第32話 三人で市場へ
朝食の片づけが一段落したところで,マルタは理人へ一枚の紙を差し出した。
「これ,市場で買ってきておくれ」
「……読めません」
「知ってるよ」
マルタは笑いながら,紙に書かれた文字を上から順番に指で示した。
「涙玉を二袋,根菜を一籠,塩。それから香草を三束。パン屋にも寄って,いつものを十個頼んであるから受け取ってきて」
「覚えます」
「紙も持っていきな。店の人に見せれば分かるよ」
「最初からそのための紙ですよね」
「そうとも言うね」
理人は買い物の内容を頭の中でもう一度繰り返し,紙を懐へ入れた。
この世界へ来てしばらく経つが,文字についてはまだほとんど進歩していない。宿の看板や値札に使われている文字を少しずつ覚えてはいるものの,文章となればさっぱりだった。
高校教師だった人間が,買い物ひとつ紙を見せなければできない。
今さらではあるが,少しだけ悔しい。
「市場?」
食堂の隅で寝転がっていたぽんたが,その言葉だけを拾って顔を上げた。
「そう」
「俺も行く」
「買い物するだけだぞ」
「市場なら食い物あるだろ」
「目的変わってる」
ぽんたはすでに立ち上がり,行く気になっている。
理人が止める理由を探していると,香草の状態を確認していたクウもこちらを見た。
「私も行っていい?」
「クウも?」
「香草を買うなら,どれを選ぶか見てみたいの。それに,宿の仕事でしょ?」
クウの理由はぽんたよりずっとまともだった。
「人が多いけど,大丈夫?」
聞いてから,少し余計だったかもしれないと思う。
クウは一瞬だけ市場のある方角へ目を向けたが,すぐに理人へ視線を戻した。
「たぶん平気だよ。嫌だったら戻るから」
「なら行きましょう」
「俺には聞かなかったよな」
ぽんたが不満そうに言う。
「お前はもう行くって決めてただろ」
「そうだけど」
マルタが三人を見て,呆れたように笑った。
「遊びに行くんじゃないよ。荷物もちゃんと持って帰ってきな」
「俺,箱になれるぞ」
「今日は普通に歩いておくれ。市場の真ん中で箱になられても邪魔だからね」
「市場出たらなっていい?」
「必要ならね」
「必要にする」
「何をする気だよ」
朝から変な決意をしているぽんたを連れ,理人とクウは宿を出た。
◇
アルカの市場は,理人が最初に訪れた頃より賑やかに感じられた。
森の異変で一時は減っていた露店も戻り始め,通りの両側には野菜や干し肉,布,金物,香草などが並んでいる。大きな籠に積まれた根菜の土臭い匂いと,焼いた肉の香り,店先で砕かれた香辛料の刺激が混ざり,人の声まで含めて一つの大きな塊のように押し寄せてきた。
「肉」
市場へ入って数十歩で,ぽんたが横を向いた。
「まだ何も買ってないぞ」
「串焼きある」
「見れば分かる」
「いい匂い」
「それも分かる」
ぽんたは串焼きの屋台へ近づこうと二歩進み,そこで止まった。
振り返る。
理人とクウが来ているのを確認すると,また二歩進む。
「ぽんた」
「何だよ」
「買わないぞ」
「まだ見るだけだ」
「その顔で?」
「顔で決めるなって前も言っただろ!」
店主が二人のやり取りを聞いて笑っている。
以前なら,ぽんたはそのまま匂いにつられて屋台まで行っていたかもしれない。今日は先へ行っても,少しすると必ずこちらを振り返った。
理人は特に何も言わず,最初の店へ向かう。
隣にはクウがいた。
市場へ入ったばかりの頃は理人から少し離れて歩いていたはずだが,人が増えるにつれて距離が縮まり,今はほとんど足元に近い位置を歩いている。
買い物客が向こうから来ると,クウは理人の右側へ回った。
理人と店先の間へ入る形になる。
耳はいつもよりよく動いていたが,尻尾は普通に下がっている。怯えているわけではなさそうだった。
理人は何も聞かず,少しだけ市場の端へ寄った。
「最初は涙玉だったよね?」
クウが尋ねる。
「はい。二袋」
「市場だと大きさ違うんだね」
「宿で見るのは選んだ後ですからね」
店先には,大きさも色も少しずつ違う涙玉が積まれている。
理人には,どれを選べばいいのかいまひとつ分からない。
「マルタさんの買い物です」
懐から紙を取り出して店主へ見せると,中年の女性が「ああ,煮込み鹿亭か」と頷いた。
「二袋ね。今日はいいの入ってるよ」
「お願いします」
店主が手早く涙玉を選び始める。
その横で,クウが積まれた野菜へ鼻を近づけた。
「これ,少し匂い違うね」
「悪い?」
「悪くはないよ。こっちの方が甘い感じがする」
店主がクウを見る。
「鼻のいい狐だねえ」
「そうみたいです」
「こっちのは南の畑から来たやつだよ。少し高いけど,煮るなら甘くなる」
理人は少し興味を引かれたものの,今日はマルタの買い物である。
「いつもの方でお願いします」
「堅実だねえ」
「人のお金なので」
店主は笑いながら袋を渡した。
ぽんたが一つをくわえようとする。
「まだいいよ」
「持つぞ」
「最後にまとめるから」
「俺,働いてる感出したい」
「なんでだよ」
クウが小さく笑った。
◇
根菜と塩を買い終える頃には,市場の通りはさらに混み始めていた。
クウは相変わらず理人の横を歩いている。
ぽんたは少し先へ行っては戻り,時々左右の屋台へ鼻を向けていた。
「リヒト,こっち」
香草を扱う店へ着くと,理人が声をかける前に,クウの方から店先へ近づいた。
乾燥させた葉や種,根がいくつもの籠へ分けて並べられている。見た目だけでは似たものも多いが,クウにとってはまったく違うらしく,耳が少し前を向いた。
「いい匂い」
「どれ?」
「いろいろ」
「便利な答えですね」
「本当にいろいろするんだよ」
クウは少し不満そうに理人を見たあと,店の端に吊るされた細い葉の束へ鼻を近づけた。
「これ,好きかも」
店主の老人が顔を上げる。
「そいつは肉にも魚にも使えるぞ。火を通すと匂いが変わる」
「魚にも?」
理人が反応すると,老人が頷いた。
「海の方から来る干し魚なんかにはよく合う。アルカじゃ肉に使う方が多いがな」
「へえ……」
知らない食べ方がまだいくらでもある。
理人が葉を見ていると,クウも同じものをじっと見ていた。
「買う?」
「今日はマルタさんに頼まれたものだけです」
「そうだね」
クウはあっさり諦める。
理人は少し考えてから,葉の束の形だけ覚えておいた。
いつか試してみてもいい。
「これです」
理人がマルタの紙を見せると,老人は頼まれていた香草を三束選んだ。
「煮込み鹿亭ならこっちだな。少し若い方が香り残る」
その言葉を聞いたクウが,一束ずつ確認するように鼻を近づける。
「どう?」
老人が尋ねた。
「全部いいと思うよ。でも,真ん中のが一番匂い強いね」
「分かるか」
「うん」
老人は面白そうに笑った。
「いい鼻してるな。店で働くか?」
「今は宿で働いてるよ」
クウが普通に答える。
理人は横で少しだけ驚いた。
数日前まで人間の町へ入ることすら避けていたクウが,自分から人間へ返事をしている。
本人は気づいていないようだった。
◇
最後のパン屋へ向かう途中で,ぽんたが突然止まった。
「リヒト」
「駄目」
「まだ何も言ってねえ!」
「串焼きだろ」
「違う」
「じゃあ何?」
ぽんたが道の反対側を鼻先で示す。
そこには,見慣れない食品を並べた露店があった。
丸く固められた淡い黄色の塊や,色の薄い小麦粉らしきもの,硬そうなパンが並んでいる。
「いい匂いする」
「肉じゃないぞ」
「分かってる。あれ」
ぽんたが見ているのは黄色い塊だった。
三人で店へ近づく。
店主はアルカの人間ではないらしく,隣には大きな荷車が止まっていた。
「それ,何ですか?」
理人が尋ねる。
「チーズだよ。王都の西側から持ってきたやつだ」
店主は黄色い塊を一つ持ち上げる。
「こっちじゃ山羊乳の柔らかいのが多いだろ。これは牛乳を使って長く置いたものだ。硬いが,削ってパンや肉に乗せるとうまい」
「牛乳……」
草原側から来る乳は高いと,マルタから聞いたことがある。
「王都では普通なんですか?」
「普通とまでは言わんが,ここより種類はずっと多いな。乳もパンも選べる」
「そうなんですね」
理人はチーズを見る。
興味はある。
けれど,今すぐハンバーグへ使おうとは思わなかった。
単純に,どんな味なのかが気になる。
クウも鼻を近づける。
「匂い強いね」
「嫌い?」
「分からないかな。でも気になる」
「一口なら試せるぞ」
店主が笑い,小さく削った欠片を差し出した。
理人は少し迷う。
「買わなくても?」
「旅商人は味知ってもらうのも仕事だ」
「じゃあ……」
理人が受け取る前に,ぽんたが横から顔を出した。
「俺も」
「まず人間が食ってからにしな」
「なんで!」
「客は人間の方だろ」
「俺も客だ!」
店主まで笑い始めた。
結局,理人,ぽんた,クウへ一欠片ずつ分けてもらう。
理人が口に入れると,最初に塩気が来た。そのあとに,山羊乳のチーズより濃く,少し癖のある香りが残る。
「結構違うな」
「うまい」
ぽんたは即答だった。
クウはすぐに飲み込まず,ゆっくり噛んでいる。
「香りが長いね」
「分かる?」
「うん。最初より,噛んでからの方が強いかな」
理人は少しだけ面白く思ったものの,そこで料理の検証を始める気はなかった。
「ありがとうございます」
店主へ礼を言い,三人は店を離れる。
「買わないの?」
ぽんたが不満そうに聞く。
「今日は宿の買い物」
「自分の金で」
「今そんな余裕ないよ」
「じゃあ稼ごう」
「何のために働いてると思ってたんだ」
「飯」
「そうだったな」
クウが横で笑った。
◇
パン屋へ着く直前,人通りが急に増えた。
別の通りから買い物客の一団が流れ込み,市場の道幅いっぱいに人が広がる。
理人は買った荷物を抱え直し,ぽんたがいる位置を確認した。
少し前。
ぽんたもこちらを見ていた。
目が合うと,理人が呼ぶ前に人の足の間を抜けて戻ってくる。
「迷子になんなよ」
「ならねえよ」
「さっきちょっと離れてたぞ」
「戻っただろ」
「ならいい」
ぽんたはそれ以上何も言わず,理人の左側を歩き始めた。
右にはクウがいる。
人がさらに増えると,クウは理人の脚から離れない程度まで距離を詰めた。
そのとき,小さな男の子が母親らしい女性の手を離し,クウへ近づいてきた。
「白い狐!」
声を上げ,そのまま手を伸ばす。
クウの身体がわずかに後ろへ引いた。
理人は持っていた荷物を片手へ寄せ,子どもとクウの間へ手を出した。
「触るなら,先に聞いた方がいいよ」
強く止めるほどのことではない。
ただ,伸びてきた手がクウへ届かない位置に自分の手を入れた。
子どもが理人を見る。
「喋る?」
「喋るよ」
クウが理人の横から顔を出した。
「でも,急に触られるのは嫌かな」
「ごめんなさい」
子どもは素直に手を引いた。
すぐ後ろから母親が追いつき,何度も頭を下げる。
「すみません,珍しい狐だったから……」
「大丈夫です」
理人が答える。
クウも特に怒った様子はない。
子どもは最後にもう一度クウを見てから,母親と一緒に人混みへ戻っていった。
「行きましょうか」
理人が言う。
「うん」
クウはそれだけ答える。
理人も,それ以上は何も聞かなかった。
人の流れが少し空くまで待ち,パン屋へ向かって歩き出す。
数歩進んでから気づいた。
クウはさっきより少しだけ理人の近くを歩いていた。
◇
頼まれていたパンを受け取ると,買い物はすべて終わった。
市場の外へ出たところで,理人は荷物を地面へ置く。
「さすがに多いな」
「よし!」
ぽんたが待ってましたと言わんばかりに前へ出た。
「箱?」
「箱」
「宿までだぞ」
「任せろ」
ぽんたの身体が変わり,低く丈夫な箱になる。
以前より形が整っている。底は厚めで,荷物を入れても簡単には歪まなさそうだった。
「これなら入るな」
理人が涙玉や根菜を詰めていく。
「パンは上の方がいいね」
クウが横から言った。
「潰れますからね」
「香草も」
「じゃあクウ,持てそう?」
「一束なら」
クウは香草を傷つけないよう,紐の部分をそっと口にくわえた。
「俺の中に入るぞ」
箱になったぽんたが言う。
「あなた,歩くと揺れるでしょ」
「揺れねえ!」
「さっき根菜転がってたよ」
「ちょっとだけだ!」
理人は笑いながら荷物を調整し,ぽんたの箱を両手で持ち上げた。
「重いな」
「俺じゃなくて野菜がな」
「分かってるよ」
「俺は重くない」
「狸としては結構あると思うけど」
「リヒト!」
ぽんたの抗議を聞きながら,宿への道を歩く。
市場の喧騒は少しずつ遠ざかっていく。
クウは香草をくわえて右側を歩き,ぽんたは箱の姿のまま理人の腕の中で時々文句を言っている。
特別なことは何もなかった。
珍しい食材を手に入れたわけでも,新しい能力を見つけたわけでもない。
市場へ行き,頼まれたものを買い,少し寄り道をして帰る。
それだけだった。
「リヒト」
箱からぽんたの声がする。
「何?」
「次は串焼き買おうな」
「買い物の目的による」
「自分の金でいい」
「ぽんた金持ってないだろ」
「働いてる」
「給料は肉で受け取ってるじゃん」
「じゃあ肉を串焼きに換える」
「マルタさんと交渉しろよ」
クウが香草をくわえたまま,喉の奥で小さく笑った。
理人も笑う。
三人で歩いていることを,わざわざ意識する必要はなかった。
気づけば,そうなっていた。




