第34話 内と外のあいだ
角猪の肉に魔力の偏りがあると気づいた翌日,理人はそれをすぐ料理へ持ち込まなかった。
気にはなる。
同じ一頭の肉でも場所によって苦味が違うのなら,混ぜる前に選ぶべきなのか。それとも,混ぜた結果として平均されるのか。そもそも,自分が感じている苦味と料理としての味が,どこまで同じものなのか。
確かめたいことはいくらでもあった。
だからこそ,一日置くことにした。
「今日は肉やらないの?」
朝食後,ぽんたが不思議そうに尋ねた。
「やらない」
「なんで?」
「昨日見つけたばっかりだから」
「見つけたら試すんじゃないの?」
「考えてから試す」
「面倒だな」
「お前は思いついたらすぐやるからな」
「早いってことだろ」
「そういうことにしとく」
理人が食器を重ねている横で,クウは小さく笑った。
「今日は何するの?」
クウに聞かれ,理人は少し考えてから答える。
「クウの方を少し試してみたいです」
「私?」
「この前,器の周りに《境界魔法》を残せましたよね」
「うん」
「もう少しだけ,境界そのものを見てみたいです」
クウの耳がわずかに前へ向く。
「料理じゃなくて?」
「今日は料理じゃなくていいかなと」
「珍しいね」
「ハンバーグのことだけ考えてるわけじゃないですよ」
言ってから,自分でも少し怪しいと思った。
ぽんたがすぐに口を挟む。
「結構考えてるだろ」
「黙ってろ」
◇
使うものは,安い木匙にした。
厨房の隅に何本かあるうち,柄の先が少し欠けていて,すでに普段の料理には使っていない一本をマルタから借りる。
「壊してもいいですか」
理人が尋ねると,マルタは匙を一度見てから肩をすくめた。
「燃やさなきゃ好きにしな」
「燃やしません」
「前に氷作った人が言ってもねえ」
「それとは違います」
マルタは笑いながら鍋の方へ戻っていった。
理人たちは裏庭へ出る。
天気はよく,洗った布が風に揺れていた。森の異変が落ち着いてから,宿の裏手にも以前の静かさが戻っている。
「まず,いつも通りで」
理人は木匙を低い台の上へ置いた。
クウがその前に座る。
「これだけ囲えばいい?」
「はい。昨日の器と同じくらいで」
「分かったよ」
クウが木匙へ意識を向ける。
しばらくして,理人の舌の奥にある薄い感覚が,木匙の周囲だけわずかに途切れた。そこだけ,舌の上に薄い膜を一枚挟まれたような感覚がある。
もう何度か見ているので,それ自体に驚きはない。
「できました?」
「うん」
理人は木匙の柄へ手を伸ばす。
普通に触れる。
「境界があっても,物理的には取れる」
「前からそうだったよ」
「確認です」
木匙を持ち上げる。
クウの視線が少し動いた。
「あ」
「消えた?」
「うん。私が囲ってた場所から出たから」
「じゃあ,物と一緒に動くわけじゃない?」
「今のは動かなかったよ」
理人は匙を元の位置へ戻した。
「もう一回お願いできます?」
「いいよ」
今度は境界を作ったあと,理人は木匙をほんの少しだけ横へずらした。
クウが眉間に力を入れるように目を細める。
「……ずれた」
「境界が?」
「うん。匙は動いたけど,私が作ったところは残ってる感じ」
つまり,今のところ境界は「物に付着している」のではなく,「そこにある空間」を囲っているらしい。
「じゃあ,匙と一緒に動かすことは?」
「やってみる?」
「無理なさそうなら」
クウは木匙を見つめたまま,ゆっくりと理人が動かすのに合わせて意識を動かす。
数センチ。
さらに少し。
「どうです?」
「できるけど,さっきより面倒」
「場所を動かしてる感じ?」
「そうだね。置いておくより,ずっと気にしてないと駄目かな」
理人はすぐに木匙を止めた。
「じゃあ動かすのは今は向いてないですね」
「今はそうみたい」
今の段階では,境界を「物にくっつける」ことはできない。
けれど,境界そのものを動かすことはできる。
次に気になるのは,大きさだった。
「クウ」
「何?」
「もっと小さくできます?」
「囲う範囲を?」
「はい。今は木匙の周りに少し余裕がありますよね。もっとぴったり近づける感じで」
クウは少し考えた。
「できると思うよ」
「少しだけでいいです」
「分かった」
◇
境界が狭くなる。
目には見えないが,それでもクウの様子から,何かを細かく調整していることは分かった。
耳が少し伏せ,視線が木匙から動かない。
「どう?」
理人が尋ねる。
「近くしたよ」
「疲れます?」
「広げるよりは楽。でも,細かくする方が気を使うかな」
「なるほど」
理人は木匙へ手を伸ばした。
触れる。
まだ普通だ。
今度は《熱交換》を使う。
片手を木匙へ触れ,もう一方を水の入った器へ添える。
ほんの少しだけ,木匙から水へ熱を動かそうとする。
「……前より通りにくい」
「境界が小さいから?」
「それだけかは分かりません。でも,前より抵抗あります」
クウが首を傾げた。
「私,強くしてるつもりはないよ」
「境界を狭くした分,同じ力が狭いところに集まってるのかもしれません」
「そういうことあるの?」
「分かりません」
「分かんないことばっかりじゃん」
ぽんたが笑う。
「今日は仮説しかないんだよ」
「難しい言葉で逃げた」
「逃げてない」
クウも小さく笑った。
その様子に無理はない。
理人はもう少しだけ続けることにした。
「クウ,さらに狭くできます?」
今度はすぐに返事がなかった。
クウは木匙を見たまま考えている。
「できると思う。でも……」
「何か変ですか?」
「うまく言えないよ」
「無理ならやめましょう」
「無理じゃないの。ただ,狭くすると,囲ってる感じが少し変わるの」
「どう変わる?」
クウはしばらく黙った。
やがて,ゆっくり言葉を選ぶ。
「中が,遠くなる感じ」
理人は聞き返さず,その言葉を頭の中で一度転がした。
「遠くなる?」
「距離が伸びるわけじゃないよ」
「ですよね」
「目の前にあるのは分かる。でも,近くに置いてる感じが薄くなるの」
ぽんたが木匙を覗き込む。
「普通にそこにあるぞ」
「見ればね」
「じゃあ何が遠いんだ?」
「だから,分からないって言ってるでしょ」
クウの尾が少しだけ揺れる。
苛立っているというより,自分でも説明できないことがもどかしいらしい。
「もう少しやってみます?」
理人が尋ねると,クウは一度だけ頷いた。
「少しだけ」
境界が,さらに狭まる。
その瞬間。
理人は妙な違和感を覚えた。
木匙は見えている。
台の上に,確かにある。
形も変わっていない。
なのに,視線を合わせたとき,一瞬だけ焦点が合いにくくなったような気がした。
「……ん?」
理人は目を瞬く。
「どうした?」
ぽんたが聞く。
「いや」
もう一度見る。
普通だ。
「クウ,今何か変えました?」
「少しだけ狭くしたよ」
「強くは?」
「してないと思う」
「ぽんた,見てて変じゃなかった?」
「何が?」
「木匙」
「木匙だぞ」
「そうだよな」
理人は台へ近づき,手を伸ばす。
木匙の柄を掴もうとした。
その直前,ほんの一瞬だけ,手が距離を読み違えた。
掴んだと思った位置より,少し先に木匙がある。
「……あれ?」
今度はぽんたも気づいたらしい。
「つかみ損ねた?」
「外した」
「そんなことあるんだな」
「うるさい」
理人はもう一度手を伸ばす。
今度は触れた。
普通に掴める。
ただ,さっきの違和感が残っている。
「クウ」
「うん」
「これ,さっき言ってた『遠い』って感じに近いですか?」
「うん,それに近いよ」
「木匙そのものが離れたわけじゃない。でも,境界の内側が外から少し離れてる……?」
「それなら近いかも」
クウは自分の感覚を確かめるように,ゆっくり頷いた。
理人は木匙を見つめた。
境界。
内側と外側。
そこを通る熱は鈍る。
水分も逃げにくい。
香りも残りやすい。
そして今度は,境界を狭めたら,中にあるものとの距離感まで少し変わった。
ただの膜ではないのかもしれない。
「もう少し狭くしたらどうなるんだろ」
理人が呟くと,ぽんたがすぐ反応した。
「やろうぜ」
「やらない」
「なんで!」
「分からないから」
「さっきまでやってたじゃん」
「戻せなくなったら困る」
ぽんたが木匙を見る。
「これ,いらない匙だろ?」
「匙の問題じゃない」
「じゃあ何?」
「クウの能力がどうなるか分からない」
理人はクウを見る。
彼女自身も,少し疲れたように目を細めていた。
「クウ,いったん戻してください」
「うん」
境界が消える。
その瞬間,木匙が急に近くなったような感覚があった。
見た目は何も変わっていない。
けれど,理人には違いが分かった。
「……戻った」
「私もそんな感じするよ」
「疲れました?」
「少しだけ。でも,広くするよりはまし」
「今日は終わりにしましょう」
「もう?」
ぽんたが不満そうに言う。
「十分だろ」
「消えそうだったのに」
「だから止めたんだよ」
「消えたら面白そうじゃん」
「戻らなかったら?」
ぽんたが黙る。
数秒考えたあと,木匙を見る。
「……困るな」
「だろ」
「匙はいらなくても,クウ困るか」
「そっち」
「そっちだろ」
クウが二人を見て笑う。
「ぽんた,ちゃんと考えたね」
「俺だって考えるぞ」
「たまにね」
「クウ!」
◇
昼の仕事が始まる前,理人は実験に使った木匙を洗っていた。
特に変化はない。
欠けた柄も,表面の傷もそのままだ。
クウはその横で水を飲み,ぽんたは厨房の入口に寝転がっている。
「リヒト」
クウが声をかけた。
「はい?」
「さっきの,何だったと思う?」
「分かりません」
「即答だね」
「でも,少なくとも境界を狭くすると,中と外の分かれ方が強くなる気はします」
「強くなる?」
「熱が通りにくくなって,距離まで変に感じたので」
「じゃあ,もっと狭くしたら?」
理人は手を止めた。
「それを次に考えます」
「やらないの?」
「今日は」
「怖い?」
クウの聞き方にからかう感じはなかった。
理人も素直に答える。
「少し」
「そうなんだ」
「何が起こるか分からないですから」
「でも,面白いとは思ってる?」
「かなり」
クウが小さく笑った。
「やっぱりね」
理人も笑い返す。
境界を狭くすると,中にあるものが遠く感じる。
もし,もっと狭くしたら。
考えれば考えるほど,試したくなる。
だからこそ,今日はやめた。
次に試すなら,もっと安全なものを使い,戻せるかどうかを確かめながら進めた方がいい。
料理とは直接関係がないように見える。
それでも,《境界魔法》について分かることが増えれば,いずれ食材の扱いにもつながるかもしれない。
「理人,皿運んでおくれ!」
厨房の奥からマルタの声が飛ぶ。
「はい!」
理人は木匙を元の場所へ戻し,仕事へ向かった。
後ろでは,ぽんたが「俺も行く」と立ち上がり,クウも自然にそのあとをついてくる。
木匙は,ただの木匙のままだった。
けれど理人の頭の中には,境界の向こう側に,まだ知らない使い方があるような感覚だけが残っていた。




