第23話 もう一度,森が動く
森側の出入口に立札が置かれてから二日目の朝,アルカは少しだけ平常へ戻り始めていた。
森へ入る者はまだ少なく,猟師や冒険者も浅い場所の見回りを優先している。それでも,火爪熊が町へ飛び込んできた直後のような張り詰めた空気はなく,煮込み鹿亭にも朝から何人かの客が入り,食堂にはパンをちぎる音と湯気の立つ煮込みの匂いが戻っていた。
「肉,減ってない?」
ぽんたが自分の皿を見ながら言った。
「昨日と同じくらいだよ」
厨房からマルタが答える。
「昨日より小さい」
「昨日が大きかったんだ」
「じゃあ今日も大きくして」
「働き次第だね」
ぽんたは少し考えたあと,皿に残っていた野菜まで急いで食べ始めた。食事の量と仕事が直接つながっていると分かってから,宿での動きは目に見えて良くなっている。
理人は向かいでパンを食べながら,その様子を眺めていた。
「今日は何やる?」
ぽんたが口の中のものを飲み込み,理人へ尋ねる。
「俺に聞くなよ。マルタさんに聞け」
「リヒトの仕事手伝えば肉増える?」
「知らない」
「じゃあマルタに聞く」
「最初からそうして」
立ち上がって厨房へ向かうぽんたの尻尾を目で追いながら,理人は窓の外へ視線を移した。
空は晴れている。
風も弱い。
町の中にいる限り,舌の奥へ残る嫌な苦味もない。
昨日の夕方,ガルドたちは森の奥に見つかった崩落地点へ近づかないことを決め,周辺一帯を当面の立入区域から外した。原因を確かめに行くのではなく,まず異変が弱まるかを見る。
理人としても異論はない。
森の奥で地面が崩れ,地下の魔力の流れが乱れた。
そこから余分な魔力が漏れている。
今のところ,その説明が最も自然に見える。
ただし,説明できることと,止められることは別だった。
「難しい顔してるね」
皿を下げに来たマルタが言った。
「そうですか?」
「森のこと考えてる顔だよ」
「顔で分かるようになってません?」
「最近ずっと同じ顔してるからね」
理人は少し笑い,空になった皿を渡した。
「今は待つしかないですよね」
「なら待ちな。鍋は待ってくれないけど」
「手伝います」
「そっちは助かるよ」
森の異変がどうなろうと,昼になれば客は来る。
少なくとも今は,それでよかった。
◇
昼前には,ぽんたは木箱へ変化して保存用の根菜を運び,理人は厨房で涙玉を刻んでいた。
最近,ぽんたは形を大きくすることばかり考えなくなった。運ぶものの重さや,置く場所に合わせて形を変えた方が疲れにくいと分かってきたらしく,今日の箱も無理に広げず,底を少し厚くしている。
「どう?」
根菜を下ろし終え,元の姿へ戻ったぽんたが胸を張る。
「前より安定してた」
「だろ」
「尻尾出す必要はないと思うけど」
「いる」
「何に?」
「俺だって分かる」
「箱の時点で分かるよ」
言い合っていると,裏口の外から低い音がした。
最初は,荷車でも石を踏んだのかと思った。
けれど音は一度で終わらず,地面の下を遠く何かが転がっていくように,かすかな震えが足元へ伝わってくる。
棚の上の木皿が触れ合い,小さく鳴った。
ぽんたの耳が立つ。
「今の何?」
「地震……?」
理人がそう口にした直後,舌の奥へ突然,苦味が広がった。
「……っ」
反射的に手を止める。
森の中で感じたものより遠い。
けれど,町の中で感じるには強すぎる。
「リヒト?」
「苦い」
ぽんたの表情が変わった。
理人は窓の方を見る。
森は建物に隠れて見えない。
それでも,どちらから来ているのかを考える必要はなかった。
外から,警鐘が鳴った。
一度。
二度。
短く間を空けて,さらに続く。
火爪熊が町へ出た日とは,鳴らし方が違う。
「マルタさん」
「聞こえてるよ」
厨房の奥から出てきたマルタの表情にも,さっきまでの余裕はなかった。
バルドはすでに表へ向かっている。
「ぽんた,今日は勝手に出るなよ」
「でも――」
「外の様子はほかの人に任せる。何か運ぶなら頼むから」
理人がそう言うと,ぽんたは不満そうに口を閉じた。
以前なら飛び出していたかもしれない。
けれど今は,その場で耳を動かしながら待っている。
ほどなくして,バルドが戻ってきた。
「森側で魔獣が動いてる。見張りが何頭も出てくるのを見たらしい」
「大物ですか?」
「まだ分からん。ただ,一匹じゃない」
理人はガルドの言葉を思い出した。
食う側も,食われる側も,同じ方向へ動いていた。
「また流れ出した?」
ぽんたが小さく言う。
「かもしれない」
理人は答えた。
だが,前回より急だった。
◇
宿の前へ出ると,町の空気はすでに変わっていた。
走っている者は少ない。代わりに,店先の荷物を中へ入れる者や,森側の道から離れるよう声をかける者が動いている。
火爪熊のときの経験があるからだろう。
突然の警鐘に驚いてはいても,町全体が混乱しているわけではなかった。
「リヒト!」
通りの向こうからミレナが走ってきた。
革鎧を着け,腰には剣を下げている。
「森側に行くんですか?」
「うん。でもあなたは来ないで」
「そのつもりです」
「知ってた」
ミレナは息を整えながら,宿の前で足を止めた。
「今のところ,小さいのが多い。森鹿と角兎,それから小型の魔獣が何種類か。一斉に外へ出てる」
「襲ってきてる?」
「逃げてる感じ。人間なんて見てない」
それなら,前と同じだ。
「大型は?」
「まだ。でも出てくるかもしれないって」
ミレナはそう言うと,再び森側へ向かおうとする。
「ガルドさんは?」
「もう向こう。道を塞がないように逃がす方向決めてる」
「分かりました」
「本当に来ないでね」
「行きませんって」
「この前,熊の前まで来た人が言ってもね」
「水運んでただけです」
「そのあと氷作ったでしょ」
そこまで言って,ミレナは笑う。
「まあ,今回は宿にいて」
「はい」
理人が頷くと,彼女は今度こそ走っていった。
「リヒト」
後ろからぽんたの声がする。
振り返ると,宿の扉から半分だけ顔を出している。
「来るなって言っただろ」
「来てない。外見てるだけ」
「ぎりぎりだな」
「ガルドみたいなこと言うなよ」
そのとき,道の向こうから白いものが走ってきた。
犬にも見えた。
けれど近づくにつれ,白に近い灰銀色の毛並みと,大きな尾が見える。
「クウ?」
理人が思わず声を上げる。
クウは普段なら町の外で止まる。
今日は違った。
迷うことなく建物の間へ入り,理人のところまで走ってきた。
「リヒト」
息が少し荒い。
「どうしたんです?」
「来るよ」
「何が?」
「奥から魔力が一気に増えたの。今までと違うよ」
クウは一度森側を振り返る。
耳は伏せられ,普段の落ち着いた表情にも緊張が見えた。
「地面,揺れました?」
「揺れたよ。そのあと,急に」
やはり。
地下の崩れが広がったのか。
それとも別の場所まで割れたのか。
原因は分からない。
しかし,魔力の流出が増えた可能性は高い。
「クウ,大丈夫?」
ぽんたが宿から出てくる。
「近くへ来るなって言われたんだけど」
クウは少しだけ笑う。
「今日は私から来たからいいよ」
「疲れてる?」
「少しね」
理人も気づいた。
クウの周囲では,確かに苦味が弱い。
ただ,前に森で感じたほどきれいには消えていなかった。
「能力,無理してません?」
「何もしないと,もっと嫌だから」
「町の中なら森より薄いですよね」
「うん。でも今日は,ここまで来てもあるよ」
理人にも分かる。
普段なら何も感じない宿の前で,今ははっきり苦い。
「中に入りましょう」
「宿?」
「森側よりは安全です」
クウは少し迷う。
「でも,人がいるよ」
「嫌なら裏口から入れます」
「……それなら」
ぽんたがすぐに尻尾を振った。
「俺の部屋あるぞ」
「お前の部屋じゃなくて俺の部屋だよ」
「一緒だろ」
「違う」
クウが二人を見て,少しだけ表情を緩める。
緊張したままよりはいい。
◇
クウを宿の裏手へ入れたところで,再び警鐘が鳴った。
今度は長い。
バルドが表から声を上げる。
「森側の通りを空ける! 怪我人が来るかもしれん!」
マルタはすぐに食堂の長机を壁際へ寄せ始めた。
「リヒト,水を出しておくれ。ぽんた,その箱になれるかい?」
「どの箱?」
「毛布を入れるやつ。丈夫なやつだよ」
「できる!」
ぽんたが姿を変え,低く厚みのある箱になる。
以前より変化が速い。
理人は井戸水を桶へ汲み,食堂の端へ並べる。クウは裏口のそばで静かに座っていたが,時折森側へ耳を向けていた。
「もっと来る」
不意にクウが言った。
「分かるんですか?」
「魔力が押してくる感じが強くなってるよ」
理人も意識を向ける。
苦い。
しかも,先ほどより濃い。
「クウ,無理に遠ざけなくていいですよ」
「無理にはしてないよ」
「本当に?」
「……少しだけ」
理人が見ると,クウは視線を逸らした。
「少しなら,今はやめてください」
「でも,あなたたちも嫌なんでしょ?」
「俺は感じるだけです」
「ぽんたは?」
「俺,分かんねえ」
「じゃあ私だけ?」
「たぶん」
クウは納得していない様子だった。
森の魔力がクウにとってどれほど不快なのか,理人には分からない。
ただ,疲れている状態で無理をさせる理由もない。
「今は逃げてきていいんですよ」
「……逃げてるつもりはないよ」
「じゃあ避難」
「同じじゃない?」
「言い方は大事です」
クウはしばらく理人を見たあと,小さく息を吐いた。
「言い方を気にするんだね」
そう言いながら,クウの周囲の空気が少し変わった。
理人には見えない。
ただ,舌の奥へ感じていた苦味が,わずかに強くなる。
「弱めました?」
「少しだけね」
「それでいいです」
理人が頷くと,クウは床へ身体を伏せた。
初めて入る人間の建物なのに,今は警戒する余裕もないのかもしれない。
そのとき,外から大きな音がした。
何かが倒れたような音ではない。
何十もの足音が,石畳を叩いている。
「来た!」
バルドの声。
理人は表へ飛び出しかけて止まり,扉の内側から外を見る。
森側の通りを,森鹿の群れが走り抜けていく。
一頭や二頭ではない。
十頭以上いる。
角兎や,理人の知らない小型の魔獣まで混じっていた。
どれも町の建物を襲う様子はなく,ただ前だけを見て走っている。
兵や猟師たちは道の両側へ人を下げ,なるべく町の外周へ抜けるよう誘導していた。
「すごい……」
理人の横から,ぽんたが元の姿へ戻って覗く。
「森でこんなの見たことある?」
「ない」
珍しく即答だった。
「みんな,めちゃくちゃだ」
群れの中では,本来なら互いを警戒するはずの魔獣まで同じ方向へ走っている。
前回より,はっきりしていた。
逃げている。
何かからではない。
場所そのものから。
「リヒト」
クウの声がした。
振り返る。
伏せていたクウが,立ち上がっていた。
「まだ来るよ」
「魔獣が?」
「違う」
クウは森を見ていない。
何かを感じ取るように,耳を立てたままじっとしている。
「魔力の方」
次の瞬間,理人の舌の奥へ強い苦味が広がった。
「っ……」
今までで一番濃い。
火爪熊のように,一つの存在が近づいた感覚ではない。
周囲全体が,急に濃くなった。
クウの毛が逆立つ。
「クウ?」
「来た」
彼女が小さく言った。
そして,空気が変わった。
理人にはそうとしか表現できなかった。
目に見える壁ができたわけではない。
音もない。
けれど,さっきまで舌へまとわりついていた苦味が,一瞬だけ遠のいた。
「……何したんです?」
「近くに入れないようにしただけ」
クウの声が少し硬い。
「範囲,広げてません?」
前に森で確認したときより明らかに広い。
理人だけではない。
ぽんたも,マルタも,バルドも,少なくとも宿の裏手にいる者たちまで含むように,クウが力を広げている。
「クウ,やめて」
「少しくらいならできるよ」
「疲れてるでしょう」
「でも,今のは嫌だったから」
「自分だけならもっと小さくていいですよね」
クウは黙った。
それで答えは十分だった。
「俺たちの分までやってる?」
「……ついでだよ」
「ついでで無理しないでください」
「無理は――」
言いかけて,クウの足がわずかに揺れた。
理人は反射的にしゃがむ。
触ろうとして,途中で手を止めた。
クウは理人の動きを見ていた。
「大丈夫?」
「少し疲れただけだよ」
「なら小さくしてください」
「でも」
「魔力で直接具合が悪くなるのはクウだけでしょう。俺たちは大丈夫です」
クウはしばらく何も言わなかった。
やがて,理人の舌へ苦味が戻ってくる。
範囲を縮めたらしい。
「これでいい?」
「はい」
「……あなた,ほんとに使わないんだね」
「何を?」
「私の力」
理人は少し考える。
「必要なときに,クウがやるって言うなら頼るかもしれません。でも,今は必要ないです」
「そう」
クウはそれだけ言い,また伏せた。
ぽんたが隣へ座る。
「俺も何かできる?」
「今はここにいればいいよ」
クウが答える。
「お前が言うのかよ」
「だって,あなた勝手に外へ行きそうだから」
「行かねえよ!」
「本当?」
「……今日は」
「今日は,なんだ」
理人が言うと,ぽんたは耳を伏せた。
少しだけ,いつもの空気が戻った。
◇
魔獣の群れが通り過ぎてから,半刻ほどすると警鐘は止んだ。
大型の魔獣も数頭確認されたらしいが,どれも町へ向かって襲いかかる様子はなく,人の少ない外周へ抜けていったという。
幸い,大きな怪我人もいなかった。
夕方になって戻ってきたガルドは,煮込み鹿亭の椅子へ座るなり,長く息を吐いた。
「ひどかった」
「森側ですか?」
「ああ。奥から次々出てきた。火爪熊ほどでかいのはいなかったが,中型まで混じってた」
理人は水を渡す。
「地面の揺れは?」
「森でもあったらしい。崩れた場所の近くまでは行ってないが,別の沢が濁ったって報告も出てる」
「崩れが広がった?」
「その可能性はあるな」
ガルドは水を一口飲み,クウを見る。
クウは食堂の一番奥,人通りの少ない壁際に座っていた。
町の中へ入るのは初めてだったが,今のところ外へ出ようとはしていない。
「クウは?」
「森より町の方が楽みたいです」
「今日は戻さない方がいい」
ガルドの言葉に,理人も頷いた。
「自分もそう思います」
クウが顔を上げる。
「私,ここにいていいの?」
「マルタさん次第ですけど」
「飯代働けるならね」
厨房から即答が飛んできた。
ぽんたが勢いよく顔を上げる。
「俺と同じ!」
「あなたと一緒にしないで」
「なんでだよ!」
「クウ,何ができる?」
マルタが聞く。
クウは少し考えた。
「……嫌な魔力を遠ざける?」
「宿じゃあまり使い道ないね」
「そうだよね」
「じゃあ明日考えよう。今日は休みな」
あまりにあっさりした返事に,クウが目を瞬かせる。
「働かなくていいの?」
「今日くらいはね。疲れてるんだろ」
「……うん」
クウは小さく頷いた。
理人はその様子を見ながら,今日の出来事を頭の中で整理する。
地面が揺れた。
その直後,森全体の魔力が急激に強くなった。
そして,複数の種類の魔獣が一斉に外へ逃げた。
ここまでの仮説は,かなり確からしくなった。
森の奥で,一時的な魔力の異常流出が起きている。
地下の崩れによって魔力の流れが乱れ,時折,まとまった量が地表へ漏れ出している。
ただし。
今日の流出は,これまでより強かった。
「ガルドさん」
「何だ」
「これが最大だったと思います?」
ガルドは少し黙った。
「分からん」
「ですよね」
「ただ,次があると思って動いた方がいい」
「はい」
理人も同意だった。
原因らしいものは見えた。
けれど,終わったわけではない。
むしろ今日,地下から漏れ出す魔力が一度に増えることがあると分かった。
理人は壁際のクウを見る。
いつの間にか目を閉じている。
その周囲だけ,舌の奥へ残る苦味がほんの少し薄い。
今日,クウは自分一匹が楽になるためではなく,理人たちまで含めるように力を広げた。
本人は「ついで」と言った。
たぶん,違う。
ただ,今はそれを指摘する必要もない。
「リヒト」
隣から,ぽんたが小さな声で呼ぶ。
「何?」
「クウ,今日どこで寝る?」
「……それ,俺に聞く?」
「俺の部屋でもいいぞ」
「だから俺の部屋だって」
「二匹くらいいけるだろ」
理人は少し考え,壁際で眠りかけている灰銀色の狐を見る。
クウが決めることだ。
森へ戻りたいなら止める理由はない。
ただ,少なくとも今夜くらいは,森よりここにいた方がいい。
「起きてから聞こう」
「分かった」
ぽんたは素直に頷いた。
そして数秒後,
「肉増えるかな」
「何で?」
「クウ来た記念」
「増えないと思う」
「聞くだけ聞いてくる」
ぽんたは厨房へ走っていった。
理人はその背中を見送り,小さく笑う。
外では,森から逃げてきた魔獣への対応がまだ続いている。
地下の異変も解決していない。
それでも宿の中には煮込みの匂いがあり,ぽんたは肉の量を気にし,クウは壁際で眠り始めている。
森はもう一度,大きく動いた。
次があるかもしれない。
だからこそ今夜は,できるだけ普通に休んだ方がいい。
理人はそう考えながら,厨房から聞こえてくる「記念でも肉は増えないよ」というマルタの声を聞いていた。




