四話 ── 濁った光の館 ──
馬車がヴォルテーヌ邸の重々しい鉄柵をくぐった瞬間から、国家憲兵隊のラポルト隊長は、胃の腑がじわじわと焼けるような不快感を覚えていた。
街の喧騒から隔絶された郊外の森の奥。
そこに佇むヴォルテーヌ邸は、素人目に見ても恐ろしく金がかかっていた。しかし、同時にひどく薄気味悪い。
豪奢であればあるほど、その過剰な装飾は歪に見えた。
馬車を降り、正面玄関へと歩みを進める。
見上げるほどに高い尖塔、外壁のあちこちに施された彫刻は、聖者ではなく、奇妙にねじくれた怪物や、苦悶の表情を浮かべる罪人たちのようだった。
まるで館そのものが、生きた人間の侵入を拒んでいるかのような錯覚に陥る。
「住宅街からはさほど離れていないはずですが……酷い静けさですね、隊長」
部下の若い憲兵が、恐怖を誤魔化すように制服の襟元を正しながら呟いた。ラポルトは応えず、ただ低く唸るにとどめた。
案内された一階の広間は、さらに悪趣味な美しさに満ちていた。
高い天井から吊り下げられた豪奢なシャンデリア。しかし、窓を彩るステンドグラスの細工が奇妙だった。通常の教会にあるような聖なる光ではない。
外の光をわざと遮るように、深紅とくすんだ紫、そして闇のような黒のガラスが多用されているのだ。
格子窓を透過して床の大理石に落ちる光は、まるで凝固しかけた新鮮な血液の斑点のようで、ラポルトは思わず足元を避けて歩いた。
「ラポルト隊長。お待ちしておりました」
老練な執事が、一分の隙もない最敬礼で出迎えた。
その顔は青白く引き締まっているが、主人が殺害された直後だというのに、妙に落ち着き払っている。
いや、落ち着いているというよりは、何か決定的な諦めを張り付けたような顔だ。
「ヴォルテーヌ家の当主、ユアン様が奥の書斎でお待ちです。……ですが、ユアン様は奥様の突然のことで、ひどくお心を痛めていらっしゃる」
老執事は、ここにきて初めて声に柔らかな感情を滲ませた。
若い主人を慮る、憐憫のような、あるいは深い同情のような表情。それを見てラポルトはようやく、この鉄仮面の中に通う人間味を感じ取り、密かに安堵の息をついた。
「まずは、奥様の遺体がある居室へご案内いたしましょう」
老執事の案内で廊下を進む間も、ラポルトの視線は鋭く周囲を観察していた。
すれ違う使用人たち──ふくよかな家令の女、若い女中、高齢の料理人。
誰もが幽霊の館の住人のように血の気がなく、怯えたようにこちらを盗み見ている。
だが、その怯えは殺人犯がまだ近くにいるかもしれない恐怖ではない。
もっと根深い、何か自分たちの存在そのものを根底から脅かされるような、質の違う怯えに見えた。
そして、被害者であるリリ・ヴォルテーヌの居室の扉が開かれた。
──ウッ、と思わず部下が口元を押さえる。
部屋に充満していたのは、鉄錆のような、濃厚で噎せ返るような血の匂いだった。
「これは……」
都市での勤務経験も持ち、数々の修羅場をくぐってきたラポルトの足が、一瞬だけ止まる。
赤いベルベットの椅子に腰掛けたリリ・ヴォルテーヌの姿は、凄惨でありながら、不気味なほど完璧な絵画のようだった。
胸に深く突き刺さった、荒削りで無骨な木の杭。そこから放射状に広がった血の筋は、まるで彼女の胸から発出した黒い蜘蛛の足のように床を這っている。
何より異常なのは、その死に顔だった。
これほど凄惨な凶器を心臓に突き立てられながら、苦悶の跡が一切ない。
まるでほんの数秒前に、心地よい昼寝にでもついたかのような、完璧に安らかな美貌を保っている。
ただでさえ蝋細工のように青白い肌は、完全に血の気が失せたことで、人間というよりは精巧な美術品のようだった。
「心臓に木の杭、か。……まるで」
ラポルトの脳裏に、無学な村人たちが今もひそかに囁き合う、質の悪い迷信が過った。
死者が蘇らぬよう、その胸に杭を打つという、あの忌まわしい夜の怪物のおとぎ話。
「猟奇的な狂人の仕業か。あるいは、余程の恨みを持つ者の怨恨か……」
ラポルトは手袋をはめた手で顎をさすりながら、部屋の開け放たれた格子窓に目をやった。
この美貌の未亡人が、夜な夜な多くの男たちをこの窓から招き入れていたことは、地元の憲兵隊の間でも有名なスキャンダルだった。痴情のもつれ。
そう処理するのが一番座りがいい。名家ヴォルテーヌ家の秘密をこれ以上暴くのは、役人としても得策ではない。
「……遺体はこのまま、一切手を触れぬように。書斎に案内してくれ。屋敷の主に詳しい話を聞きたい」
ラポルトが告げると、執事は「当主に伺ってまいります。少々お待ちを」と一礼し、その場を離れた。
待たされる形にはなったが、ラポルトはこれ以上、あの毒々しい死体と対面している気にはなれず、自ら居室の重い扉を閉めた。
隣で部下が未だに青白い顔をして小刻みに震えている。ラポルトはやりきれない息を吐き、ちょうど廊下を通りかかった若い女中に声を掛けた。
「すまないが、庭に出てもいいかな。屋敷の周囲を確認しておきたい」
すると女中は、まるで大切な領域を侵されたかのように、ラポルトをキッと鋭く睨みつけた。
だがすぐに、無愛想ながらも「……どうぞ、ご自由に」と言葉だけは丁寧に取り繕ってみせる。
あからさまに礼儀を欠いたその態度に、ラポルトは内心カチリと不快感を覚えた。
しかし同時に、今は一刻も早くこの閉塞感に満ちた館を出て、外のまともな空気を吸いたかった。
「どうも」
ラポルトは短くそれだけ伝えると踵を返し、澱んだ赤い光が満ちる廊下を後にした。
背筋をじわじわと駆け上がる奇妙な寒気を、制服の厚いウール生地のせいにしながら。




