第29話 森が戻る
翌朝,理人が目を覚ましたとき,最初にしたのは舌の奥へ意識を向けることだった。
何も感じない。
寝台から起き上がり,窓を開ける。朝の冷たい空気が部屋へ入り,町の屋根の向こうから鳥の声が聞こえてくる。
それでも,苦味はなかった。
「何してんだ?」
足元から声がした。
ぽんたが寝台の脇で丸くなっている。昨夜は森から逃げ出した魔獣への対応が遅くまで続いたため,いつもより寝るのも遅かった。
「魔力の確認」
「朝から?」
「気になったから」
「ある?」
「ここでは何も」
理人が答えると,ぽんたは眠そうな顔のまま大きく欠伸をした。
「じゃあ終わった?」
「まだ分からない」
「やっぱりそれかよ」
ぽんたは再び顔を前脚の間へ埋めた。
「でも,昨日よりはいい」
「それなら寝る」
「朝だぞ」
「まだ眠い」
理人は少し笑い,着替えて部屋を出た。
階下へ降りると,食堂はまだ朝食前で静かだった。厨房ではマルタが鍋に火を入れ始め,バルドが裏口から薪を運んでいる。
クウは物置ではなく,厨房の隅に敷かれた毛布の上で目を覚ましていた。
「おはようございます」
「おはよう,リヒト」
「どうです?」
何について尋ねたのか,説明する必要はなかった。
クウは耳を少し動かし,森の方向へ顔を向ける。
「かなり薄いよ。昨日の夜よりも」
「町では?」
「ほとんど分からないかな」
「自分もです」
理人は少し安心した。
昨夜,大きな崩落音のあとから急速に弱くなった魔力は,一晩経っても再び強まっていない。
「ずっと《境界魔法》使ってました?」
「寝る前にはやめたよ。それでも平気だったから」
「なら,ちゃんと外が弱くなってるんですね」
「たぶんね」
クウが微笑む。
理人もつられて笑った。
「ぽんたはまだ寝てる?」
「二度寝しました」
「ぽんたらしいね」
そこへマルタが鍋をかき混ぜながら口を挟んだ。
「森が落ち着いたなら結構だけど,あんたたちも朝飯前に働いておくれ」
「はい」
「私は何する?」
クウが立ち上がる。
「昨日の香草,見てもらえるかい? 騒ぎで片づけるのが遅れたから,湿ってないか確認してほしいんだ」
「分かったよ」
クウはそのまま香草を置いてある棚へ向かった。
森の異変が終わったかもしれない朝も,宿でやることは変わらない。
理人には,そのことが妙に心地よかった。
◇
昼前になると,ガルドとミレナが揃って宿へやってきた。
二人とも多少疲れた顔はしているが,怪我はない。
「昨日は大丈夫でした?」
理人が水を出しながら尋ねる。
「ああ。走り回っただけだ」
ガルドは椅子へ腰を下ろし,大きく息を吐いた。
「町の中へ入り込んだやつも少しはいたが,大半は外周へ抜けた。怪我人も軽いのが何人かだけだ」
「魔獣の方は?」
「人間とぶつかって怪我したのもいるけどね。ほとんどはそのまま町の外へ逃げたよ」
ミレナも隣へ座る。
「今日は?」
「静かだ」
ガルドは短く答えたあと,少しだけ表情を緩めた。
「朝から森の外側を見てきた。昨日みたいに外へ向かう足跡は増えてない。それどころか,小さいのは戻り始めてる」
「もう?」
「角兎や森鹿くらいだがな」
理人は少し驚いた。
「危なくないんですかね」
「人間よりあいつらの方が,そういうのは敏い」
ガルドが言う。
「少なくとも,外側は昨日までよりましなんだろう」
クウも厨房から顔を出した。
「森の魔力も薄くなってるよ」
「お前がそう感じるなら,なおさらか」
ガルドは頷く。
「ただ,まだ奥には入らん。今日も見張りは外からだ」
「それがいいと思います」
「お前ならそう言うと思った」
ミレナが笑う。
「普通は原因が収まったか確かめに行きたくならない?」
「確かめたいですよ」
「じゃあ?」
「安全になってからでいいです」
「やっぱりリヒトだね」
褒められているのかは分からない。
理人は水を一口飲み,ガルドを見る。
「崩れた場所はどうなったんです?」
「直接は見てない。ただ,少し離れた高い場所から確認した組がいる」
「何か変わってました?」
「かなりな」
ガルドはテーブルへ指を置き,簡単に地形を描くように動かした。
「前に斜面が落ちて細い割れ目ができたって話しただろ。昨日の大きい音のあと,その周辺がさらに落ちたらしい」
「割れ目は?」
「上から見た限りじゃ,前の形では残ってない」
「埋まった?」
「一部はな。逆に別のところが沈んでる。水の流れも変わったみたいだ」
理人は少し身を乗り出す。
「前に水が染み出してた場所は?」
「止まってる」
「止まった?」
「ああ。その代わり,もっと下の沢で水量が増えてるそうだ」
理人はしばらく考えた。
地表近くへ出ていた水が止まり,別の低い場所で増えた。
魔力も,崩落直後から急に弱くなった。
「地下の流れが変わった……」
「やっぱりそう思うか?」
「少なくとも,つながっては見えます」
もちろん,地下へ入って確認したわけではない。
魔力の流れが本当に水のように道を選ぶのかも分からない。
ただ,今までの出来事を並べると,一つの説明にはなる。
「じゃあ終わったんだな!」
いつの間に起きてきたのか,ぽんたが食堂へ入ってきた。
「まだそれは――」
「分からない,だろ?」
理人より先にぽんたが言う。
「覚えたな」
「何回も聞いたからな」
ぽんたは得意そうに尻尾を上げ,ガルドたちのところまで歩いてくる。
「でも森,戻れる?」
「今すぐは駄目だ」
「なんでだよ!」
「地面が崩れたばかりだ。魔力が収まっても,足場が危ない」
「俺の家,外側だぞ」
「それでも数日は待て」
ガルドに言われ,ぽんたは露骨に耳を伏せた。
「肉置いてあるのに……」
「まだ覚えてたのか」
「当たり前だろ!」
森から避難するときに回収できなかった干し肉や木の実,噛むために取っておいた大きな骨のことらしい。
理人は少し笑った。
「安全が確認されたら一緒に取りに行けばいいだろ」
「本当?」
「ガルドさんがいいって言ったらな」
「俺に振るな」
ガルドは呆れたように言ったが,完全に否定はしなかった。
◇
さらに二日が過ぎた。
森は少しずつ音を取り戻していた。
町まで逃げてきていた鳥は減り,代わりに森の外側から鳴き声が聞こえるようになった。見回りに入った猟師たちも,小型の魔獣が戻り始めていると報告した。
理人は毎日,森側から持ち帰られた水へ触れていた。
最初の日は,まだわずかに苦かった。
次の日は,意識しなければ分からない程度。
そして三日目。
「……ない」
理人は木杯へ指を入れたまま呟いた。
「本当に?」
横にいたクウが尋ねる。
「少なくとも,自分には分かりません」
比較のために井戸水へも触れる。
もう一度森の水へ。
差がない。
「クウは?」
杯を彼女の前へ置くと,クウは鼻を近づけるのではなく,しばらくじっと水を見た。
「少しだけ残ってる気もするけど……前みたいに嫌ではないよ」
「場所は?」
ガルドが答える。
「森の浅い沢だ。最初にお前が苦いって言ったところに近い」
理人は頷いた。
最初に異変を見つけた水が,ほとんど普通へ戻っている。
「じゃあ,少なくとも外側は大丈夫そうですね」
「ああ。明日から採集も少しずつ再開する」
「奥は?」
「まだ入らん」
「それでいいと思います」
「そこは変わらんな」
ガルドが笑う。
完全に元へ戻ったかどうかを確認するには,もっと時間が必要だ。
地形そのものも変わった。
以前使っていた獣道や沢が,そのまま使えるとは限らない。
それでも,少なくとも「何かが悪化し続けている」という段階は終わったように見えた。
森の異変は,少しずつ収束していた。
◇
その日の夕方,煮込み鹿亭には久しぶりに普段通りの客が戻っていた。
森へ入れなかった採集者が再開の話をし,商人たちは途切れていた素材の仕入れについて話している。厨房にも食器の音と客の声が届き,マルタは忙しそうに鍋と焼き台の間を動いていた。
ぽんたは低い台になって料理を運び,クウは厨房の奥で香草を確認している。
理人も皿を片づけながら,ふと足を止めた。
「どうしたんだい?」
マルタが尋ねる。
「いや……」
厨房に広がっている匂いを吸い込む。
焼いた肉に煮込んだ野菜とパン。
この世界へ来たばかりの頃から,何度も嗅いできた匂いだ。
「最近,森のことばっかり考えてたなと思って」
「そりゃあんなことがあったんだから当然だろ」
「そうなんですけど」
理人は作業台を見る。
そこには明日の仕込み用に分けられた角猪の肉が置かれていた。
肩に近い赤身。
脂の多い腹側。
その横には涙玉があり,棚にはパンと黒香子もある。
理人はしばらく黙って見ていた。
「リヒト?」
クウがこちらを見る。
「何見てるの?」
「肉」
「それは見れば分かるよ」
どこかで聞いたような言い方だった。
理人は少し笑う。
「そういえば,しばらく作ってないなと思って」
「何を?」
ぽんたが台の姿から戻り,すぐに近づいてきた。
理人は角猪の肉を指す。
「ハンバーグ」
ぽんたの耳が立った。
「作る?」
「まだ決めてない」
「作ろう!」
「早いな」
「森も戻ってきたんだろ!」
「それとハンバーグは関係ないだろ」
「ある!」
「どこに?」
「俺が食いたい!」
「それはぽんたの事情だ」
クウが二人を見比べる。
「ハンバーグって,前にぽんたが言ってたやつ?」
「言ったっけ?」
「何度かね。肉を細かくして,丸めて焼くって」
「うまいぞ」
ぽんたが即答する。
「そんなに?」
「最初のはまずかったらしいけどな」
「それ言う必要ある?」
「本当だろ」
クウの視線が理人へ向く。
「最初は失敗したの?」
「しました」
「今は?」
「前よりはかなり良くなりました」
「じゃあ,完成したの?」
その問いに,理人は少し黙った。
以前,ぽんたと食べた粗挽きのハンバーグは確かにおいしかった。
最初の失敗とは比べものにならない。
けれど。
「まだですね」
「何が足りないの?」
「それを考えるところです」
理人はもう一度,作業台の食材を見る。
肉の切り方,赤身と脂の割合。
涙玉にパン,乳と香辛料。少しわかってきたものもある。
そして今は,《熱交換》がある。
ぽんたの《物質変化》で,肉も以前より安定して細かくできる。
さらに,クウの《境界魔法》には,まだ分かっていない使い方がありそうだった。
森の異変を調べている間に,いつの間にか条件が少し変わっている。
「マルタさん」
「何だい?」
「近いうちに,またハンバーグ作ってもいいですか」
マルタは一瞬だけ理人を見たあと,笑った。
「材料を無駄にしないならね」
「分かりました」
「いつ?」
ぽんたがすぐ聞く。
「まだ決めてない」
「明日?」
「まだ決めてないって」
「明後日?」
「聞けよ」
横でクウが小さく笑っている。
森は,まだ完全に元通りではない。
地下で何が起きたのかも,結局は仮説のままだ。
それでも,異変が始まる前の生活は少しずつ戻ってきている。
理人は角猪の肉を見た。
最初に作ったハンバーグは,ひび割れ,肉汁を流し,焼き直して固くなった。
そこから肉を知り,道具を考え,ぽんたと出会った。
そして今,厨房には灰銀色の狐までいる。
そろそろ,もう一度。ちゃんと作ってみてもいい頃かもしれなかった。




