第28話 森があふれる
警鐘は,一度鳴ったきりだった。
だからこそ,町の空気が一気に張り詰めた。
火爪熊が現れたときや,魔獣の群れが森から押し出されたときとは違う。今の鐘は危険が町まで来たという知らせではなく,森で異変の兆候を確認したという合図だった。
まだ何も起きていない。
けれど,理人の舌の奥には,確かに苦味が残っている。
「また強くなったよ」
クウが森の方を見ながら言った。
宿の厨房では,マルタが火を弱め,バルドが表の様子を確認しに出ている。客たちも食事を続けてはいるものの,会話はいつもより小さく,誰もが警鐘の続きを気にしているようだった。
「さっきみたいに,強くなったり弱くなったり?」
理人が尋ねる。
「ううん。今は少しずつ上がってるよ」
クウの耳はぴんと立ったままだ。
ぽんたも珍しく騒がず,厨房の入口から外を覗いている。
「森,行く?」
「行かない」
理人が即答すると,ぽんたが振り返った。
「聞いただけだろ」
「念のため」
「俺だって今日は行かねえよ」
「ならいい」
理人はそう答えながら,自分でも少し安心した。
以前なら,ぽんたは自分の住んでいた森だからと無理に様子を見に行こうとしたかもしれない。今は,森が普段とは違う場所になっていることを理解している。
「リヒト」
クウが呼ぶ。
「何?」
「これ,前より強いよ」
理人も分かっていた。
町の中にいるのに,森の奥で感じたものに近い苦味がある。
しかも,それは一匹の魔獣が近づいてくるときの感覚ではない。どこか一方向から押してくるのではなく,周囲全体へ薄く広がりながら,少しずつ濃くなっている。
「バルドさんが戻ったら,町の指示を聞きましょう」
「宿にいる?」
「そのつもり」
「うん」
クウは小さく頷いた。
その返事を聞いた直後,表の扉が開き,バルドが戻ってきた。
「森側の見張りを下げるそうだ。外周の道を空けて,魔獣が出てきたら町の中央へ入れないようにする」
「また群れが来る可能性が?」
「ある。ガルドたちが先に動いてる」
バルドはそれだけ伝えると,食堂にいる客へも声をかけ始めた。
町の中央部へ移るほどではないが,森側の道へは近づかない。荷車や樽など,通りを塞ぐものは屋内か脇道へ寄せる。
前回の経験がある分,判断は早かった。
「マルタさん,何します?」
理人が尋ねる。
「まず水だね。怪我人が来ても,動物が暴れても必要になる」
「運びます」
「ぽんた」
「箱?」
「今日は低い台になれるかい。桶を二つ載せても傾かないやつ」
「できる!」
ぽんたの身体が形を変える。
低く,幅のある四角い台。
以前なら少しでも大きくなろうとして薄くなっていたところだが,今日は無理に広げず,中央を厚く残している。
「こんな感じ?」
マルタが前脚の代わりにできた角を軽く押す。
「いいね。これなら使える」
「俺の《物質変化》だからな」
「名前を言わなくても分かるよ」
「言わせろよ!」
普段なら笑うところだった。
けれど,理人は水桶を載せながら,舌の奥の苦味がまた一段濃くなったことに気づいていた。
◇
宿の前へ出ると,空はまだ明るかった。
それなのに,町の森側だけが妙に静かに感じられる。
人が減ったせいもある。
通りに置かれていた荷物は片づけられ,商人も客も建物の中へ入っている。代わりに,猟師や冒険者,町の兵らしい者たちが一定の間隔を空けて森側の道に立っていた。
理人たちは水を外周寄りの広場へ運ぶ。
「ここでいい!」
先に来ていたミレナが指示する。
剣を腰に下げ,今日は小さな丸盾まで持っていた。
「森は?」
理人が聞く。
「動いてる。まだ見える範囲に大物はいないけど,小さいのはもう何頭か出てるよ」
「逃げてる?」
「うん。人には向かってこない」
なら,今までと同じだ。
「ガルドさんは?」
「もう少し外。魔獣の流れる方向を見てる」
ミレナはぽんたが変化した台から桶を下ろしながら,理人を見る。
「ここまででいいからね」
「分かってます」
「本当に?」
「今日は本当に」
「今日は,って何だよ」
ぽんたが台の姿のまま口を挟む。
「お前も外行くなよ」
「分かってるって!」
ミレナが小さく笑う。
「二人とも宿に戻って。何か必要なら呼ぶから」
理人は頷いた。
そのとき。
森の方から鳥の群れが飛び立った。
数十羽ではない。
黒い影が木々の上から一斉に浮かび,町の上空を越えていく。
周囲の声が一瞬止まる。
続いて,遠くから低い地鳴りが聞こえた。
「来るよ」
クウが言った。
理人が振り返る。
クウはいつの間にか宿の前まで出てきていた。
「クウ,なんで外に」
「宿の中でも分かるくらい強くなったから」
「だからって――」
言い切る前に,苦味が跳ね上がった。
「っ……」
理人は思わず口元を押さえる。
痛いわけではない。
ただ,濃すぎる。
舌の奥だけではなく,喉の奥まで重いものが張りついたように感じる。
「リヒト?」
「大丈夫」
クウは大丈夫ではなさそうだった。
毛が逆立ち,耳が伏せられている。
「クウ,力使ってる?」
「まだ小さくしてるよ。でも外が強すぎるの」
「宿に戻ろう」
「うん」
三人が戻ろうとした瞬間,二度目の警鐘が鳴った。
一度目より長い。
森側の道から,誰かが叫ぶ。
「来るぞ!」
◇
最初に飛び出してきたのは,角兎だった。
一匹ではない。
道の端を縫うように何十匹も走り抜ける。その後ろから森鹿が続き,さらに理人の知らない小型の魔獣が混ざっていた。
互いを追うことも,争うこともない。
ただ,森から離れるために走っている。
「前と同じだ……」
理人が呟く。
「違うよ」
クウが答えた。
「もっと多い」
その言葉通りだった。
次から次へと出てくる。
町の兵たちは道の中央を塞がず,人のいる方だけを盾や棒で狭め,魔獣が外周へ抜けるように誘導している。
ガルドの声が遠くから聞こえた。
「追うな! 止めるな! 町の中へ向けるな!」
倒すためではない。
通り道を作るための対応だった。
理人は宿の入口からその様子を見る。
自分にできることはない。
むしろ前へ出れば邪魔になる。
「ぽんた」
「分かってる。行かねえ」
「クウも」
「私も行かないよ」
二匹とも,理人が言う前に答えた。
次に現れたのは,理人の腰ほどの高さがある四足の魔獣だった。
牙が長い。
だが,人へ向かう気配はない。
兵の盾を見ると進路を変え,森から離れる方向へ走り去っていく。
その直後。
地面が揺れた。
今度は,はっきり分かった。
宿の食器が一斉に鳴り,外の荷車が軋む。
「伏せろ!」
どこかで声が飛ぶ。
理人は反射的に姿勢を低くした。
ぽんたが身体を広げようとする。
「ぽんた,無理に大きくなるな!」
「でも!」
「落ちてくるものない!」
宿の壁は揺れているが,今すぐ崩れそうな様子はない。
理人が周囲を確認した直後,クウが息を呑んだ。
「まずいよ」
「何が?」
「魔力」
理人にも分かった。
濃くなっている。
これまでの比ではない。
森の奥で何かが開いた。
そんな感覚だった。
「クウ,広げないで」
「でも――」
「自分の分だけでいい!」
理人が強めに言う。
クウの周囲では,すでに苦味が薄くなり始めていた。
それでも完全には消えない。
「リヒトも入って」
「俺は大丈夫」
「大丈夫じゃない顔してるよ」
「感じるだけだから」
「でも――」
「クウ」
ぽんたが間に入った。
「無理すんな」
クウがぽんたを見る。
「あなたまで言うの?」
「この前ふらついてただろ」
「覚えてたんだ」
「見てたからな」
ぽんたは少し気まずそうに鼻を鳴らす。
「俺,苦いの分かんねえし。リヒトも感じるだけだって言ってる。自分守れよ」
クウは何も言わなかった。
数秒して,周囲の苦味が少し戻る。
境界を狭めたらしい。
「それでいい」
理人が言うと,クウは不満そうに耳を動かした。
「二人とも頑固だね」
「クウに言われたくない」
「そう?」
ほんの少しだけ,いつもの調子が戻った。
◇
地鳴りは止まらなかった。
小さな揺れが何度か続き,そのたびに森から魔獣が飛び出してくる。
大きなものも混じり始めた。
角猪。
理人が初めてこの世界で襲われた魔獣と同じ種類だ。
それが三頭まとめて森から現れたとき,理人の身体は反射的に強張った。
だが,角猪たちは人間を見ても進路を変えない。
町へ向かうのではなく,外側の道へ向かって必死に走っている。
「本当に,全部逃げてるんだな」
ぽんたが呟いた。
「ああ」
森そのものが,そこに住む生き物を押し出している。
今ならそう見える。
「リヒト!」
ガルドが走ってきた。
額には汗が浮かび,弓にはまだ矢をつがえていない。
「宿の裏へ下がれ!」
「何か来ます?」
「大物が二頭いる。戦う気はなさそうだが,走る方向が読めん!」
「分かりました」
理人はすぐに宿の中へ下がる。
ぽんたとクウも続いた。
「水は十分か?」
ガルドが入口で確認する。
「まだあります」
「なら今日はもう外へ出るな」
「はい」
ガルドは理人の返事を聞くと,すぐに戻ろうとした。
「ガルドさん!」
「何だ!」
「森の奥,今までで一番強いです!」
ガルドが足を止める。
「苦味か?」
「はい。たぶん,一気に漏れてます」
「分かった」
それだけ言い,ガルドは走っていった。
理人が伝えられるのは,その程度だ。
場所も距離も分からない。
ただ,今までより明らかに強い。
それでも,何も知らないよりはいい。
◇
やがて,空が暗くなり始めた。
夕方になったのではない。
森の上へ,土煙のようなものが上がっている。
「煙?」
ぽんたが窓から見る。
「火じゃないと思う」
理人にも焦げた匂いは感じない。
その直後。
これまでで最も大きな音がした。
遠い。
それでも腹の底まで響くような,重い音だった。
地面が一度,大きく揺れる。
厨房の棚から木椀が一つ落ちた。
マルタがすぐに拾う。
「みんな壁から離れな!」
宿の中にいた客も,中央へ集まる。
理人はクウとぽんたを確認する。
「大丈夫?」
「俺は平気」
「私も……」
クウは答えながら,突然顔を上げた。
「どうした?」
「待って」
理人も舌の奥へ意識を向ける。
さっきまで張りついていた重い苦味。
まだある。
けれど。
「……薄くなった?」
理人は自分の感覚を疑った。
数秒前まで,町の中でもはっきり分かるほど濃かった。
それが今は,少しずつ弱くなっている。
「クウ?」
「うん」
クウが森の方を向いた。
「減ってるよ」
「急に?」
「さっきの音のあとから」
理人は窓へ近づく。
外見はまだ変わらない。
魔獣も森から出てきている。
警鐘も鳴っている。
それでも。
苦味だけは確実に薄くなり始めていた。
「なんで?」
ぽんたが聞く。
「分からない」
理人は答えた。
ただ,一つだけ思い当たることはある。
地下で溜まっていたものが,一気に流れ出した。
そして今。
どこか別の道が開いた。
「流れが変わった……?」
「地下の?」
クウが尋ねる。
「かもしれない」
理人は森の方を見る。
大きな崩落の音。
その直後から,魔力が弱くなっている。
もし地下のどこかがさらに崩れ,地表へ漏れていた流れよりも通りやすい道が深い場所へできたのなら。
説明はつく。
もちろん,確認する方法はない。
少なくとも今は。
「リヒト」
クウが小さく呼ぶ。
「何?」
「もっと薄くなってるよ」
理人も分かった。
森の異変が始まって以来,何度も感じてきた苦味。
水に残り,土に染み込み,魔獣たちを森の外へ追い出したもの。
それが,ゆっくりと遠ざかっている。
「終わった?」
ぽんたが尋ねる。
理人はすぐには頷かなかった。
「まだ分からない」
「やっぱり?」
「魔獣もまだ出てるし,森の中がどうなったかも見てない」
「でも,弱くなったんだろ?」
「ああ」
そこだけは間違いない。
理人は少しだけ肩の力を抜いた。
「なら,今日はそれで十分だ」
原因を倒したわけではない。
誰かが森を救ったわけでもない。
ただ,森の奥で何かが大きく崩れ,それまで地表へ溢れていた魔力の流れが変わった。
今のところは,そう見える。
窓の外では,まだ人々が走っている。
森から逃げてきた魔獣を町の外へ流し,怪我人がいないか確認し,倒れた荷物を片づけている。
終わったと決めるには早い。
それでも。
理人の舌から,あれほど濃かった苦味は少しずつ消えていった。
森があふれたあと。
初めて,異変そのものが遠ざかっていくように感じられた。




