五話 ── 訝しむ猟犬 ──
コンコン、と静かだが重みのある音が、部屋のオークの扉を叩いた。
張り詰めていた空気が、その音によってガラスのようにひび割れる。
「坊っちゃん、憲兵がいらっしゃいました。お話を聞きたいと」
扉の向こうから聞こえた老執事ジャックの低い声に、ユアンははっと身動いだ。
心臓が不自然に大きく脈打つ。現実の時間が再び動き出したかのような錯覚に、目眩を覚えそうだった。
「もっと、じっくりと話したかったが……」
ユアンの足元に恭しく跪いていたロジェが、小さく溜息を漏らした。
見上げるその瞳は、言葉の響きとは裏腹に、まるで氷の刃のように冷たく冴え渡っている。
主人の混乱を愉しむかのような、あるいはその運命の檻に閉じ込めたことを確信するような、底知れない色を湛えていた。
ロジェはしなやかな動きで、音もなく立ち上がると、迷いのない足取りで扉へと向かう。
その背中を見つめながら、ユアンは喉が干からびたように張り付くのを感じた。
「ロジェ、」
かすれた声で、その名を呼ぶのが精一杯だった。
リリの死、吸血鬼という荒唐無荒な真実、そして目の前の半身が向けた恍惚とした熱――。
聞きたいこと、問い詰めたいことは山ほどあるというのに、あまりの混乱に脳が拒絶を起こし、言葉が形を成さない。
呼び止められたロジェは、扉の手前でゆっくりと振り返った。
そして、薄い唇にすらりと長い人差し指をそっと当てる。
「坊っちゃん、話の続きは又の機会に。今は、憲兵をお待たせしていますから」
いたずらが成功した子供のようでありながら、どこか狂気を孕むロジェの瞳が、妖しく綺麗な弧を描いた。
呼び止める言葉は、結局喉の奥で溶けて消えた。
ユアンはロジェの笑みに、背筋を蛇が這い上がるかのような強い悪寒を覚える。
幼い頃から共に育ち、すべてを知り尽くしていたはずの侍従が、今は全く別の存在に思えて仕方がなかった。
ロジェは一瞬にしていつもの淡々とした「侍従の顔」へと戻り、素知らぬ様子でで扉を開いた。
扉の先には、心痛な面持ちで控えるジャックの姿がある。
「坊っちゃん、憲兵をこちらへご案内してもよろしいですか?」
ジャックはロジェを素通りし、部屋の奥に座るユアンへと視線を向けた。その声音には、実の母親を失ったばかりの若い主人を深く気遣う、父親のような優しさが滲んでいる。
その気遣わしげな眼差しに触れ、ユアンは自らの顔色が酷く優れないことを嫌でも悟った。
今、鏡を覗き込めば、きっと階下の死体と大差ないほどに青白く、怯えきった、無様な顔をしているに違いない。
「ああ、呼んでくれ」
ユアンは椅子の肘掛けを強く握り締め、どうにか声を絞り出した。
「かしこまりました」
ジャックは丁寧に一礼し、踵を返す。
すれ違いざまにロジェへ「バルバラにお茶の用意を」と言伝を残し、廊下の奥へと歩み去っていった。
「はい」と殊勝に応じたロジェもまた、一度もユアンを振り返ることなく部屋を去る。
パタン、と静かに扉が閉まり、再び訪れた短い静寂の中で、ユアンは何度も深く息を吸い込んだ。
だが、肺に満ちるのは、やはりあの部屋から漂ってきたような、じっとりとした鉄錆の匂いばかりだった。
***
ジャックに案内され、重厚なオークの扉をくぐってきた男は、いかにも叩き上げといった風貌の、鋭い眼光を持った中年だった。
その後ろから、まだ少年の面影を残した若い憲兵が、借りてきた猫のように緊張した面持ちで続いている。
「お初にお目にかかります、ユアン様。国家憲兵隊のラポルトです」
ラポルト隊長は帽子を脱ぎ、胸に当てて一礼した。慇懃ではあるが、その瞳はすでに部屋の隅々、そしてユアンの佇まいを品定めするように観察している。
「……遠いところ、すまない。ヴォルテーヌ家当主のユアンだ。座ってくれ」
ユアンは、自分の声が微かに震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。
つい先ほどロジェから突きつけられた、荒唐無荒な真実。その衝撃が、今もなお脳髄を激しく揺さぶっている。
ユアンは吸血鬼の血を引いており、そして、階下にいる使用人たちもただの人間ではない。
純粋な人間である憲兵たちの存在が自らの異質さを際立たせるようで、ユアンは今朝まで当たり前にあった世界が揺らぐのを感じていた。
渦巻く思考を無理やり心の奥底へ押し込め、ユアンは「人間の悲劇の当事者」としての仮面を深く被り直す。
ラポルトは促されるまま、ロジェが先ほどまで座っていた丸テーブルの椅子へと腰掛けた。同時に、部屋の空気が一変して重くなる。
「奥様の件、誠に遺憾です。……突然のことで、さぞお心を痛めておられることでしょう」
「ありがとう。いまだに、信じられない気持ちだ。あんな凄惨な姿で……」
ユアンは視線を落とし、さも動揺しているかのように長い睫毛を伏せた。
ラポルトは手帳を取り出し、ペンを構えた部下に目配せをしながら、本題へと切り込んだ。
「ユアン様。単刀直入に伺います。奥様が亡くなられたと目される時刻、貴方はどちらで何を?」
「昨夜は日が落ちる頃には部屋に。外が騒がしくなり……バルバラの、家令の悲鳴が聞こえるまでは、ずっと一人で」
「なるほど、お一人で。……では、奥様の部屋の格子窓が、普段から“夜の客人”たちのために開け放たれていたことはご存知でしたか?」
世間での母の悪名。それを盾に、この憲兵は事件を「痴情のもつれによる怨恨」として早期に片付けようとしている。その意図が透けて見えた。
「知っていた。母様の奔放さは、この屋敷の誰もが知るところだ。おそらく、その中の一人によって……」
数刻前に見た母の死体を思い出す。死してなお艷やかな銀髪が開け放たれていた窓からの風に揺れていた。
夜な夜な男を向かい入れていた貴婦人が痴情のもつれで殺された。憲兵が作り出す筋書きに不自然な点は一つとして浮かび上がらない。
「ええ、私もその線が濃厚だとは思うのですが、」
ラポルトがわずかに身を乗り出し、声を低くした。その双眸に、獲物を捕らえる猟犬のような光が宿る。
「気になる点がいくつか。……まずは、凶器です。なぜ『木の杭』だったのか。心臓を正確に一突きにするなら、細身の短剣や猟銃の方が確実で苦痛を与えないでしょう」
ユアンの背中に、じっとりと冷たい汗が伝った。
木の杭は墓から這い出る死人を土に縛り付けるための呪いだ。犯人はリリ・ヴォルテーヌが吸血鬼であったことを知っている可能性が高い。
「木の杭は、死人が起き上がらないように、という意味を持つそうだな」
「ええ、そういった地域の話を私も聞いたことがあります。……それから、もう一点」
ラポルトはユアンの言葉を遮るように、さらに言葉を重ねた。
「衣服をあそこまで濡らし、床に湖ができるほどの出血がありながら、奥様は安らかな顔をしておられた。木の杭で心臓を貫かれたというのに、肌に血飛沫の一つもない……まったく抵抗をしなかったのか、犯人が彼女を美しく整えて去ったのか」
ラポルトの視線が、不意にユアンの髪へと注がれる。
母親と揃いの月光を吸い込んだような銀髪。そして、よく見れば透き通るほどに青白い、ユアンの肌。
「ユアン様、貴方は奥様によく似ておられる。夜の怪物というのが実在するのなら貴方のような姿をしているのでしょうね」
部屋の空気が凍りつく。
ユアンは中年の憲兵のちょっとした冗談を真に受けてしまったことに、冷や汗を流した。
その時、コンコン、と絶妙なタイミングで静かなノックの音が響く。
「坊っちゃん、お茶をお持ちいたしました」
入ってきたのはバルバラだった。
彼女は銀のトレイに載せた紅茶を、慣れた手つきでラポルトと部下の前へと並べていく。温かい湯気とともに、アールグレイの華やかな香りが部屋に広がった。
「お労しいことに、坊っちゃんはあまりお体が丈夫ではなく、昔から日光を好まれません。ヴォルテーヌの血筋は、皆一様に肌が白いのです……憲兵様」
バルバラは、いつもと変わらぬ穏やかで、しかしどこか有無を言わせぬ威厳に満ちた笑みをラポルトに向けた。
そのふくよかな身体から放たれる長年この館を守ってきた家令としての落ち着きが、張り詰めた空気をふっと霧散させる。
「おや、これは失礼した。話が脱線してすまないね。まだ小さな娘がいるんだが夜の怪物たちという絵本がお気に入りなものでね」
ラポルトは肩をすくめ、紅茶に口をつけた。
バルバラはユアンに一礼し、静かに部屋を退出していく。
「ラポルト隊長」
ラポルトがカップを置き、再びユアンを見る。
「母を殺した犯人は、必ず見つけ出してほしい……これまでの“客人”のリストなら、執事に用意させる」
ラポルトは探るように、ユアンの瞳を見つめていた。
「……承知いたしました、ユアン様。お疲れのところ、お引き止めして申し訳なかった。本日の聞き取りは、ここまでにいたしましょう」
ラポルトが立ち上がり、部下に撤収を命じる。
扉へ向かうラポルトの背中を見送りながら、ユアンは、ようやく肺に溜まった空気を吐き出した。
窓の外では、夕闇が静かにヴォルテーヌ邸を飲み込もうとしていた。




