九話 ――別れの儀式――
葬儀は簡素なものだった。
棺の質も、霊柩馬車も、死人を偲ぶ黒の垂れ幕ですら、最低級である第九級程度の庶民的な範囲に留められていた。
ヴォルテーヌ家が支払った莫大な金額にそぐわないその惨めな扱いは、そのまま教会の悪意の表れだった。
遺体の確実な死を証明するため、医師が棺の中の母親に触れる。
まるで今にも艶然と瞳を開きそうな、精巧な蝋人形のような美しさに、初老の医師は固唾をのんだ。
首から上がいかに美しくとも、その胸には無骨な木の杭が深く刺さっているのだ。
脈をとる必要すら無さそうなものなのに、医師はいやに長く時間をかけ、怯えを隠すようにして死亡を確定した。
「……ヴォルテーヌ様。心から、お悔やみ申し上げる」
初老の医師は、手袋を嵌めた手で額の脂汗を拭いながら、ユアンへ形式的な一礼を捧げた。
その声音には、遺族への同情よりも、三日経っても腐敗の兆候をまるで見せない美貌の死体に対する、生物学的な恐怖が滲んでいる。
「あのような凄惨な最期だ。主の御許へ召された奥様の魂が、今度こそ静かな安息を得られるよう、祈るばかりです」
安息、という言葉が、ユアンの耳にはひどく歪に響いた。
胸に杭を打たれて無理やり眠らされた母親の姿は、どう見ても神の慈悲によって救われたようには見えなかったからだ。
「……ありがとうございます」
ユアンは光沢のない黒の喪服の袖を握り締め、低く応じた。
その時、医師の背後から、激しく焚かれた乳香の煙が押し寄せてきた。
胸が焼けるような、ねっとりとした濃厚な匂いがユアンの鼻腔を満たした瞬間、胃の腑がひっくり返るほどの強烈な吐き気が襲った。
激しい眩暈に世界が傾く。
「坊っちゃん、大丈夫ですか?……だれか! 椅子をお持ちして!」
崩れかけそうになったユアンの身体を、鋭い俊敏さで支えたのは、同じく黒い喪衣に身を包んだバルバラだった。
「少し座りましょう」
バルバラは至極自然な仕草でユアンを風上へと誘導し、手渡したシルクのハンカチで彼の口元を覆わせた。
「ほんの少しの我慢ですよ。残念ながら、教会はまともに葬儀をする気はないようですから」
耳元で囁くバルバラの声はいつも通り穏やかだったが、ユアンの肩に触れる彼女の手はひやりと凍えており、よく見ればその爪は不吉な紫色を帯びていた。
「貴方にはいつも世話をかける、バルバラ」
黒いベール越しに、バルバラが柔らかに微笑んだ。だが、その笑みさえも、ユアンが吸血鬼として何も行動を起こさなければ、そう遠くないうちに失われてしまうのだ。
結局、この葬儀にはロジェとギャスパルが欠席した。
ロジェは未だに凄惨な貧血から立ち直れず、料理人のギャスパルにいたっては、すでに殆ど寝たきりの状態だという。
教会のステンドグラスは、リリ・ヴォルテーヌのイニシャルが銀刺繍された黒い垂れ幕で無残に覆い隠されていた。
数人の聖歌隊が、感情の籠もらない鎮魂歌を冷淡に歌い上げる。
教会と折り合いの悪いヴォルテーヌ家に充てがわれたのは、数年すれば無縁仏として掘り起こされるような、街外れの荒涼とした粗末な土葬墓地だった。
衣服が泥で汚れるのも構わず、墓守りが機械的な動作でスコップを動かす。
棺が深い泥の穴に沈められ、乾いた土がパラパラと掛けられていく。
土のなかに消えていくリリ・ヴォルテーヌを見つめる瞳は屋敷の者を除けば憎悪と警戒に満ちていた。
遠巻きに葬儀を監視する、国家憲兵隊の険しい眼差し。
参列者などいない無人の墓地で、彼らの制服だけが異質に浮いていた。
街の者たちはそれだけで、リリの死がただの病死ではないと察し、コミュニティに血の汚れを持ち込んだヴォルテーヌ家へ、静かな憎悪の目を向ける。
その光景を眺めながら、ユアンの胸には、ようやく寂しさに似た暗い感情が湧き上がっていた。
自分を産み、そして世界で唯一の、同じ血を分けた同胞を亡くしたのだ。
吸血鬼としての生き方も、死に方も分からぬまま、自分は遺されてしまった。
人間の社会からは爪弾きにされ、守るべき屋敷の中には、それぞれの思惑を交錯させる不穏な使用人たちがいる。
あまりの頼りなさに、ふらりと墓穴の前へ足を踏み出したユアンを、バルバラの手がそっと押し留めた。
見上げる空には、じっとりと重い黒雲が近づいてきている。
首筋を隠す長い髪は切り去ってしまった。
剥き出しの項に刺さる視線が、ユアンをより不安に陥れるようだ。
どうしても、嫌な予感は拭えなかった。
***
翌朝、ユアンの意識を覚醒させたのは、従順な侍従のノックでも、冷淡な女中のトワレの用意でも無かった。
――屋敷の裂け目から響くような、甲高い悲鳴。
鼓膜を突き刺すようなその狂乱の声は、おそらくポーレットのものだった。
ユアンは気だるく熱を帯びた身体をベッドから起こし、夜着のまま居室を飛び出した。
まだ夜の残穢がべっとりと残る、薄暗い時間。
廊下は暗闇に包まれていたが、不思議とオイルランタンを持つ必要は感じなかった。
人間の頃にはただの闇だった空間が、今のユアンの目には、恐ろしいほど鮮明に見通せていた。
ドタバタという複数の足音と、押し殺した啜り泣き。その気配は、三階から聞こえていた。
使用人たちの部屋が集まる、普段は静かな最上階だ。
嵐の予兆か、廊下の格子窓がガタガタと激しく震え、打ち付ける雨のせいでガラスの向こうの景色が歪んで見える。
三階に上がると、使用人たちが夜着のままで固まり、一つの部屋の前に立ち尽くしていた。
ポーレットが壁に背を預けて顔を覆い、ガタガタと歯を鳴らしている。
ジャックが、手にしたランタンの灯りでぼんやりと廊下を照らし出していた。
「何があった」
ユアンの声に応じるように、使用人たちが一斉に振り返る。
彼らは誰一人として言葉を発さず、ただ一様に青白い顔をして、その瞳に底知れない絶望を揺らしていた。
膝をついて祈るように項垂れるジャックの横を通り抜け、ユアンは開け放たれたドアの部屋を覗き込んだ。
「……っ」
そこにあったのは、凄惨という言葉すら生ぬるい「一面の赤」だった。
壁も、床も、激しく揺れる窓ガラスですらも、まるで刷毛でぶちまけたかのように隙間なく真っ赤な血に染まっている。
死者を弔う乳香の香りで誤魔化されていたあの鉄錆の匂いが、数倍の濃度になってユアンの嗅覚を殴りつけた。
ベッドの上に横たわっていたのは、首から上が完全に消失した老人の胴体だった。
パジャマの胸元はドロドロの赤黒い沼と化している。そしてそのベッドの脇に、力なく腰を下ろしているのは、庭師のステファンだった。
ステファンは虚ろな目で宙を見つめたまま、自身の首の半分に、植物の茎を断ち切るための大きな鎌の刃を深く食い込ませていた。
自らの手で、自らの首を刈り取ろうとしたのだ。その手の指先は、すでに死後硬直のように白く固まっている。
現実離れした凄惨な光景に、ユアンは言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
窓の外で、激しい雨が硝子を叩きつける。
――ドォン!! と鼓膜を震わせる轟音とともに、紫白い稲妻が夜明け前の空を裂いた。
雷光が室内を白日の下に晒した瞬間、ユアンの足元に、丸い影が転がってきた。
扉にぶつかって止まったかのような、その球体。
床の血溜まりを派手に吸い込んだ白髪の塊。それは、茫洋とした死の瞳で、じっと天井を眺めている料理人ギャスパルの頭部だった。




