八話 ――掃き溜めの鶴――
華やかな都市の裏側、薄汚れたスラムには、恵まれない家庭に美しい女の子が生まれたのなら、バレエを習わせるべきだという常識があった。
擦り切れて素足が覗くお古のトゥシューズ。
つぎはぎの服。罅割れたレンガの上で、少女たちは鉄屑を拾い、日銭を稼ぐ合間に、決まった演目を何度も練習する。
すべては数日おきに、上質な服を着た貴族たちに連れられ、あの眩い舞台に上がるためだ。
夕焼けのような赤毛、エメラルドを嵌め込んだような濃いグリーンアイ。
白い肌に散ったそばかすと長い手足を持つポーレットは、舞台の上の人気踊り子だった。
バレエは好きだった。過酷な現実を忘れ、懸命に生きる仲間たちと舞う時間だけは、自分の人生を生きている実感が持てたから。
劇場はお城か神殿のようだった。
普段なら近づくことも許されない上流階級の場所で、少女たちはその一晩だけ、薄く透けたチュチュを纏い、ショーケースの宝石のように輝くことを許される。
だが、過剰な光の中に集う観客たちは、互いの観察と社交に忙しかった。
足を壊すほど練習した少女たちの技巧に、関心を示す視線などほとんどない。天井画の天使たちが、哀れな少女たちを嘲笑うように見下ろしている。
やがて、虚しさは決定的な泥濘へと変わる。
舞台を終えた少女たちは薄い夜着に着替えさせられ、練習室に集められる。
そこへ、観覧を終えた富裕層の男たちがやってきて、好き放題に花を摘んでいくのだ。
少女たちは生き残るため、途端に目をギラつかせて女の顔をした。
金を持っていそうな男を嗅ぎ分けて媚を売る。
ポーレットはこの時間が反吐が出るほど嫌いだった。
男たちは決して責任を取らない。貧しく美しい消耗品として少女たちを楽しみ、消費し、捨てていく。
夢に溺れて心を病む者、出所のわからない薬で痩せ細る者。ポーレットはここで多くの友人を得て、そのほとんどを失った。
身体はとうに限界で、足はボロボロ。
幼い少女は次々と入ってきて、自分が舞台へ呼ばれなくなる日が近いことも分かっていた。
多くの仲間のように、自分も頬を染めて富裕層を手玉に取れば、このボロ屋を抜け出せるのかもしれない。
──分かっているのに、ポーレットにはそれができなかった。
彼女は媚を売る代わりに、ショーケースに並ぶ少女たちの手入れを始めた。黒子に徹し、自らの輝きをくすませる。
舞台を降りたポーレットが、髪結い師の道を歩みだしたのは至極自然な流れだった。
ちょうどその頃、貧困病と呼ばれた結核で母親と弟が死んだ。父親は顔も知らないその二人がポーレットの全てだった。
目が真っ赤に充血するほど泣き暮らし、涙が干上がってようやく立ち上がったポーレットは、スラムを捨て、踊り子時代の伝手を頼って街の髪結いサロンに勤め始めた。
そこにいた手に職を持つ女たちは、高い矜持を持っていた。
ポーレットは借り物の舞台ではなく、自分の技術で人生を歩みだした。
ようやく、世界が色づき始めていた。
──難攻不落の赤毛の踊り子が、市井で働いている。
そんな噂話につられた一人の貴族の男が、サロンにやってくるまでは。
「ごめんなさい、あなたのこと、守れなくて……」
どんな無理難題にも毅然としていたサロンの年長者が、目尻に涙を浮かべて頭を下げていた。
どうして自分を売るような真似を、と詰め寄るはずだった。
しかし、気丈だった彼女の涙を見た瞬間、ポーレットの胸中の怒りは冷たく燻り、「仕方ないですよ」とだけ答えていた。心の底から出た諦念だった。
ポーレットは専属契約という名目で、その男の屋敷に買い取られた。
女がどれほど技術を磨こうが、矜持を持とうが、この国では男の匙加減一つで、人生など簡単に狂わされてしまうのだ。
***
男たちが自慢の「玩具」を見せびらかすために開かれる夜のサロンに、その貴婦人はいた。
リリ・ヴォルテーヌ。
彼女はその場に集う傲慢な権力者たちを、まるで床を這う虫ケラのように冷徹な目で見下していた。
世界を統べるつもりで全能を語る男たちも、彼女の前に出れば、糸を切られた操り人形のように無様に膝をつくのだった。
その晩の夜会が終われば、ポーレットは自分を買い取った飼い主の褥に呼ばれることが決まっていた。
身売りなど、大したことではない。自分の心はその程度のことで折れはしない──そう強く言い聞かせていた。
だが、気がつけばポーレットは、人目を隠す重厚なベルベットカーテンの裏で、リリ・ヴォルテーヌのドレスの裾に必死に縋り付いていた。
「助けてください……! お願いします、お願いします……っ」
月光の届かない暗闇の中、リリの双眸がルビーのように妖しく赤く煌めいた。
全身の毛が逆立ち、人間としての生存本能がここから逃げろと激しく警鐘を鳴らす。
ポーレットはその恐怖の震えを、強靭な理性でねじ伏せた。
ここで逃げ出しても、待っているのは男たちに消費される地獄だ。同じ地獄を味わうのなら、美しい化け物に喰い殺された方がまだ救いがある。
「貴方のその髪型、とっても素敵ね。うちの女中たちは流行りの髪型ひとつ作れないのだけれど、貴方なら出来るかしら?」
きっと、酷い顔をしていただろう。涙と冷や汗に濡れて化粧は無残に剥げ、逆流した血で顔中が赤く熱を持っていたに違いない。
闇の中から、吸い込まれそうなほど美しい輪郭が降ってきた。頬と頬が妖艶に擦り合い、耳元で、ぴちゃりと濡れた唾液が糸を引く音が聞こえる。
──ぷつん。
首筋に小さな衝撃が走った。
直後、恐怖と怒りに茹だっていた熱いものが、スーッと急速に引いていくのを感じた。
あっという間に全身の硬直が解け、骨を抜かれたように崩れ落ちるポーレットの身体を、華奢なはずのリリが、片腕だけで軽々と抱き留めていた。
意思を失って緩んだポーレットの口元に、冷たくて、しかしあまりにも柔らかな赤い唇が密着する。
甘い痺れが脳を満たしていく中、ポーレットは生を乞う赤子のように、貪欲にその唇から溢れる聖なる血を吸い上げた。
そうしてポーレットは、ヴォルテーヌ家の揺り籠を守る、夜の眷属となったのだ。
***
ユアン・ヴォルテーヌは、ポーレットが見てきたどんな男とも違う。
彼は人の形をしているだけの人形だ。
まるで中身がない。主体性を持たず、自己が確立されていない。
鮮烈なリリ・ヴォルテーヌの血を引いているとは信じがたいとポーレットは思っている。
今もそう。
白い項をさらし、頸動脈にぴたりと鋏を当てても暗い瞳で何かを考え込んでいる。生物として生きる強さというものがまるでない。
リリ・ヴォルテーヌは死んでしまった。
あんなに強かった彼女が不本意に死ぬとは思えない。きっと自ら死を選んだに違いない。
リリと揃いの銀髪がさらさらと落ちていく。
長く伸ばされた髪は今の時代にそぐわない。外に出ても違和感のないように短くしてほしい
単純なオーダーだ。
鬘の時代を終え、ファッションはより身軽に、衛生を気にしたものに遷移した。
街を歩けば男達は皆短い髪を緩やかなカーブで後ろに流している。
ポーレットは慣れた動作で造形を整えていく。
揃えて切って、揃えて切って。
その刃先が耳の際を掠めたのは故意だった。
ぱちん、と閉じた鋏の刃先が新雪のような肌を切り裂いて、小さく血が弾ける。
ビクッと身体を揺らしたユアンに、ポーレットは素知らぬ顔で傷を撫で「あら、痛かったですか?……傷は、ないようですけれど」と宣った。
ユアンは「音に驚いた、すまない」と居住まいを正す。
ポーレットは櫛を持ち替えるふりをして、鋏の先をぺろりと舐めた。高濃度のアルコールのようなどろりとした甘みと、喉を焼くようなスロートヒットをもたらす。
咳払いをするポーレットにユアンは一度視線を寄越し、気まずそうに俯いた。
この弱虫は屋敷の主人になろうというのに、使用人であるポーレットのことを恐れている節がある。
切った髪を手で梳いて払い落とす。
コロンをまぶして、皮脂を落とし、香油で毛先を揉みながら整える。
横目で耳をみれば、傷は何にも無かったかのように新雪の状態へと戻っていた。
――化け物。
でも、こんな男は私の敵にすらならない。
利用してやる。
ポーレットにはまだやりたいことが山のようにある。
人生をようやく自分のものにしたのだから。




