第31話 香りを残したい
翌朝,理人が最初に手に取ったのは,角猪の肉ではなく黒香子だった。
指先で少量をつまみ,鼻へ近づける。刺激のある香りはしっかり感じるのに,昨日のハンバーグでは食べ始めこそ存在感があったものの,噛んでいるうちに角猪の肉と脂へ埋もれていった。
クウの指摘を聞くまで,理人自身はそこまで意識していなかった。
「朝からそれ嗅いでるの?」
厨房の隅で香草を選んでいたクウが,こちらへ顔を向けた。
「昨日のことが気になって」
「匂いが途中で消えるって話?」
「はい。自分でも食べ直してみたら,確かにそんな感じでした」
「でも,おいしかったよ」
「おいしかったです。ただ,焼いてるときの匂いの方が期待させるというか」
理人は言葉を探しながら,黒香子を元の器へ戻した。
鉄板の上で脂が焼け,涙玉の甘い香りと黒香子が混じった瞬間は,それだけで腹が減るような匂いだった。しかし実際に口へ入れると,最初の一口を過ぎたあたりから印象が少し単調になる。
肉そのものが悪いわけではない。
むしろ角猪の肉は,今では十分おいしく食べられる。
だからこそ,ほかの部分が気になるようになった。
「黒香子もっと入れればいいじゃん」
ぽんたが背後から言った。
振り返ると,いつの間にか作業台の下に座っている。
「増やせば全部解決するなら簡単なんだけどな」
「しないの?」
「多すぎると今度は黒香子ばっかりになるだろ」
「じゃあ肉増やす?」
「何でそうなる」
ぽんたは本気で言っているらしい。
クウが二匹を見比べて,小さく笑った。
「ぽんたは肉が増えれば大体いいんだね」
「肉料理だぞ」
「でも黒香子も涙玉も入ってるよ」
「肉をうまくするやつだろ?」
「間違ってはいないな……」
理人は思わず頷いた。
ぽんたの言い方は乱暴だが,添えるものが肉を邪魔してはいけないという考え方なら,むしろ分かりやすい。
ただし,肉だけで十分ならハンバーグにする必要もない。
「今日は少し作り方を変えて試してみようかな」
理人の言葉に,ぽんたの耳がすぐ立った。
「ハンバーグ?」
「小さいのを何個かだけ」
「俺も食う」
「試食だからな」
「分かってる」
「一個ずつだぞ」
「……分かってる」
今の間は信用しない方がいい気がした。
◇
今回用意した肉は少量だった。
昨日と同じように角猪の肩側を中心に,脂の多い腹側を加える。ただし,最初から何通りも変えるのではなく,肉と脂の比率は昨日と同じにした。
変えるのは香りの付け方だけだ。
「三つ?」
マルタが作業台へ並べられた小さな器を見て尋ねた。
「はい。一つ目は昨日と同じ。二つ目は黒香子を少し増やします。三つ目は量は同じで,混ぜるタイミングを変えてみようかと」
「最後に入れるのかい?」
「少しだけ後にしてみます」
「どうなるかは知らないよ」
「自分もです」
理人が答えると,マルタは笑った。
「なら試してみな。ただ,香辛料も安くはないんだから無駄にはするんじゃないよ」
「分かってます」
マルタはそれ以上口を出さず,煮込み鍋の方へ戻っていく。
料理のことならすぐ正解を教えてくれると思っていた時期もあったが,最近はそうではないと分かってきた。
マルタにはこの世界の料理人としての経験がある。
けれど,ハンバーグについては理人と同じく初めてだ。
知っている部分は教えてくれるし,知らないものは一緒に見る。
それがちょうどよかった。
「ぽんた,今日はこのくらいで」
理人が肉を指す。
「昨日と同じ粗さ?」
「基本は同じ。ただ,前より細かい方を少し減らしたい」
「どれくらい?」
「粗い方を三分の二くらい」
「さんぶんのに?」
ぽんたが露骨に嫌そうな顔をする。
「半分より少し多い」
「最初からそう言えよ」
「三分の二で通じてほしかった」
「俺,狸だぞ」
「そうだったな」
ぽんたの身体が形を変える。
前までなら,穴の大きさを変えるたびに一度元の姿へ戻り,そこからもう一度細断器の形を作っていた。
ところが今日は,粗い肉を通し終えたところで,穴の一部だけがゆっくり小さくなった。
理人は手を止める。
「今の,戻らずに変えた?」
「うん?」
ぽんた自身は特に意識していなかったらしい。
「穴だけ変えたよな」
「だって全部戻るの面倒だし」
「前はできなかっただろ」
「そうだっけ?」
ぽんたの姿は細断器のまま,穴の半分ほどだけが一回り小さくなっている。形としては少し不揃いだが,肉を通すには問題なさそうだった。
クウも近づき,横から覗き込んだ。
「身体の一部だけ変えたってこと?」
「たぶん」
「たぶんなの?」
「俺まで言うの駄目なのかよ!」
ぽんたが抗議する。
理人は笑いながらも,変化した部分をじっと見た。
「疲れ方は?」
「全部変えるより楽」
「じゃあ,無理してない?」
「してない」
それなら今は十分だった。
いきなり全く別のものへ変化できるようになったわけではない。
慣れた形の一部を調整できるようになった。
《物質変化》という名前を付けたことで能力が強くなったわけではないだろう。単純に,何度も同じ道具へ変化してきた結果,ぽんた自身が形を理解し始めたのだと思う。
「これなら,粗さ変えるたびに戻らなくてもいいな」
「便利?」
「かなり」
「よし」
ぽんたの尻尾らしい突起が,器具の後ろで得意そうに揺れた。
「それは何で残すんだよ」
「いる」
「……もう聞かないことにするよ」
◇
三種類の肉だねを作る。
一つ目は昨日と同じ量の黒香子を,ほかの材料と一緒に混ぜた。
二つ目は黒香子を少し増やす。
三つ目だけは,肉と塩を混ぜ,涙玉やパン,乳,卵を加えたあと,最後に黒香子を入れて軽く合わせた。
「そんなに違う?」
クウが三つを順番に嗅ぐ。
「今の時点ではどうです?」
「二つ目は分かりやすく強いよ。一つ目と三つ目は……三つ目の方が黒香子が近い感じかな」
「近い?」
「匂いが表にいる感じ」
理人には完全には分からない表現だったが,何となく想像はできた。
よく混ぜ込まれた一つ目より,最後に加えた三つ目の方が香辛料の香りがはっきり残っているということだろう。
「これ,しばらく置いたら変わります?」
「たぶん変わると思うよ」
「じゃあ少し待とう」
理人が言うと,ぽんたが不満そうな声を上げた。
「また待つの?」
「少しだけ」
「すぐ焼こうぜ」
「違い見るんだから待つ」
「昨日も待った」
「料理って意外と待つんだよ」
ぽんたは納得していなかったが,マルタから空の籠を運ぶよう頼まれると,しぶしぶ厨房の奥へ向かった。
クウも仕事へ戻ろうとして,理人が呼び止める。
「クウ,一つだけお願いしていいですか」
「何?」
「三つ目の器だけ,《境界魔法》で囲ってみてほしいです」
クウの耳が少し動いた。
「匂いを残せるか見るの?」
「はい。ただ,できるかどうかは分かりません」
「昨日みたいに,器の形に合わせればいい?」
「それが一番やりやすいと思います」
クウは三つ目の器の前へ座る。
しばらく意識を向けたあと,小さく頷いた。
「できたと思うよ」
「疲れない程度でお願いします」
「これくらいなら平気」
理人は時計を持っていない。
だから,涙玉をもう一つ刻み終えるまで,という大雑把な時間で待つことにした。
その間にぽんたが戻り,クウも器から少し離れて香草の確認へ戻った。《境界魔法》は昨日より安定しているらしく,クウはときどき器へ意識を向ける程度で済んでいるようだった。
◇
「じゃあ嗅いでみてください」
しばらくして,理人は三つの器をクウの前へ並べた。
「どれから?」
「順番は任せます。どれがどれかは言いません」
「分かったよ」
器の位置は理人が途中で入れ替えている。
クウは一つずつ鼻を近づけた。
一つ目。
少し考える。
二つ目。
すぐに顔を離す。
三つ目では,もう一度確認するように鼻を近づけた。
「これが一番黒香子が強いよ」
「どれ?」
理人が見る。
黒香子を増やしたものだった。
「まあ,そうですよね」
「でも」
クウは別の器を前脚で示した。
「こっちは量は少なそうだけど,最初に嗅いだときの匂いに近いかな」
《境界魔法》で囲っていた三つ目だった。
「近い?」
「作った直後の感じ。黒香子だけじゃなくて,涙玉の匂いも残ってるよ」
「普通に置いてた方は?」
「少し馴染んだ感じかな。嫌な匂いじゃないけど,さっきより全部が弱いよ」
理人は三つの肉だねを見る。
クウの《境界魔法》が香りそのものを増やしたわけではない。
外へ逃げていくものを,少し残した。
昨日までの結果を考えれば,あり得る話だった。
「匂いも境界を越えにくくなってる?」
「そうなのかな」
「水分が逃げにくかったのと似てるのかもしれません」
クウは器を見ながら,少し首を傾げた。
「私,匂いを止めようとはしてないよ」
「そこが面白いんです」
「また楽しそうな顔してる」
「そうですか?」
「してるよ」
クウが笑う。
ただ,ここで一つ問題がある。
「これ,ずっと囲ったまま焼ける?」
戻ってきたぽんたが尋ねた。
「それはやらない」
理人はすぐ答えた。
「なんで?」
「熱まで通りにくくするなら,焼けにくくなるだろ」
「あ」
ぽんたが口を開けたまま止まる。
「それに,クウが高温の近くで境界を維持したときどうなるかも分からない」
「私はできそうな気もするけど」
クウが言う。
「気がする段階ではやりません」
「そう言うと思ったよ」
クウはあっさり引いた。
今分かったのは,焼く前の肉だねを短時間守る用途があるかもしれないという程度だ。
それ以上は,また別の日でいい。
◇
三種類の小さなハンバーグを焼く。
今度はマルタにも最初から見てもらい,火加減はなるべく同じにした。
鉄板へ並べた瞬間,三つとも香りが立つ。
「二つ目,強いね」
クウがすぐ反応した。
「黒香子増やしたやつです」
「分かりやすいよ。でも少し強すぎるかも」
理人にも分かった。
食欲を刺激する香りではあるが,角猪の焼けた匂いより先に黒香子が立っている。
「三つ目は?」
「いい匂いだよ。昨日より涙玉も分かるかな」
最後に黒香子を加え,《境界魔法》で短時間囲ったものだ。
「境界のおかげですかね」
「混ぜる順番変えたからかもしれないよ」
クウが冷静に答える。
「そうなんですよね」
理人は少し笑う。
変えた条件が二つある。
だから,どちらの効果かは今のままでは分からない。
「じゃあ次,分ければ?」
ぽんたが鉄板を見ながら言った。
「何を?」
「最後に黒香子入れて,クウのやつ使うのと使わないの」
理人はぽんたを見る。
「……その通りだな」
「俺,今いいこと言った?」
「かなり」
ぽんたの耳がぴんと立った。
「もう一回言って」
「今のは良かった」
「もっと」
「調子乗るな」
「なんでだよ!」
クウが横で笑っている。
理人も笑いながら,焼き上がった三つを皿へ移した。
◇
試食は,理人,ぽんた,クウ,マルタの四人だけで行った。
三種類を小さく切り分け,順番に食べる。
まず昨日と同じもの。
やはり安定しておいしい。
次に黒香子を増やしたもの。
「強い」
理人が一口目で言うと,マルタも頷いた。
「肉より先に来るね。悪くはないけど,私は昨日くらいでいいよ」
「俺も前の方」
ぽんたまで珍しく黒香子を減らす側だった。
「肉が遠い」
「ぽんたが言うと分かりやすいな」
「だろ?」
三つ目。
最後に黒香子を混ぜ,《境界魔法》で少し休ませたもの。
一口噛んだ瞬間,昨日より香りが分かりやすい。
黒香子だけではない。
涙玉の甘い匂いも,肉の脂と一緒に鼻へ抜ける。
「……これ,好きかも」
クウが言った。
昨日より反応が明らかだった。
「途中は?」
理人が尋ねる。
クウはもう一口食べ,ゆっくり噛む。
「昨日より残るよ。最後まで同じではないけど,肉だけになる感じが遅いかな」
理人も意識して食べる。
確かに違う。
劇的ではない。
香りが倍になったわけでも,別の料理になったわけでもない。
けれど,食べ始めから飲み込むまでの間に,香りが少し長く残っている。
「うまい」
ぽんたも頷く。
「昨日より?」
「ちょっと。でも肉は昨日でもうまかった」
「そこはぶれないな」
「当然だろ」
マルタは最後まで食べてから,理人を見る。
「で,どっちが効いたんだい?」
「まだ分かりません」
「混ぜる順番か,クウの力か」
「はい。次はそこを分けます」
「なら,今日はここまでだね」
マルタは残った皿を重ねた。
理人も異論はなかった。
一度で答えを出す必要はない。
むしろ,今は次に何を比べればいいのかが分かったことの方が大きい。
「クウ」
理人が声をかけると,彼女が顔を上げた。
「何?」
「《境界魔法》,やっぱり料理に使えそうです」
「食べ物を囲ってるだけだけどね」
「それが結構大事かもしれません」
「リヒトが楽しそうならいいけど」
「クウの力なのに?」
「私は今まで,嫌な魔力を遠ざけるためにしか使ってなかったから。こういう使い方は自分じゃ考えなかったよ」
クウはそう言って,自分の皿に残った小さな一切れを見る。
「でも,食べ物がおいしくなるなら悪くないかな」
その言葉に,ぽんたがすぐ反応した。
「だろ? 能力は飯に使えると便利だぞ」
「ぽんたは最初からそればっかりだね」
「悪いか?」
「悪くないよ」
二匹のやり取りを聞きながら,理人は作業台を見る。
《物質変化》は,ぽんたが慣れた形の一部だけを調整できるようになった。
《境界魔法》は,温度や水分だけでなく,香りの変化にも関わっているらしい。
まだ,どちらも小さな変化だった。
けれど,少し前までなら存在しなかった選択肢だ。
何か特別な食材を手に入れたわけではない。
強い魔獣を倒したわけでもない。
同じ角猪,同じ涙玉,同じ黒香子で,昨日より少しだけおいしくできた。
理人には,それが一番面白かった。




