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七話 ――変異する日常――




 

 屋敷は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。

 オイルランタンのチリチリとした、かすかな芯の焦げる音だけが、ユアンの居室の闇に響いている。

 

 ユアンは耳のすぐ傍で、自分の心臓が早鐘を打っているかのような錯覚を覚えていた。


 心臓のあたりは凍えて痛いほど冷えているというのに、身体を巡る血液は、まるで沸騰したように熱く滾っていく。

 

「我慢しなくていい……これは、ほんの呼び水だ。僕はユアンの、最初の餌としてここにいる」

 

 ロジェは仕立ての良いジャケットを乱暴に脱ぎ捨て、白いシャツの袖を捲り上げた。剥き出しになった腕には、赤黒く汚れた包帯が痛々しく巻き付いている。

 

 ユアンの目は、ゆっくりと解かれていくその白い布から、どうしても離れることができなかった。

 

「直接は、抵抗があるかと思ったんだ……でも、こっちのほうがいいんだな」

 

 ゴクリ、と喉が鳴った。

 

 異常なほどに目が冴え渡っていく。

 月光に照らされたロジェの腕──そこに走る、まだ生々しく湿った切り傷。


 露出した赤い肉と、そこからじわりと滲み出すドロリとした血液を見た瞬間、ユアンの口内には、堪えきれないほどの唾液が溢れ出した。

 

「ユアン……光栄だよ」

 

 テーブルから身を乗り出したロジェが、その腕を、まるで聖物を捧げるようにユアンの眼前へと差し出した。

 

 その瞬間、ユアンを支配したのは、人間性を根底から覆すような獣の衝動だった。


 これまで受けてきた高潔な教養も、理性のすべてを否定してでも手に入れたい「飢え」の対象が、いま目の前で自らを捧げている。

 

 ユアンは椅子から立ち上がると、血を滴らせるその腕に、貪るように縋り付いた。

 

 ガタガタとテーブルが激しく揺れ、つるりとした硝子グラスが無残に倒れる。

 

 吸い出され、溢れた赤い血液がテーブルの白リネンへと瞬く間に広がり、おぞましい真紅の湖を作り出していく。


 それは天板の縁を伝い、細い線を伸ばして、ぽたり、ぽたりと、絨毯へ雫となって落ちていった。

 

 脳が焼け付くような、強烈な刺激。

 身体中が沸騰したように熱く、壊れそうなほどに高鳴る鼓動の中で、ユアンの魂はひとつの叫びだけを繰り返していた。

 

 ──もっと、もっと欲しい

 

 本能の赴くまま、その傷口を牙と舌で抉り取った、まさにその時だった。

 

「……っ、ユアン、悪い」

 

 首筋に、鋭く重い衝撃が走った。

 脳髄が激しく揺れ、視界が白黒と明滅する。


 冷や汗を流しながら、どこか酷く満足げに歪んだロジェの顔が月明かりの中にぼんやりと浮かび──そのまま、視界は完全な暗転へと落ちていった。

 

 ***

 

「おはようございます、坊っちゃん」

 

 繊細なレースカーテンの隙間から差し込む、柔らかな朝の陽光に、ユアンはゆっくりと目を開いた。

 

 背中に触れる居室のベッドは、常と変わらぬ滑らかなベルベットの心地よさを保っている。

 

「バルバラ……?」

 

 ふくよかな身体に見慣れたクラシックな黒ドレスを纏った家令が、枕元で忙しなく動き回っていた。

 

 普段であれば、そこにはロジェがいるはずだった。主人の目覚めを待ち、トワレの準備をする侍従としての役割は、すべて彼の手によって行われていたのだから。

 

「ロジェは酷い貧血を起こして、今は休ませております。這ってでもベッドから出てこようとしていましたけれど、あんな使い物にならない状態では邪魔なだけですから」

 

 貧血。

 その不吉な単語に、ユアンははっと息を呑んで跳ね起きた。

 

 朧気な霧の彼方から記憶を手繰り寄せ、本能の獣に成り果てていた昨晩の悍ましい光景を思い出す。

 

「……ああ、私は」

 

 絶望に頭を抱えたユアンの背を、バルバラの肉厚で柔らかな手が、あやすように優しく擦った。

 

「坊っちゃん、まずは身支度をなさいませ。こちらに洗顔用のお水と、研ぎ澄ました剃刀を置いてございます」

 

 ユアンはバルバラに促されるまま、操り人形のようにベッドから降りてトワレを進めていった。

 

 温水で肌を潤し、慣れない手つきで肌を傷つけぬよう、慎重に剃刀を滑らせる。年頃になってから当て始めた剃刀は未だ一つも引っ掛かりを見せず、ただ表面を撫でていく。


 それから、母親の喪に服すための、豪奢だが重々しい黒い衣装に身を包んだ。

 

 言葉も出ないほどの混乱と自己嫌悪は、毎朝の習慣という「人間の型」をなぞるうちに、不思議と凪いでいった。


 実の母親のように慈愛に満ちたバルバラが傍に控えていることも手伝って、身形を完璧に整え終えた頃には、ユアンの頭は冷えていた。

 

「……葬儀はどうなった」

 

「すでに役所への届け出は済ませております。法に従えば、死者は三日以内に埋葬せねばなりません。本日あたり、教会で静かにミサを行うことになるかと存じます」

 

 バルバラの態度は、不気味なほどにいつも通りだった。ユアンが昨夜倒したグラスも、リネンを汚したあの夥しい赤も、すべては完璧に片付けられている。


 まるで何も起きなかったかのように、平穏で退屈な時間が流れていた。

 

「ただ……教会がおかしな真似をしなければ良いのですが」

 

 バルバラが、薄い溜息とともに眉をひそめた。

 

 都市の富裕層であれば、教会での盛大な葬儀はステータスとなる。だが、亡きリリ・ヴォルテーヌは教会から酷く嫌われていた。


 彼らは、彼女の奔放で常軌を逸した生き方を悪魔憑きであると呼び、忌避していたのだ。

 

 ブロンズのアンティークミラーには、ユアンの端正な顔立ちと、その後ろで彼の銀髪を丁寧に梳かすバルバラの姿が映っていた。


 本来、家令である彼女がこのような細々とした家人への雑用に回ることはない。

 

 ただ、その圧倒的な母性でもって、ユアンやロジェ、ポーレットたちのことを見守り、歪んだこの屋敷に必要な手を差し伸べるのがバルバラという存在だった。

 

「葬儀に出るのなら……この髪も、少し短く切った方がいいだろうか」

 

 ユアンの呟きに、バルバラの手がふと止まった。鏡越しに一瞬だけ困惑の表情を見せ、それから何かを思いついたように、ふわりと艶やかに微笑んだ。

 

「それでしたら、女中のポーレットに任せましょう。あの子は以前、街の髪結いサロンに勤めていたことがあるそうですから、きっとお上手に整えてくれます」

 

「……彼女は、嫌がらないか?」

 

 ユアンの脳裏に、あの冷淡な少女の顔が浮かぶ。


 ポーレットは亡きリリを盲信的に崇拝していたが、ユアンに対しては最低限の礼儀を崩さないものの、その眼差しには男という生き物に対する強固な嫌悪と侮蔑が滲んでいた。

 

 不安気な声を漏らした主人に、バルバラは困ったように眉を下げ、「仕事に対しては、とても真面目で頑なな子ですから」と苦笑いを浮かべた。

 

 ***

 

 屋敷の唯一の料理人であるギャスパルが衰弱して動けないため、食堂のテーブルに並んだ朝食は、簡素な野菜スープと白パンだけだった。

 

 だが、ユアンはその食事を前にして、微動だにできずにいた。

 

 ──味が、しないのだ。

 

 舌にのせたスープは、ただの温かい泥水のようで、白パンは砂の塊のように口中でぼそぼそと崩れる。

 

 身体のすべての細胞が、昨夜を境に作り変えられてしまったかのように味覚が完全に狂い果て、目の前の人間の食事を、胃袋が激しく拒絶していた。

 

「無理をなさることはありませんよ、坊っちゃん」

 

 みるみる顔色を悪くしていくユアンを憐れむように、食卓の横に控えていた老執事のジャックが、静かな笑みを浮かべて皿を下げていく。上質な白磁の皿の上には、ほとんど手のつけられていない料理が冷たく残されていた。

 

「昨夜は……私どものお望み通り、とても良い夜になったようで何よりです」

 

 ジャックの放った、核心を突く言葉に、ユアンはびくりと肩を震わせた。


 老執事がユアンの直ぐ側で笑みを浮かべているその呼気が首筋を撫でる。

 顔を上げた先に捕食者の瞳がある。ビリビリと警鐘を鳴らす本能が、そう告げている。

 

 ユアンは、ただ、染み一つなく白々としたテーブルクロスを見つめ続けた。

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