第36話 通り道をつくる
ドランの鍛冶場へ行った翌日,理人は朝の仕込みで角猪の肉を切っていた。
使うのは肩に近い部分で,筋を外し,煮込み用と焼き物用に分けていく。もう何度も触っている肉だったが,最近は切る前に少しだけ指先を置く癖がついていた。
舌の奥へ,角猪特有の重さが返ってくる。
強い苦味ではない。
鉄を舐めたときに似た薄い味と,その奥にわずかな渋みがある。脂の近くでは角が取れ,少し丸い感覚になる一方,筋の多いところでは舌の端が軽く痺れるような刺激が残った。
同じ一頭の肉でも,同じではない。
気づいてから,意識して触るほど差が見えてくるようになっていた。
「また止まってるよ」
クウの声で,理人は顔を上げた。
「すみません。考えてました」
「肉見ながら?」
「最近は大体そうですね」
クウは作業台の横へ座り,切り分けられた肉を眺める。
「今日も違うの?」
「ここ」
理人は一切れを指した。
「ほかより少し渋い感じがあります。あと,舌に残る刺激が強いです」
「匂いは?」
クウが鼻を近づける。
しばらく確かめたあと,首を横へ傾けた。
「普通の角猪だよ。少し血の匂いが強いくらいかな」
「じゃあ,やっぱり自分が感じてるのは別ですね」
そこへ,空の籠を運んできたぽんたが顔を出した。
「まずい肉?」
「まずくはない」
「じゃあ焼こう」
「そういう話じゃない」
「最近それ多いな」
ぽんたは籠を置き,肉へ鼻を近づける。
「俺には普通の肉だぞ」
「それが普通なんだよ」
「なんか悔しい」
「何と戦ってるんだ」
理人は笑い,問題の一切れを別の皿へ移した。
今までなら,このままほかの肉と混ぜてしまっていた。
だが,今日は少し試したいことがある。
◇
「クウ,《境界魔法》って,全部同じ強さで囲わないと駄目なんですか?」
昼の仕込みが一段落したあと,理人は裏庭で尋ねた。
クウは少し考えるように耳を動かす。
「同じ強さ?」
「丸く囲うとして,右側だけ薄くするとか」
「やったことないよ」
「できそうですか」
「分からない。でも,広くしたり狭くしたりはできるから,場所ごとに変えるのもできるかもしれないね」
理人は頷いた。
いきなり肉で試すつもりはない。
用意したのは,小さな木椀と,昨日市場で買った香草の切れ端だった。
「まずこれでやってみましょう」
「肉じゃないの?」
ぽんたが露骨に残念そうな顔をする。
「香りならクウにも分かりやすいだろ」
「ああ」
今度は納得したらしい。
理人は香草を木椀へ入れ,クウの前へ置いた。
「最初は普通に囲ってください」
「うん」
クウが意識を向ける。
しばらくすると,理人には周囲の魔力の感触が木椀の縁でふっと弱まるのが分かった。何か特別な味が加わるというより,そこだけ舌の上へ薄い膜を一枚挟まれたように,外と内のつながりが鈍くなる。
「できました?」
「できたよ」
クウ自身も香草へ鼻を近づける。
「匂い,弱くなった」
「じゃあ今度は,こっち側だけ少し緩められます?」
理人が椀の右側を指す。
「穴を開ける感じ?」
「穴まで開けなくてもいいです。ほかより少し通りやすくするくらいで」
「やってみるね」
クウは目を細め,しばらく動かなかった。
理人にも,すぐには違いが分からない。
「どうです?」
「……難しい」
「無理ならやめましょう」
「もう少し」
クウの耳が片方だけわずかに伏せる。
数秒後,彼女が顔を上げた。
「今,少し変えたと思う」
「匂いは?」
クウは木椀の右側へ鼻を寄せ,次に反対側へ回った。
「こっちの方がするよ」
「本当に?」
「うん。反対は薄いまま」
ぽんたも両側から嗅ぐ。
「……俺もこっちな気がする」
「ぽんたでも分かる?」
「俺だって鼻いいぞ」
「肉以外も?」
「そこまで馬鹿にすんな!」
理人は二匹のやり取りを聞きながら,木椀へ意識を向けた。
《境界魔法》は,ただ一枚の均一な壁を作る力ではない。
少なくともクウは,場所によって通りやすさを変えられる。
まだ粗い調整だとしても,それは大きかった。
「クウ,今の感覚覚えられそうですか」
「何となくね。全部を囲うより,片方だけ気にするから変な感じだけど」
「疲れます?」
「少し。広げるよりは楽だよ」
「なら今日は何回かまでにしましょう」
「うん」
理人はそこで一度境界を解いてもらった。
◇
次に出したのは,朝に分けておいた角猪の肉だった。
「やっぱり肉か」
ぽんたの機嫌が戻る。
「最後は食べるから安心しろ」
「それ先に言えよ」
「言わなくてもどうせ食べるだろ」
理人は肉へ触れる。
舌の奥に,鉄っぽい重さと渋み,それに細い痺れが返ってくる。
特に一か所,筋の近くで刺激が強い。
「クウ,この肉を囲ってください」
「さっきと同じ?」
「まずは全部」
境界ができる。
肉に触れたまま感覚を探ると,理人の《魔味覚》へ返ってくるものが少し鈍くなった。
消えたわけではない。
ただ,向こう側にあるものを薄い布越しに確かめるような感覚になる。
「次に,こっちだけ少し薄く」
理人は肉の端を指した。
そこは魔力の刺激が比較的弱い部分だった。
「強いところじゃないの?」
クウが尋ねる。
「最初から強いところを開けるのは怖いので」
「何が起こるか分からないから?」
「はい」
クウは素直に頷き,境界を調整する。
理人は肉から手を離さず,変化を待った。
すぐには何も起きない。
「……動かないな」
「何が?」
ぽんたが聞く。
「魔力」
「出ないの?」
「境界を薄くしただけで,勝手に出ていくとは限らないみたいだ」
理人は少し考える。
香りは自然に空気へ広がる。
熱も,温度差があれば移る。
だが,肉の中の魔力が同じように外へ流れるとは限らない。
「クウ,中から外へ押すことは?」
「押す?」
「境界で囲ったものを,外へ追い出す感じです」
クウはしばらく肉を見た。
「それは違う気がするよ」
「違う?」
「私がいつもやってるのは,入ってこないようにすることだから。中にあるものを動かしてる感じじゃないの」
「なるほど」
理人はすぐに諦めた。
できないことを無理に能力へ当てはめる必要はない。
《境界魔法》は境目を作る力であって,中身を押し出す力ではないのだろう。
「じゃあ今日はここまで――」
言いかけたところで,理人は舌の奥に小さな変化を感じた。
「待って」
クウが動きを止める。
「どうしたの?」
「今,少し変わった」
肉の一部にあった細い刺激が,ほんのわずかに弱くなっている。
理人はもう一度,場所を変えて触れた。
鉄っぽさは残っている。
渋みもある。
ただ,さっきより舌を刺すような感覚が少ない。
「何か出た?」
クウが聞く。
「分かりません。でも,刺激は弱くなりました」
「私,何もしてないよ」
「境界を薄くしたままにしてただけですよね」
「うん」
理人は肉を見る。
外へ向かう道を一つだけ残したことで,中にある魔力の一部が自然に動いた。
そう考えることはできる。
ただ,断定するには早い。
「もう少し続ける?」
クウが尋ねた。
理人は少し迷い,首を横に振った。
「一度,境界を解いてください」
「分かったよ」
薄い膜のような感覚が消える。
肉が再び直接つながったように感じられた。
「どう?」
ぽんたが身を乗り出す。
「少し変わってる」
「うまくなった?」
「そこは食べないと分からない」
「じゃあ焼こう」
今日一番迷いのない提案だった。
◇
比べるために,同じ塊から取ったもう一切れも塩だけで焼いた。
一方は何もしていない。
もう一方は,クウの《境界魔法》で囲い,一部分だけ薄くしたものだ。
焼けた匂いが立つと,ぽんたが鉄板の前へ寄ってくる。
「近い」
「見てるだけだって」
「前も聞いた」
理人は二切れを皿へ移し,少し冷ましてから三人で分けた。
先に何もしていない方を食べる。
普通の角猪だ。
赤身が強く,筋に近い分だけ少し硬い。
後味には,朝感じた重さがわずかに残る。
次に,《境界魔法》を使った方。
理人はゆっくり噛んだ。
「……軽い」
「何が?」
クウが尋ねる。
「後に残る感じが少ないです」
ぽんたも二つ目を食べる。
「こっちの方が食いやすい」
「味は?」
「薄くはない。でも,さっきより引っかからない」
言い方は違うが,理人の感覚と近い。
クウも小さく噛み,しばらく考えた。
「私もこっちの方が好きかな。匂いはそんなに変わらないけど」
「じゃあ効果はありそうですね」
理人は残った肉へ触れる。
確かに,舌へ残る細い刺激は弱くなっている。
ただし。
「……ん?」
もう一度確かめる。
「どうしたの?」
「鉄っぽい感じも少し弱くなってる」
「それも悪いやつ?」
ぽんたが聞く。
「いや」
理人は首を横に振る。
角猪の肉には,元々この鉄っぽさがある。
それが肉らしい濃さにつながっている気もしていた。
「取りすぎると,角猪らしさまで薄くなるかもしれない」
「じゃあ失敗?」
クウの耳が少し下がる。
「失敗じゃないです」
理人はすぐ答えた。
「むしろ大事なことが分かりました」
「何?」
「嫌な部分だけ勝手に出ていくわけじゃないってことです」
境界の通り道を作れば,そこを何かが抜ける可能性はある。
だが,理人が欲しくないものだけを選んでくれるわけではない。
食べやすくなった代わりに,肉の持つ特徴まで少し薄くなった。
「じゃあどうするんだ?」
ぽんたが尋ねる。
「そこを考える」
「また?」
「そこが面白いところだろ」
ぽんたは少し理解できない顔をした。
クウは自分の前脚を見ながら,静かに考えている。
「私,もっと細くできるかもしれないよ」
「境界の薄いところを?」
「うん。さっきは結構広かったから」
理人はクウを見る。
「でも今日はもういいです」
「疲れてないよ」
「分かってます。でも,次は自分ももう少しちゃんと見たいので」
「魔力の味?」
「はい」
今度は,どの感覚が残したいもので,どれが減らしたいものなのかを分けて考える必要がある。
単純に強いものを消せばいいわけではない。
肉の魔力も,肉の一部なのだ。
理人は二枚の皿を見比べた。
食べやすくなった肉。
少し荒いが,角猪らしさの残る肉。
どちらか一方が正解ではない。
「クウ」
「何?」
「次は少しずつやりましょう」
「うん」
「自分が止めるところ言うので,そこまで」
「分かったよ」
クウは短く頷いた。
ぽんたが二人を見比べる。
「俺は?」
「食べる」
「それだけ?」
「味の違い言ってくれれば助かる」
「重要じゃん」
「かなりな」
ぽんたの尻尾がすぐに上がった。
三人の役割は,同じでなくていい。
理人が感じ,クウが境界を調整し,ぽんたが食べて違いを言う。
まだそれで何ができるのかは分からない。
それでも,次に試すことだけは見えてきた。
今度は魔力を減らすのではない。
どこまで残すかを探す。
理人には,その方がずっと料理らしいと思えた。




