第37話 残すところ
翌日の昼前,理人は角猪の肉を三つに切り分けていた。
どれも同じ塊から取ったもので,大きさもできるだけそろえてある。昨日のように一枚だけ調整して終わるのではなく,今回は変化の途中を比べるためだった。
「三つとも食べる?」
ぽんたが作業台の下から顔を出す。
「食べる」
「よし」
「小さいぞ」
「それでもいい」
今日は最初から試食役として認められているので,機嫌がいいらしい。尻尾が床を軽く叩いている。
クウは反対側から肉を見つめていた。
「一つはそのままで,二つを私がやるの?」
「はい。ただし,片方は昨日くらいまで。もう片方は途中で止めます」
「途中って,リヒトが決める?」
「そのつもりです」
理人は一番端の肉へ指を触れた。
角猪の魔力は,舌の奥へ金属に似た硬い味として返ってくる。その中に,少し渋みがあり,場所によっては舌の縁を刺すような細い刺激が混じる。
この刺激が強いところほど,焼いたあとに重さが残る傾向がある。
ただし,金属のような味まで薄くすると,今度は角猪らしい濃さも弱くなった。
「今日はこの刺激だけ,少し弱めたいです」
「私に分かる?」
「直接は難しいと思います。だから,自分が止めます」
「じゃあ,私は通り道を細くする?」
「はい。昨日より狭く」
クウは頷いた。
理人は肉の位置を示し,境界を作ってもらう。
周囲の魔力の感触が,肉の縁で一度薄く切れる。
その一部だけが,今度はゆっくりと緩む。
「これくらい?」
クウが尋ねる。
「もう少しだけ狭くできます?」
「やってみるね」
目には何も見えない。
それでも理人の舌には,境界の一か所だけ感触がわずかに違っているのが分かった。
前よりずっと細い。
「そのままでお願いします」
「うん」
理人は肉に触れたまま,しばらく待った。
◇
変化は,すぐには来なかった。
ぽんたが退屈そうに座り込み,途中で一度欠伸をする。
「まだ?」
「まだ」
「何もしてなくない?」
「今してる」
「待ってるだけだろ」
「待つのも必要なんだよ」
ぽんたは納得していなかったが,今日は肉が最後に焼かれると分かっているので,大人しくしていた。
クウも動かない。
ただ,耳だけがときどき小さく動く。
「疲れます?」
理人が聞く。
「昨日より楽だよ。開けてるところが小さいから」
「よかった」
「でも,そこだけ気にしてないと閉じそうになる」
「じゃあ長くはやらない方がいいですね」
「それはそうだね」
理人は再び肉へ意識を向ける。
金属のような味はまだある。
渋みもある。
細い刺激も残っている。
少し待つ。
また確かめる。
今度は,刺激だけがほんの少し丸くなったように感じた。
「クウ,そのまま」
「変わった?」
「少し」
さらに待つ。
舌の端を刺していた感覚が,少しずつ弱くなる。
ただ,金属のような味はまだしっかり残っていた。
「……今」
理人が言う。
「止めてください」
クウがすぐ境界を解く。
薄い膜のような隔たりが消え,肉の感触が直接戻ってくる。
理人はもう一度確かめた。
「どう?」
クウが顔を覗き込む。
「いいと思います」
「何が残った?」
「角猪っぽい重さはある。でも,刺す感じは前より弱い」
「じゃあ成功?」
ぽんたが勢いよく立ち上がる。
「まだ食べてない」
「じゃあ焼こう」
「早いな」
◇
二つ目は,昨日と同じくらいまで調整した。
こちらは比較用だ。
理人が止めるのを少し遅らせると,やはり刺激だけでなく,角猪特有の硬い味も徐々に薄れていった。
「こっちは前と同じ感じですね」
「やっぱり通しすぎると減るんだね」
「そうみたいです」
クウは二つの肉を見比べる。
「私,どっちを止めたかは分からないよ」
「大丈夫です。止めるのは自分の役目です」
「それでいいの?」
「クウに自分と同じ感覚を持ってもらう必要はないですから」
その言葉に,クウは一瞬だけ目を丸くした。
理人は特に深く考えていなかったが,少し間を置いてからクウが頷く。
「じゃあ,私は境界だけ見るね」
「お願いします」
役割を分ければいい。
クウが全部を理解する必要はないし,理人も《境界魔法》そのものをクウと同じように感じることはできない。
同じものを見て,同じことをする必要はない。
ぽんたが聞いていたのかいないのか,横で腹を鳴らした。
「俺は?」
「食べる」
「それなら分かる」
「一番分かりやすい役だな」
「大事だろ」
「大事だよ」
クウが笑う。
ぽんたの耳が嬉しそうに立った。
◇
三切れの肉は,塩だけで焼いた。
ひとつは何もしていない肉。
ひとつは途中で止めたもの。
最後は,昨日と同じくらいまで魔力を抜いたもの。
鉄板の上で焼ける匂いだけでは,大きな違いは分からない。
「匂いは同じくらいだよ」
クウが言う。
「こっちだけ少し軽い気もするけど,はっきりはしないかな」
「それなら,味の方が違うかもしれませんね」
理人は焼き加減を見ながら返した。
肉を皿へ移し,少し休ませる。
ぽんたがじっと見ている。
「触るなよ」
「触ってない」
「顔が近い」
「見てるだけ」
「鼻つきそうだぞ」
「つかねえよ」
クウが二人のやり取りを見て,静かに笑った。
◇
まずは,何もしていない肉から食べる。
赤身の味はしっかりしている。
角猪らしい濃さもある。
ただ,飲み込んだあとに,舌の端へわずかな重さが残る。
「普通にうまい」
ぽんたはそう言って,すぐ次を見る。
「まだ食うなよ」
「分かってる」
二つ目。
途中で止めたもの。
理人はゆっくり噛んだ。
金属のような濃さは残っている。
肉らしい重さもある。
その一方で,後に残っていた細い刺激だけが弱い。
「……これ」
理人はもう一口食べる。
「かなりいいかもしれない」
「違う?」
クウが尋ねる。
「角猪っぽさはちゃんとある。でも,あとが軽いです」
ぽんたも食べる。
最初の肉。
次の肉。
もう一度皿を見比べたあと,二つ目を指した。
「俺,こっち」
「理由は?」
「肉の味はあるのに,変なの残らない」
「自分と近いな」
「だろ?」
ぽんたは得意そうだった。
クウも少量ずつ食べ比べる。
「私は二つ目の方が,食べたあとがすっきりすると思うよ」
「匂いは?」
「そこはそんなに違わないかな」
「なるほど」
そして最後に,強めに調整したものを食べる。
こちらもおいしい。
ただ,角猪の肉らしい押しの強さが少し弱い。
「やっぱり薄いな」
理人が言うと,ぽんたも頷いた。
「これなら最初の方がいい」
「クウは?」
理人が尋ねる。
クウは少し考えてから答えた。
「食べやすいけど,真ん中の方が好きかな。最後のは,匂いまで少し弱く感じるよ」
理人は三枚の皿を見る。
ようやく方向が見えてきた。
強いところを全部減らすのではない。
残したいものは残し,嫌な部分だけが少し和らぐところで止める。
それなら,角猪の個性を消さずに食べやすくできる。
「難しいな」
ぽんたが言う。
「何が?」
「ちょっとしか違わないのに,止めるところ変えたら味変わるんだろ?」
「そうだな」
「俺なら全部出しそう」
「ぽんたは境界使えないだろ」
「そうだけど!」
クウが小さく笑った。
「私は止める場所分からないし,リヒトは境界作れないね」
「だから二人でやればいいんですよ」
理人が答えると,クウは少しだけ耳を前へ向けた。
「二人で?」
「自分が味を見る。クウが境界を調整する。それなら,今のところ一番うまくいってます」
「そっか」
クウはそれ以上何も言わなかった。
ただ,尾の先がゆっくり揺れている。
◇
試食が終わったあと,理人は残った角猪の肉を切り分け直した。
すべてを《境界魔法》で調整するつもりはない。
むしろ,必要なところだけに使う方がいい。
魔力の刺激が強い部分。
全体の味を邪魔しそうなところ。
そこだけを少し整える。
「これなら,ハンバーグに混ぜても面白そうですね」
理人が呟く。
クウが横から覗き込む。
「全部やるの?」
「いや。一部だけ」
「なんで?」
「全部同じにしたら,個性までなくなりそうなので」
「肉の?」
「はい」
赤身の強い部分。
脂の甘みがある部分。
少し硬く,濃い部分。
それぞれに違いがあるから混ぜる意味がある。
全部を均一に整える必要はない。
「ぽんた」
「何?」
「次,細かくするときも全部同じ粗さじゃなくていいかもしれない」
「また変える?」
「少しだけ」
「俺,変えられるぞ」
「昨日ドランに習ったばっかりで自信あるな」
「できるって言われたからな」
ぽんたは胸を張る。
理人は笑った。
ぽんたは形を少しずつ調整できるようになり,クウは境界の一部分だけを細く開けられるようになった。
どちらも,一気に何かすごいことができるようになったわけではない。
それでも,料理に使える選択肢は確実に増えている。
理人は切り分けた肉を見つめた。
次に作るなら,今までと同じハンバーグにはならない。
粗さを変える。
肉の魔力を整える。
香りを残す。
温度も管理する。
ようやく,これまで試してきたことを一つにまとめる段階が見えてきた。
「次,いつ作る?」
ぽんたが待ちきれないように聞く。
「もう少しだけ準備してから」
「また待つのか」
「その分,うまくする」
「……なら待つ」
ぽんたが渋々頷く。
クウも隣で小さく笑った。
理人は肉の入った器を持ち上げる。
今度はただ,前よりおいしいものを作るだけではない。
アルカで覚えたことを,全部使ってみたい。
そう思えるところまで,ようやく来ていた。
本日の更新はここまでです。
ここまでお付き合いいただき,ありがとうございます。
明日の朝の第38話は,この物語の最初の大きな節目になる回です。
肉のこと,道具のこと,理人の力,ぽんたの力,クウの力。
ここまで一つずつ積み重ねてきたものが,ようやく同じところへ集まります。
ぜひ,明日も読んでいただけたら嬉しいです。




