第26話 境目をつくる力
翌朝,マルタは約束通り,森鹿の肉を少しだけ分けてくれた。
夕食へ出すには小さすぎる端肉で,筋も多い。傷んだところはないが,料理に使うとしても煮込みへ回す程度のものらしい。
「これなら試してもいいよ。ただし,食べるなら最後に私が見るからね」
「分かりました」
「何するの?」
クウが肉の入った木皿を覗き込む。
「昨日と同じです。クウの近くに置いたものと,普通に置いたものを比べます」
「また置いて待つんだね」
「地味ですけど」
「もう慣れたよ」
クウはそう言って,厨房の奥に座った。
ぽんたも当然のようについてきたが,今日は実験そのものより肉へ興味があるらしく,木皿からほとんど目を離さない。
「ぽんた」
「何だよ」
「生で食べるなよ」
「まだ何もしてねえだろ」
「顔が食べようとしてる」
「顔で決めるな!」
とはいえ,ぽんたなら実際に食べかねない。
理人は念のため,二つの木皿を少し高い台へ置いた。
一方はクウのすぐそば。
もう一方は,厨房の反対側にある涼しい棚の上。
肉の大きさや厚みはなるべく近いものを選んだが,完全に同じではない。温度計も湿度計もない以上,今回も正確な実験とは言えなかった。
それでも,比べる意味はある。
「今日は何を見るの?」
クウが尋ねる。
「温度と乾き方。それと匂いです」
「匂いは私?」
「お願いします」
「俺は?」
ぽんたがすぐに割り込んだ。
「ぽんたも嗅いでいいよ」
「何でクウはお願いしますで,俺は嗅いでいいなんだよ」
「昨日,葉っぱを嗅いで『草っぽい』って言ったから」
「草は草だろ!」
クウが小さく笑った。
理人も笑いながら,二枚の木皿へ布を軽くかぶせる。
「しばらく放置します」
「それだけ?」
「それだけ」
「じゃあ仕事するね」
クウはすぐに立ち上がり,マルタのところへ向かった。
ぽんたは肉の方を一度振り返ったものの,理人に見られていることへ気づくと,何事もなかったようにその後を追った。
◇
昼までの間,森から新しい警鐘が鳴ることはなかった。
見回りから戻ったガルドが昼食を食べに寄り,森の浅い場所では魔獣の動きも少し落ち着いていると教えてくれた。
「昨日みたいな大きい流れは?」
「今のところない。ただ,奥はまだ駄目だな」
「魔力ですか?」
「ああ。俺には味なんか分からんが,長くいると妙に身体が重いって言うやつがいる」
理人はパンを置き,少し考える。
「森に戻ってる魔獣もいます?」
「外側だけならな。奥へ戻るやつはほとんど見てない」
「じゃあ,まだ終わってないですね」
「そういうことだ」
ガルドは煮込みを口へ運びながら,食堂の奥にいるクウへ目を向けた。
クウは客から少し離れたところで,マルタが乾かしている香草を確認している。
「だいぶ慣れたな」
「まだ食堂の真ん中には来ませんけどね」
「それでいいだろ」
「自分もそう思います」
話している間に,ぽんたが空になった籠を運んできた。
今回は変化せず,普通に口で持っている。
「今日は箱にならないのか?」
ガルドが聞く。
「これくらいなら普通に運べる」
「成長したな」
「だろ?」
ぽんたが得意そうに尻尾を振る。
以前なら,何でも変化して運ぼうとしていた。使える能力だからといって,毎回使う必要はないと分かってきたらしい。
理人はその姿を見て,少しだけ思う。
クウの力も,同じなのかもしれない。
今まで本人は「嫌な魔力を入れないため」にしか使ってこなかった。
でも,それが能力の全部とは限らない。
◇
昼を過ぎたところで,理人は肉を確認した。
まず,普通の棚に置いていた方へ触れる。
朝より明らかに温度が上がっている。
表面も少し乾き始めていた。
次に,クウのそばへ置いた肉へ触れる。
「……やっぱり違うな」
「冷たい?」
クウが近づいてくる。
「こっちの方が冷たいです。それに,表面も乾いてない」
マルタにも確認してもらう。
彼女は二つの肉へ順番に指を当て,今度は匂いも嗅いだ。
「確かにこっちの方が朝に近いね」
「腐ってない?」
ぽんたが聞く。
「数時間で腐ってたまるかい」
「じゃあ食える?」
「まだだよ」
マルタが即答する。
ぽんたは残念そうに耳を伏せた。
「クウ,匂いは?」
理人が尋ねる。
クウは二つの肉へ鼻を近づける。
「こっちの方が少し変わってるよ」
「普通に置いてた方?」
「うん。血の匂いが朝より弱くて,ちょっと乾いた感じがする。私の近くにあった方は,朝とあまり変わらないかな」
やはり。
昨日のパンと同じだった。
クウの近くでは,温度だけでなく乾燥や匂いの変化も遅い。
「クウ」
「何?」
「今,この肉だけ囲うみたいなことできます?」
クウが首を傾げる。
「囲う?」
「いつもクウの周りに作ってる,嫌なものを入れない範囲。それを小さくして,この皿の周りだけにする感じです」
「私じゃなくて?」
「はい」
クウは肉を見る。
「やったことないよ」
「無理ならやらなくていいです」
「……ちょっと待って」
すぐに諦める様子ではなかった。
クウは木皿の前へ座り,しばらくじっと見つめた。
理人には何も見えない。
魔力らしい光が出るわけでも,風が起こるわけでもない。
「いつもは,自分の近くに入れないようにするんだよね?」
クウが確認する。
「そう言ってましたね」
「じゃあ,ここを私の近くだと思えばいいのかな」
「それはクウにしか分からないです」
「役に立たないね」
「すみません」
クウが少し笑った。
そのまま目を閉じる。
数秒。
十数秒。
やがて,大きな耳が少し動いた。
「……できたかも」
「かも?」
「たぶん」
理人は思わず笑う。
「何?」
「いや,クウも言うんだなと思って」
「分からないものは,たぶんでいいんでしょ?」
「その通りです」
教えた覚えはないが,自分の言い方が移ったらしい。
「何か変わりました?」
理人は木皿へ手を伸ばしかけ,止める。
外から見ても何も分からない。
「触っていい?」
「いいよ」
指先で肉へ触れる。
冷たさは変わっていない。
当然だ。
クウの力そのものが温度を下げるわけではない。
「俺の《熱交換》を試してもいいですか?」
「この肉に?」
「直接じゃなくて,横の水で」
理人は小さな器へ水を入れ,木皿のすぐ外側へ置いた。
肉の近くにもう一つ水の器を置く。
「何するんだ?」
ぽんたが覗き込む。
「内側と外側で熱を移せるか試す」
「どっちが内側?」
「今クウが囲ってる方」
「見えねえぞ」
「俺にも見えない」
「大丈夫なのか?」
「だから試す」
ぽんたが呆れた顔をする。
理人は片手を外側の水へ,もう片方を肉の近くに置いた水へ入れた。
いつものように,一方からもう一方へ熱を移す。
「……あれ?」
普段なら,ゆっくりではあっても感覚がつながる。
今日は違った。
まったくできないわけではない。
ただ,何かに引っかかる。
細い管を無理に通そうとしているような,妙な抵抗があった。
理人はすぐに手を離した。
「どうしたの?」
クウが聞く。
「やりにくい」
「熱を移すのが?」
「はい」
「失敗?」
ぽんたが聞く。
「失敗というか……」
理人は少し考える。
「クウ,今のやつやめてもらえます?」
「いいよ」
クウが意識を緩める。
もう一度,同じ二つの水へ触れる。
今度は普通に移る。
「……やっぱり」
「何が?」
「クウが囲ってる間だけ,《熱交換》が通りにくい」
クウが目を瞬かせた。
「私,熱まで止めてるの?」
「止めてるというより……」
理人は言葉を探す。
昨日の水とパン,今日の肉。
森の異常な魔力と,今の自分の《熱交換》。
別々の現象に見えていたものが,一つの考え方でつながり始める。
「クウは,魔力を押し返してるんじゃないのかもしれない」
「違うの?」
「たぶん,内側と外側を分けてる」
「分ける?」
理人は木皿の周囲を指でなぞる。
「ここまでは内側。こっちからは外側。そういう境目を作って,外から入ってくるものや,中から出ていくものを通りにくくしてるんじゃないかな」
クウは黙って聞いている。
「だから森の嫌な魔力も入りにくい。冷たい水は外の熱が入りにくいから温まりにくい。温かい水は熱が逃げにくいから冷めにくい。パンは水分が逃げにくいから乾きにくかった」
「肉も?」
「たぶん同じです」
「じゃあ,何でも止めるの?」
「そこまでは分からないです」
理人はすぐ否定する。
「空気まで完全に止めてたら,クウ自身が困るでしょうし。今の《熱交換》も,まったく使えなかったわけじゃない。何をどのくらい通しにくくしてるのかは,まだ分からないです」
「私が決めてる?」
「それも分かりません」
クウは少し考え込んだ。
「でも,嫌な魔力は『入ってくるな』って思ってるよ」
「なら,意識で多少変えられる可能性はありますね」
それ以上は,まだ試さない方がいい。
今日は初めて,自分以外のものだけを囲えた。
それだけでも十分だ。
「リヒト」
ぽんたが呼ぶ。
「何?」
「それ,名前ないの?」
「クウの力?」
「お前のは《熱交換》ってあるだろ。クウのはずっと『嫌なの入れないやつ』じゃん」
言われてみればその通りだった。
理人はクウを見る。
「名前,付けます?」
「またあなたが?」
「嫌なら自分で」
「思いつかないよ」
クウは少し考え,尻尾を身体の横へ寄せた。
「リヒトなら何て呼ぶ?」
今までの現象をもう一度整理する。
内側と外側。
その間にあるもの。
通すものと,通しにくくするもの。
「……《境界魔法》」
「きょうかい?」
「内側と外側を分ける境目のことです」
クウは小さく繰り返す。
「境界……」
「今のところ,自分にはそれが一番近く見えます」
「嫌な魔力を遠ざけるのも?」
「境界を越えにくくしてると考えれば」
「温度が変わりにくいのも?」
「同じです」
クウは少しの間,木皿を見つめていた。
やがて,ゆっくり頷く。
「《境界魔法》。うん,いいと思うよ」
「決まりですね」
「ちょっと待て!」
ぽんたが大きな声を上げた。
三人がそちらを見る。
「何だよ」
「クウだけずるい!」
「何が?」
「俺の能力にも名前!」
理人は一瞬,ぽんたを見る。
「変化するやつ?」
「そう!」
「変化」
「それは名前じゃねえ!」
「じゃあ……」
理人は少し考える。
ぽんたは,自分の身体を鍋や箱,刃物といった無生物へ変える。
生き物にはなれない。
見た形や理解した構造によって,変化できるものが増える。
「《物質変化》」
ぽんたが黙った。
「どう?」
「……そのままじゃねえか」
「分かりやすいだろ」
「クウの方が格好いい!」
「そうかな?」
クウが首を傾げる。
「そうだよ! 《境界魔法》だぞ! 俺は《物質変化》!」
「何をするかすぐ分かるよ」
「そういう問題じゃねえ!」
ぽんたの尻尾が床を叩く。
「じゃあ自分で考える?」
理人が聞くと,ぽんたは口を閉じた。
「……《物質変化》でいい」
「いいんだ」
「変えるなよ」
「変えないよ」
「絶対だぞ」
どうやら気に入っていないわけではないらしい。
クウがぽんたを見ながら,小さく笑う。
「よかったね,《物質変化》」
「お前ちょっと楽しんでるだろ」
「少しだけね」
また二匹の言い合いが始まる。
理人は木皿へ視線を戻した。
名前が付いたからといって,能力のすべてが分かったわけではない。
むしろ,分からないことは増えた。
どこまで離れたものへ境界を作れるのか。
何を通し,何を通さないのか。
どれくらい長く保てるのか。
そして,境界をもっと小さく,もっと強くしたら何が起こるのか。
その中には,宿の仕事に使えるものもあるだろう。
「リヒト」
マルタが声をかける。
「はい?」
「考えるのはいいけど,その肉いつまで置いとくんだい」
「あ」
実験に夢中になっていた。
「今日の分は終わりだよ。使えるところは煮込むから持ってきな」
「はい」
理人は木皿を持ち上げる。
すると,クウが少し気になるようにその肉を見た。
「もう囲わなくていい?」
「今日はいいです。疲れてない?」
「これくらいなら平気だよ」
「ならよかった」
クウが力を解く。
境界が消えたはずなのに,見た目には何も変わらない。
それでも理人には,何となく分かった。
クウが今まで「嫌なものを入れないだけ」と呼んでいた力は,それだけのものではない。
外と内を分ける。
何かが境目を越えることへ,干渉する。
まだ,それだけだ。
けれど料理をする人間にとって,外から受ける影響を減らせるというのは,思っていた以上に大きな意味を持つかもしれない。
そして,理人はまだ知らなかった。
境目を作れるということが,何かを外から守るだけではなく,内側にあるものをどう扱うかにもつながっていくことを。




