を調整し,焦らず待った。
最初にハンバーグを作った日とは違う。
何を見ればいいのか。
どこで待つのか。
どこで手を出さない方がいいのか。
少しずつ分かるようになっている。
最後に火から下ろし,八つの皿へ移した。
「まだ食べるなよ」
理人が言う前に,ぽんたが口を開く。
「分かってる。休ませるんだろ」
「覚えたな」
「何回待たされたと思ってんだ」
「待たされたって言うな」
「焼いたあとにも待つのか?」
初めて見るドランが怪訝そうに皿を見る。
「少しだけです」
「面倒な料理だな」
「ドランさんの道具よりは早くできますよ」
「比べるものじゃねえ」
今度はガルドまで笑った。
焼き上がった八つのハンバーグから,ゆっくりと湯気が上がっている。
クウが鼻を動かし,目を細めた。
「焼いてるときの匂い,まだ残ってるよ」
「本当?」
「うん。前よりずっと」
その言葉を聞いて,理人はようやく少し息を吐いた。
まだ食べていない。
中がどうなっているかも分からない。
それでも,ここまでは悪くない。
最初の失敗から,肉を知り,道具を考え,焼き方を覚えた。
ぽんたと出会い,クウと出会い,二匹の力も料理の中へ少しずつ入ってきた。
そして,その道具作りを助けてくれたドランも今ここにいる。
ガルドとミレナ,マルタとバルドにも,何度も助けられた。
その全部が,今は目の前の八皿へつながっている。
「そろそろ?」
ぽんたが聞く。
理人は一番手前の皿へ手を伸ばした。
「……よし」
ドランが,初めて見るハンバーグへ視線を落とす。
「さて,わざわざ肉を刻んで,また固めた意味があるか見せてもらおうか」
「言い方!」
ぽんたが抗議し,食堂に笑いが広がった。
今日のハンバーグが,本当に今までで一番なのか。
それを確かめる時間だった。




