六話 ――最後の晩餐――
その晩、白のリネンが敷かれたテーブルを彩ったのは、料理人の叡智が凝縮された贅を尽くした皿だった。
琥珀色に透き通る深い味わいのコンソメスープ。肉と魚の旨味を極限まで煮詰めた艶やかなベースソース。
そして、柔らかな子牛のフリカッセが、濃厚な白いクリームを纏って陶器の皿に横たわっている。
家庭的でありながら、至高の技法が注ぎ込まれた一皿一皿に、ユアンは静かに舌鼓を打っていた。
デザートのシロップ漬けのケーキと、繊細な輝きを放つ飴細工を平らげ、一通りの食事が終わる。
その完璧なタイミングを見計らったかのように、給仕服に身を包んだ料理人のギャスパルが姿を現した。
「今日の食事は随分と豪勢だったな。母様の喪に服すものとばかり思っていたが」
ユアンは上質なナプキンで口元を拭いながら、主人の居室に横たわる母親、リリ・ヴォルテーヌに思いを馳せた。
椅子から降ろされ、簡易な棺に納められた彼女の遺体は、まだそこにある。
吸血鬼という血脈のゆえか、あるいは湿度の低いこの季節の恩恵か、驚くほど腐敗の兆候はなく、微かな死臭すら漂ってこない。
「坊っちゃん……お願いがございます」
ギャスパルの顔色は痛々しいほどに青白く、その身体は薄氷の上に立っているかのように、ふらふらと頼りなく揺れていた。
噛み合わない会話。
そして、不穏な決意を孕んだ聲音。それらが、ユアンの身体をじわじわと重く沈み込ませていく。
「私にお暇を頂きたいのです……。奥様と出会ったとき、私は死の淵に足の半分を落としておりました。しかし、私はまだ料理を追求したかった。八十まで調理場に立ち続けながら、何一つ満足を覚えられなかったこの強欲な私を、救い上げてくださったのが奥様なのです」
土気色の肌には、いつもより深く老いの皺とたるみが刻まれていた。
ギャスパルは胸の内のすべてを一気に吐き出すと、そのまま力尽きたように、溜息交じりに床へ膝をついた。
「……ギャスパル」
言葉に詰まるユアンを遮るように、静かにギャスパルの肩を支えたのは、老執事のジャックだった。
「私共も、そう長くは持たないでしょう。……今夜、お部屋にロジェが参ります。どうか、ご決断を」
扉の傍らに控えていた若き侍従のロジェが、すべてを心得たような笑みを浮かべ、恭しく胸元に手を添えた。
この館の行方を左右する重要な局面であるはずなのに、家令のバルバラや女中のポーレットの姿が見当たらない。ロジェとジャック、この二人の間だけで、明確な利害が一致しているのは火を見るより明らかだった。
流されるわけにはいかない。主という絶対的な軸を失った忠実な下僕たちは、今やそれぞれの思惑を交錯させて動いているのだ。
「屋敷の存続については、私も考えねばならない。……ギャスパル、料理の道は、心ゆくまで極められたか」
ギャスパルは震える腕でジャックの手を拒むように押し退け、床に頽れたまま、かすかに首を振った。
「ええ、坊っちゃん。私はもう、これで終わりでいい……ただ、眠りたいのです」
今にも空気の底へ消え去ってしまいそうなほど衰弱した姿に、ユアンの胸は強く締め付けられた。
わずか一日にして、これまで不変だと思っていた生活の基盤が音を立てて崩れていく。
当たり前に傍にあった温もりが揺らぐ現実は、酷く寂しく、悲しいものだった。
「そうか。お前の気持ちは受け取った。ジャック、ギャスパルを使用人部屋へ。動くのが辛ければ、明日も一日休むといい」
「かしこまりました、坊っちゃん」
ジャックは表情の読めない底冷えするような笑みを浮かべ、ギャスパルの身体を抱き抱えるようにして広間を後にした。
残されたユアンは、食後のワイングラスをそっと揺らした。
深い真紅の液体が、透き通ったグラスボウルの中で妖しく波紋を広げる。
「ギャスパルに残された時間は、あとどれほどだ」
「一週間保てば良い方でしょう。元々はとうに死んでいた身です。奥様の魔法が解ければ、動くことすらままならなくなります」
独り言のようにつぶやいた問いに、ロジェが淡々と答えた。その確信に満ちた声音に、ユアンは小さく溜息を漏らす。
「ユアン様、後ほど、貴方のお部屋へ伺ってもよろしいですか」
ジャックが言っていた「決断」の二文字が脳裏をよぎる。
ロジェはまさに、そのための引き金を引こうとしているのだ。そして今のユアンには、この現実から逃げ出すという選択肢など残されていなかった。
「……トワレを終えてからだ。屋敷には母様の遺体がある。身を清めなくては」
「かしこまりました。準備いたします」
ロジェはいつもより少しだけ、性急で慌ただしい靴音を響かせて広間を出て行った。おそらく家令のバルバラへ伝言に向かったのだろう。
主が消え果てたというのに、彼らの動きは皮肉なほどに活気付いている。
ユアンは胸の奥に澱のように溜まる蟠りをほぐすように、再びワインを揺らした。
熟した果実の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。この甘口の赤ワインは、ユアンが最も好むものだった。
振り返れば、この屋敷で何一つ不自由を感じたことはなかった。
空腹も、不便も、孤独さえも。すべては先回りされ、完璧に整えられた揺り籠の中で、自分はただ生かされてきたのだ。
私がしっかりしなければならない。それが、この屋敷を支えてくれた彼らへの誠意だ。
ユアンは震える指先をそっと握り込んだ。
***
「ユアン様、ロジェです。入ってもよろしいでしょうか」
ぽつんと置かれたランタンが、心細い光を投げかけるだけの薄暗い居室。
そこに、静かなノックの音が響いた。
ユアンは手元にあった本をテーブルに閉じ、「入れ」と短く応じた。
「良い夜ですね」
入室してきたロジェの手には、銀のトレーが載せられていた。
そこには寝酒用だろうか、つるりとした二つの硝子グラスが、闇の中で鈍い光を反射している。
「ロジェ。お前、何を企んでいる?」
ジャックの含みのある言い回しも、ロジェの冷徹な目配せも、二人が裏で何らかの共謀をしていることを雄弁に物語っていた。
そしてそれが、ユアン自身の身の上に深く関わっていることも。
「ユアン、もう猶予がない。この屋敷の者たちを、その営みを愛おしいと思うなら――貴方の身体に眠る、その血を呼び覚ますべきだ」
トレーの上のグラス、その一方には赤い液体が満たされ、もう一方は空だった。
ロジェは音もなく、ユアンの目の前へとその深紅の液体が揺れるグラスを滑らせた。
途端に、鼻腔を突く濃厚な鉄の香り。
窓から差し込む冷ややかな月光が、深紅のグラスを怪しく照らし出す。
「本当に、いい夜だ。僕はこの夜を、ずっと待っていた」
ロジェが唇を歪めて微笑んだ。
それは幼い頃に見せた無邪気な笑顔のようでありながら、同時に、心の底から湧き上がる狂おしいほどの歓喜が滲み出ていた。
給仕服の袖口、手首のくるぶしを隠すシャツの隙間から、白い包帯がのぞいている。
その包帯に染みた、暗闇に紛れる不気味な赤色の汚れ。それを見た瞬間。
ユアンの喉の奥が、かつてないほど激しく、渇きに震えた。




