第24話 狐の仕事
結局その夜,クウは理人の部屋には来なかった。
ぽんたが「俺たちの部屋でもいいぞ」と何度か誘ったものの,クウは人間と狸が一緒に寝ている部屋へ入るより,厨房の裏にある小さな物置の方が落ち着くと言った。そこには予備の布や空の籠,しばらく使っていない木箱などが置かれているだけで,マルタが床へ古い毛布を一枚敷くと,クウはそれで十分だと頷いた。
翌朝,理人が厨房へ下りたときには,クウはすでに物置から出ていた。
裏口のそばに座り,まだ人の少ない厨房を静かに眺めている。昨日まで森で暮らしていた狐が宿の中にいる光景には多少の違和感があるものの,本人は騒ぐわけでもなく,むしろぽんたよりずっと馴染んで見えた。
「眠れました?」
「うん。森よりずっと楽だったよ」
クウはそう答え,耳を少し動かした。
「ここにも昨日の魔力は少し残ってるけど,夜の間にかなり薄くなったみたい」
「自分もほとんど感じません」
理人も舌の奥へ意識を向けてみる。
何もない,とは言い切れない。それでも昨日の昼間に町全体へ広がった苦味と比べれば,意識してようやく気づく程度だった。
「クウ,昨日の夜もあれやってたんですか?」
「あれ?」
「嫌な魔力を入れないようにするやつ」
「少しだけだよ。寝ると弱くなるから,ずっと同じではないと思うけど」
「疲れてない?」
「昨日よりは平気かな」
声にも無理をしている様子はない。
それならいい。
理人が朝食の準備を手伝おうとしたところで,食堂からぽんたが駆け込んできた。
「クウ!」
「朝から大きい声だね」
「昨日どこで寝た?」
「そこの物置だよ」
「なんで俺たちの部屋来なかったんだよ」
「どうして行くと思ったの?」
「広いぞ」
「あなたがいるでしょ」
「俺がいたら駄目なのかよ!」
ぽんたの尻尾が大きく膨らむ。
クウはそれを一度見てから,何でもないように顔をそらした。
「狭くなりそうだから」
「リヒト! こいつ今俺のこと太いって言った!」
「言ってないだろ」
「同じだ!」
朝から元気である。
そのやり取りを聞いていたマルタが,大きな鍋の蓋を開けながら笑った。
「元気ならちょうどいいね。クウ,昨日は休ませたけど,今日からどうする?」
クウがマルタを見る。
「どうするって?」
「ここにいる間,寝床と飯は出すよ。でも,動けるなら少し働いてもらう」
「うん。そのつもりだよ」
クウは迷わず答えた。
「何をすればいい?」
「それを今考えてるんだよ」
マルタは腕を組み,灰銀色の狐を上から下まで眺める。
鍋や箱になれるぽんたなら,道具として厨房の仕事を手伝わせる方法はいくらでもある。だが,クウは見たところ普通の狐に近く,しかも本人が説明できる能力は「嫌な魔力を近づけない」ことだけだった。
「皿は運べないね」
「くわえれば運べるよ」
「客に出す皿を口で運ぶのはやめとこうか」
「そうだね」
クウも特に傷つく様子はなく,素直に納得した。
「俺は箱になれるぞ」
ぽんたが胸を張る。
「今クウの仕事を考えてるんだけど」
「知ってる。俺の方が便利って話」
「してないよ」
クウの返事が早い。
マルタは二匹を見比べ,少し考えてから厨房の奥へ向かった。
「じゃあ,まずこれを見てもらおうか」
戻ってきた手には,何種類かの香草が束になっている。
どれも理人には似たような葉に見えるが,近づけば香りはかなり違う。一部は肉を焼くときに使い,一部は煮込みに入れ,傷み始めたものは香りが落ちるため早めに使うのだという。
「昨日,香草の匂いを気にしてただろ?」
マルタが尋ねると,クウの耳が少し前へ向いた。
「うん。好きだよ」
「鼻もいい?」
「ぽんたよりは」
「なんで俺と比べるんだよ!」
「そこにいたから」
クウはそう言ってから,マルタの前へ歩いていった。
床に並べられた香草を一束ずつ嗅いでいく。理人にはまだ十分使えそうに見えるものでも,クウは途中で一つだけ別にした。
「これは少し変だよ」
「どこが?」
「他のより匂いが重いの。下の方」
マルタが束をほどく。
中から出てきた葉の一部が,わずかに黒ずんでいた。
「なるほどね」
マルタは感心したように頷いた。
「これなら使える」
「食べる仕事?」
ぽんたが尋ねる。
「嗅ぐ仕事だよ」
「俺もできる!」
「じゃあこっちを嗅いでみな」
マルタが別の束を差し出す。
ぽんたは勢いよく鼻を近づけ,何度か匂いを嗅いだ。
「葉っぱ」
「それは見れば分かるよ」
「草っぽい」
「それも見れば分かるね」
「……クウ」
「何?」
「どれが変?」
「自分でやりなよ」
「けち」
クウは小さく息を吐いたものの,口元は少し笑っていた。
◇
午前中,クウはマルタの近くで香草や保存食の確認を手伝った。
匂いの変化にはかなり敏感らしく,干したキノコの中から湿気を吸ったものを見つけたり,脂の保存瓶を嗅いで「これは先に使った方がいい」と言ったりする。
もっとも,何でも分かるわけではない。
「こっちは?」
マルタが塩漬け肉を差し出す。
「分からないかな」
「鼻で?」
「塩の匂いが強すぎるよ」
「じゃあこれは?」
「それはおいしそう」
「感想になってるね」
クウが少しだけ耳を伏せる。
理人は涙玉を刻みながら,その様子を見ていた。
クウはできないことを誤魔化さない。
分かるときは分かると言い,分からないときはすぐにそう答える。理人としては非常に話しやすい。
その点は自分と少し似ているかもしれない。
「リヒト,手止まってるよ」
クウがこちらを見る。
「あ,本当だ」
「考え事?」
「少し」
「料理してるときは料理見た方がいいと思うよ」
「最近みんなに言われるな……」
「俺も言った!」
ぽんたが,野菜を入れた低い箱の姿のまま声を上げる。
「お前の場合は自分もよそ見するだろ」
「箱に目はねえよ!」
「じゃあよそ見できないな」
「そういう意味じゃねえ!」
厨房へ笑い声が広がる。
クウはまだ客の多い食堂へ出ることには抵抗があるらしく,仕事は厨房の中だけだった。それでも,昨日まで町へ入ることすら避けていたことを考えれば,大きな変化ではある。
無理に慣れさせる必要もない。
本人が嫌なら裏にいればいい。
理人は刻み終えた涙玉を木皿へ移し,次の仕込みへ取りかかった。
◇
昼の忙しい時間が終わる頃,市場から森鹿の肉が届いた。
森の異変で狩りへ入る者が減っているため量は少ないが,以前に仕入れた分と合わせれば,夕食に使うには十分らしい。
マルタが肉を確認しながら,一部を指さした。
「これは夜に使う。リヒト,涼しいところに置いといて」
「はい」
この宿には氷を使った冷蔵庫などない。肉はなるべく涼しい場所に置き,必要なら塩や乾燥,火入れで保存する。
理人の場合,《熱交換》を使えば少し冷やすこともできるが,毎日の保存すべてを能力頼みにするつもりはなかった。集中力も使うし,そもそも自分がいなければ成立しない方法では,宿の普通の仕事にならない。
肉を二つの木皿へ分け,一つを厨房奥の涼しい棚へ置く。
もう一つは,マルタがすぐ使うつもりだったらしく,作業台の端へ残された。
「それ,邪魔かな」
クウが言った。
ちょうど作業台の横に座っていたクウの近くへ,肉の皿が置かれている。
「少しだけ。別のところへ移します」
「私は平気だよ」
「じゃあ後で」
そのまま別の仕事へ移った。
ぽんたが水を運び,クウが残った香草を選び,理人は鍋の片づけを手伝う。
夕食の準備が始まる頃には,理人自身も肉のことをすっかり忘れていた。
「リヒト,そっちの肉取って」
マルタに言われ,作業台の端に置いてあった木皿を持ち上げる。
そのときだった。
「……冷たい?」
理人は思わず手を止めた。
「どうした?」
「いや……」
肉へ触れる。
冷たい。
冷蔵庫から出した直後のような冷たさではないし,もちろん凍ってもいない。ただ,昼から暖かい厨房に置かれていた肉としては,思っていたより温度が上がっていない。
「《熱交換》使った?」
ぽんたが聞く。
「使ってない」
「じゃあ最初から冷たかったんじゃねえの?」
「そうだったかな」
市場から届いたときに触っている。
確かに冷えてはいた。
けれど,何時間も火を使っている厨房の中へ置けば,もう少し温まっていてもおかしくない。
理人は奥の棚へ置いたもう一枚の皿を取りに行った。
こちらも冷えている。
ただ。
「……こっちより冷たい気がする」
作業台へ置かれていた方が,わずかに冷たい。
「気がする?」
クウが首を傾げる。
「温度計がないので」
「オン……?」
「気にしないでください」
理人は左右の手を別々の肉へ当て,比べてみた。
やはり,クウの近くへ置いてあった方が冷たい気がする。
「マルタさん,触ってみてもらえます?」
「肉を?」
「はい。どっちが冷たいですか」
事情を説明せず,両方を差し出す。
マルタは不思議そうな顔をしながら,順番に手を当てた。
「こっちだね」
指したのは,クウのそばにあった方だった。
「ですよね」
「何したんだい?」
「何もしてないです」
「また変なこと見つけた顔してるよ」
「そんな顔あります?」
「あるね」
マルタが断言する。
理人は木皿を見る。
置いていた場所が少し違った。
皿の厚さに差があった。
肉自体の大きさも完全には同じではない。
これだけでは,何も言えない。
「クウ」
「何?」
「昼から,いつもの力使ってました?」
「嫌な魔力を入れないようにするやつ?」
「はい」
「少しだけ。ここにもまだ残ってるから」
クウは何でもないことのように答える。
「でも,昨日みたいに広くはしてないよ。私の近くだけ」
理人は木皿を見る。
その肉が置かれていた場所は,確かにクウのすぐ横だった。
「リヒト?」
「……いや」
まだ早い。
森の魔力を入れにくくする力と,肉の温度が上がりにくかったことが関係しているとは限らない。
たまたまかもしれない。
むしろ今の段階なら,その可能性の方を先に疑うべきだ。
「明日,ちょっと試してもいいですか」
「何を?」
「水を二つ置くだけです」
「私の近くに?」
「一つだけ」
クウは少し考えたあと,頷いた。
「別にいいよ。何が気になるの?」
「今はまだ分かりません」
「またそれ?」
ぽんたが笑う。
「分からないから試すんだよ」
「昨日も言ってたな」
「そういうものだから」
理人は肉をマルタへ渡した。
今日はここまででいい。
もし偶然なら,それで終わる。
もし違うなら,何が起きているのかをもう少し確かめればいい。
厨房では再び鍋の音が響き,焼いた肉と香草の匂いが広がり始めている。
その横で,クウは何がそんなに気になるのか分からないという顔をしていた。
本人にとっては,森の嫌な魔力を遠ざけるためにいつも使ってきた力でしかない。
理人も,まだそれ以上のものだとは言えなかった。
ただ。
クウの近くに置かれていた肉だけが,少し冷たかった。
今のところ分かっているのは,それだけだった。




