第27話 そこに残しておく
能力に名前が付いた翌朝から,ぽんたは妙に《物質変化》という言葉を使いたがるようになった。
「マルタ,《物質変化》で箱になるぞ」
「普通に箱になっておくれ」
「普通だっただろ!」
「名前が付いたからって,やることは変わらないよ」
朝食用のパンを運ぶため,ぽんたは口を尖らせながら低い箱へ姿を変えた。昨日まではただ「箱になる」と言っていたのに,今日は何かするたびに能力名を付け足している。
理人が笑いながらパンを並べていると,箱の横から尻尾のような突起が出てきた。
「リヒト,笑っただろ」
「笑ってない」
「顔が笑ってる」
「《物質変化》って言いたいだけだろ」
「名前付けたのはお前だぞ!」
その少し離れたところでは,クウが乾燥させた香草の匂いを確かめていた。
「ぽんた,気に入ったんだね」
「気に入ってねえ!」
「朝から四回くらい言ってるよ」
「数えてたのかよ!」
クウの声はいつも通り穏やかだったが,口元にはわずかな笑みがある。
どうやら二匹の距離も,少しずつ縮まっているらしい。
理人が最後のパンを箱へ載せ終えると,マルタが厨房の奥から声をかけた。
「それ運んだら,昨日の続きやるのかい?」
「少しだけ試そうと思ってます」
「肉は出さないよ」
「今日は水で十分です」
「なら好きにしな。ただし昼の仕込みまでには戻っておいで」
「はい」
理人が答えると,クウが香草から顔を上げた。
「今日は何するの?」
「昨日,肉だけを囲えましたよね」
「うん」
「今度は,クウがその場から離れても境界が残るか試したいです」
クウの耳が少し前へ向いた。
「私が離れても?」
「宿の仕事に使うなら,ずっと横に座ってないといけないのは不便なので」
「それはそうだね」
クウは少し考え,目の前の香草を見る。
「でも,できるかは分からないよ」
「できなかったら,それで終わりです」
「また地味なやつ?」
箱の姿から戻ったぽんたが尋ねる。
「たぶん」
「見る」
「仕事終わってからな」
「終わった!」
「パン運んだだけだろ」
「一仕事だぞ」
理人がマルタを見ると,彼女は肩をすくめた。
「邪魔しないなら連れてきな」
「聞いたか!」
「聞いたよ」
結局,理人とクウにぽんたまで加わり,厨房の裏手へ向かうことになった。
◇
用意したのは,蓋の付いた小さな木の器を二つと,少し温めた水だった。
前日に使った椀より,中と外がはっきり分かれている方が,クウにも意識しやすいかもしれないと考えたからだ。
「まず,こっちだけ囲ってみてください」
理人が器を一つ指さす。
「昨日と同じ?」
「はい。ただ,今日はクウ自身は入れないで,器だけ」
「分かったよ」
クウは器の前に座り,じっと見つめた。
少しして,理人の舌に残っていた町の外側からの薄い苦味が,器の周りだけわずかに途切れたような気がした。
目には何も見えない。
けれど,昨日《熱交換》を使ったときと同じなら,そこには何かしらの境目ができているはずだ。
「できました?」
「たぶんね」
「じゃあ,一歩下がってみて」
クウが一歩下がる。
「まだある?」
「あるよ」
「もう一歩」
さらに下がる。
クウは少し首を傾げた。
「……まだあるけど,変な感じ」
「どんな?」
「自分の近くに作ってるときと違うの。置き忘れてるみたい」
「置き忘れる?」
ぽんたが笑う。
「能力忘れるのか?」
「そういう意味じゃないよ」
クウは少しむっとしたように耳を動かした。
「いつもなら私の周りにあるから,動けば一緒に動くでしょ。でも今は,そこに残してるから……引っかかる感じがするの」
「引っかかる」
理人はその言葉を頭の中で繰り返す。
「どこかとつながってる感じ?」
「そこまでは分からないかな。離れるほど気になる感じだよ」
「じゃあ,もう一歩だけ」
クウが三歩目を踏み出した。
その瞬間。
「あ」
クウの耳が立った。
「消えた?」
「うん」
理人は器へ近づき,触れてみる。
もちろん,すぐに温度が変わっているわけではない。
「三歩くらい?」
「距離だけじゃないと思うよ」
「どうして?」
「さっき,二歩目でも少しきつかったから。たぶん慣れてないだけ」
「なるほど」
ぽんたが器を覗き込む。
「もう一回やる?」
「やります?」
理人がクウへ尋ねると,彼女はすぐ頷いた。
「もう少しなら平気だよ」
無理をしている様子はない。
それなら続けてもいいだろう。
◇
二度目は,器そのものを意識するのではなく,「蓋の内側までを一つ」と考えてもらった。
「内側?」
「クウが境界を作るとき,何か目印があった方がやりやすいかと思って」
「蓋と器の間まで?」
「そうです。ここから内側,ここから外側って,形が分かりやすいので」
クウは器の縁へ鼻先を近づけ,しばらく眺めた。
「やってみるね」
再び境界を作る。
今度は,クウが一歩離れてもほとんど迷わなかった。
二歩。
三歩。
先ほど消えた位置まで来ても,クウは立ったままだった。
「まだある?」
「あるよ」
「さっきより楽?」
「うん。どこを残せばいいのか分かりやすいかな」
理人は少し安心した。
能力そのものが急に強くなったわけではない。
使い方が少し分かっただけだ。
それくらいが自然だと思う。
「じゃあ,そこで止めましょう」
「もっと離れないの?」
「今日は必要ないです」
「試したくない?」
「試したいですけど」
「顔に出てるよ」
クウに言われ,理人は少し笑った。
「限界までやる意味はないので」
「やっぱりそこは変わらないね」
クウも笑う。
「それで何するんだ?」
ぽんたが退屈そうに座り込んだ。
「待つ」
「またかよ」
「境界が残るか確かめるには必要だろ」
「どれくらい?」
「まず少しだけ」
「その間,肉食っていい?」
「何でそうなる」
「待つと腹減る」
「まだ朝だぞ」
理人とぽんたが言い合っている間も,クウは器から少し離れた場所に座ったまま,ときどき耳を動かしていた。
境界を維持している感覚を確かめているらしい。
数分後。
「まだある?」
「あるよ。でも,ちょっと気にしてないと薄くなる感じがする」
「完全に放っておくのは無理?」
「今は無理だと思う」
理人は頷いた。
それでも十分だった。
本人から離れた場所へ境界を残すこと自体はできる。
しかも,容器のように「内と外」がはっきりしたものの方がやりやすい。
「クウ,いったんやめてください」
「いいの?」
「今日はここまででもいいくらいです」
「水は?」
「せっかくなので比べます」
境界を解き,もう一つの器と並べたまましばらく置く。
その間,三人は厨房へ戻り,朝の片づけを手伝った。
◇
半刻ほどしてから確認すると,差は小さかったが,境界を残していた方がわずかに温かかった。
マルタにも何も説明せず触ってもらうと,同じ方を選んだ。
「こっちだね」
「やっぱり」
「また何か分かったのかい?」
「クウが近くにいなくても,短い間なら境界を残せるみたいです」
マルタがクウを見る。
「それなら,ずっと食材の横に座ってなくて済むね」
「まだ長くは無理だよ」
「十分さ。仕事は少しずつ覚えればいい」
「仕事として数えるの?」
クウが少し意外そうに尋ねる。
「役に立つなら仕事だろ」
マルタはあっさり答え,温水の器を片づけ始めた。
「ただし,これだけに頼る気はないよ。クウがいなくなったら全部駄目になるような使い方はしない」
「……うん」
クウは少しだけ目を細めた。
理人には,その返事がどこか嬉しそうに聞こえた。
能力が珍しいから使うのではなく,使えるところだけ普通に使う。
マルタにとっては,それだけなのだろう。
ぽんたが横で胸を張る。
「俺の《物質変化》も仕事だぞ」
「もちろんだよ」
「ほらな!」
「でも昨日,籠になってパン一個落としたね」
「それは尻尾が――」
「箱に尻尾はいらないって言っただろ」
「いる!」
話がいつもの方へ流れていく。
クウも笑いながら二匹を見ていた。
◇
昼過ぎ,ガルドが宿へ顔を出した。
食事ではなく,マルタとバルドへ森の様子を伝えに来たらしい。
「今朝,奥の見張りが地鳴りを聞いた」
その一言で,厨房の空気が少し変わった。
「揺れたんですか?」
理人が尋ねる。
「町では分からん程度だ。森の中でも,地面が動いたってほどじゃない。ただ,地下で石が崩れるみたいな音が何度かしたらしい」
「例の崩れた辺り?」
「方向は近い」
ガルドは断定しなかった。
「それと,沢の水がまた濁った場所がある。昨日より外側だ」
「魔獣は?」
「まだ大きく動いてない。ただ,鳥が妙に騒いでる」
理人はクウを見る。
彼女は厨房の奥で伏せていたが,ガルドの話を聞いてゆっくり顔を上げた。
「クウは何か感じます?」
「今は大丈夫だよ」
少し間を置き,クウは森のある方角へ耳を向ける。
「でも,朝から時々変なの。急に強くなるんじゃなくて,波みたいに来るよ」
「波?」
「少し重くなって,また戻るの。それが何回かあったかな」
理人は舌の奥へ意識を向ける。
宿の中ではほとんど分からない。
自分よりクウの方が,森の魔力そのものには敏感なのだろう。
「前に一気に増えたときと似てます?」
「少し違うよ。あのときは,急に押してきたの。今日は……溜まってる感じがするかな」
「溜まる?」
「うまく言えないけどね」
クウ自身も自信はないらしい。
それでも,理人には気になる表現だった。
地下の流れが崩れ,出口が狭くなっている。
そこへ魔力が流れ込み続ければ,一度どこかに溜まることはあるのかもしれない。
もちろん,魔力が本当に水や空気のように振る舞う保証はない。
「今日は森に入らない方がよさそうですね」
「ああ」
ガルドが頷く。
「見張りも外側へ下げる。何か起きても,奥へ確かめに行かせない」
「それがいいと思います」
原因が分かりそうだから近づく。
それをしないところが,ガルドらしい。
◇
夕方。
宿の仕事が一段落したころ,理人はクウと一緒に,朝使った木の器を片づけていた。
「今日の実験,面白かった?」
クウが尋ねる。
「かなり」
「やっぱりね」
「そんなに顔に出てました?」
「出てたよ」
理人は少し苦笑し,器を棚へ戻す。
「でも,まだ『離して置ける』くらいですね」
「それじゃ足りない?」
「足りないわけじゃないです。むしろ十分です」
「ならいいけど」
クウは前脚を揃えて座り,少しだけ考えるように尻尾を身体へ寄せた。
「離して残すの,最初は変だったけど,器があると分かりやすかったよ」
「中と外が最初から分かれてるから?」
「たぶんね。何もないところに残すより,ここまでって決めやすいの」
「なるほど」
理人はその言葉を覚えておく。
境界を作るには,「何を内側にするのか」が重要なのかもしれない。
そこから先を考えかけたときだった。
クウの耳が突然立った。
「……リヒト」
「どうした?」
返事はすぐにはなかった。
クウは森の方向を見つめたまま,身体を低くする。
「来る」
その声とほぼ同時に,理人の舌の奥へ苦味が広がった。
昼間までは感じなかった濃さだった。
強くなり,少し弱まる。
そして,また強くなる。
「これが波?」
「うん。でも,さっきより大きいよ」
厨房の棚に掛けられた金属の匙が,かすかに鳴った。
地面が震えたのだ。
ほんの少しだけ。
理人とクウが顔を見合わせる。
食堂からも客の声が止まり,誰かが「今,揺れたか?」と尋ねる声が聞こえた。
ぽんたが厨房へ駆け込んでくる。
「リヒト!」
「分かってる」
理人は裏口から外を見た。
空はまだ明るい。
町も,今のところ変わらない。
それでも,森の方角から感じる苦味だけは,ゆっくりと濃くなり続けていた。
昼間,クウは「溜まっている感じがする」と言った。
もし,その感覚が正しいのなら。
今はまだ,溢れていないだけなのかもしれない。
理人がそう考えた直後,遠くから警鐘が一度だけ鳴った。
続きはまだない。
注意を促すための,一度だけの音だった。
森の奥が,また動き始めていた。




