三話 ── 明かされる秘密 ──
ユアンの居室には、天板が傾けられた読書テーブルと、栞を挟んだままの本が、まるで時を止めたように静まり返って存在していた。
ユアンは卓上の本の背表紙を指先でそっと撫でながら、ほんの数刻前までは退屈な日常の中にいたのだという事実に、酷く遠い既視感を覚えていた。
「少し、長い話になります。心を落ち着かせるために、紅茶でも淹れましょうか」
ロジェのその堅苦しい話し方が、今のユアンにはいつになく癇に障った。
ユアンは首元のタイを苛立たしげに緩め、背もたれの高いチェアに深く身体を沈める。
「ティータイムの気分じゃない。それより、その堅苦しい話し方はやめにしよう」
しばしの思案の末、ロジェは小さく頷いた。そして、丸テーブルを挟んだ向かいの椅子へと腰掛けた。
「分かった。……この部屋の中で、二人きりの時だけなら」
「それでいい」
ロジェの佇まいは、彼の師であるジャックによく似ていた。
仕事を教わっている以上は当然なのだが、その徹底された格式張った礼儀作法すらも、今のユアンの張り詰めた神経を逆撫でするようだった。
「ユアン……大丈夫か?」
幼馴染としての声音に戻ったロジェの問いに、ユアンは力なく頷いた。額に手を当て、深く、長い息を吐き出す。
「薄情かもしれないが……感情は、凪いでいる。母様の死体に触れても、悲しみなんて何も湧いてこなかった。バルバラやギャスパルの方が、余程取り乱していただろう」
ユアンは自身の白い手のひらを見つめた。実の親の凄惨な死を前にして、不思議なほどに平静を保っている自分がいる。
その異常性をロジェにどう捉えられるのか、それだけが僅かに不安だった。
「ユアンが薄情なわけじゃない」
ロジェは静かに、しかし断定するように言った。
「バルバラや……いや、僕を除くこの屋敷の使用人たちは皆、奥様に命を預けていたから、あそこまで取り乱したんだ」
おかしな言い回しだった。ロジェが自分だけをその対象から排除したことも、どこか大袈裟な言葉を選んだことにも、奇妙な違和感が残る。
ユアンは怪訝な目をロジェに向けた。ロジェは、脳内で最適な言葉を慎重に探しているように見えた。
窓の外には、主を失ったことなど露知らず、真紅の薔薇が咲き誇っている。
いつもと変わらぬ美しい庭園の景色が、かえってユアンの気持ちを寒々と落ち着かせていく。
まるで、下界の惨劇など初めから何もなかったかのように。
「ユアン、どこから話したらいいのか……」
苦悶するロジェの声に、ユアンは皮肉混じりの僅かな余裕を取り戻し「初めからにしてくれ。ただでさえ、頭の中が混乱しているんだから」と薄く口角を上げた。
ロジェは暫く頭の中の情報を整理するように目を閉じ、そして、ゆっくりと口を開いた。
「リリ・ヴォルテーヌは、吸血鬼だった」
ユアンは目を見開いた。白昼堂々、荒唐無荒な御伽話を口にし始めた自らの侍従を凝視する。
しかし、ユアンが言葉を挟むよりも早く、ロジェは淡々と紡いだ。
「そして、この屋敷で働く使用人たちは……僕を除いて全員が、リリ・ヴォルテーヌと血の契約を交わした『眷属』だ」
ロジェの瞳には、一点の曇りもなかった。赤子の頃から兄弟のように育ったがゆえに、彼が嘘を言っていないことくらい、その真摯な眼差しや、膝の上で白くなるほど握り締められた拳から容易に見て取れた。
「……馬鹿げてる」
ユアンはロジェの視線を受け止めたまま、堪えきれない困惑を辛うじて言葉にして吐き出した。
「ここは現実だ。劇場の舞台でもなければ、本の中の世界でもない。第一、もし……万が一にも母様が吸血鬼だというなら、私は──」
そこまで言って、理解は頭よりも先に、身体のほうが早かった。
自分が無意識に吐き出しそうになった言葉の真意に、ユアンは、はっと息を呑む。
ゆっくりと、己の血脈が真実を理解することを恐れるように、ユアンは目の前のロジェを見上げた。
ロジェは静かに椅子から立ち上がると、ユアンの目の前へと歩み寄ってくる。
ユアンはその一連の動きを、瞬きすら忘れて凝視していた。
やがて、ロジェはユアンの足元に、吸血鬼に仕える下僕のごとく、恭しく跪いた。
「貴方はまだ未熟な吸血鬼であり……そして僕は、産まれた瞬間から母の乳ではなく貴方の血を飲み、餌となるべく生きてきたユアンの為の眷属だ」
呼吸の仕方を忘れたように、ユアンは口を薄く開けては、声にならずに閉じた。ロジェはただ従順な態度で、主人がその運命を受け入れるのを待っている。
「そんな……まさか。私は、生身の人間だ。血を吸いたいなんて、一度だって思ったことはない……!」
ユアンは耐えかねて項垂れた。その拍子に、かき上げていた前髪が一房ハラリと垂れ、鏡を見ずともわかる「母親と揃いの銀髪」が視界に飛び込んでくる。
奇異な色だ。人間離れした、夜を象徴するような月の色が、冷酷な真実としてユアンに突きつけられていた。
ガタガタと震えるユアンの手の上に、ロジェの手が重なった。
血潮が巡る手のひらはじわりと体温を伝え、ユアンの冷えた指先を温めていく。
それは主人の混乱を慮った侍従の優しさであるはずなのに、今のユアンにとっては、逃げ場を失う重い鎖を嵌められたかのような、底知れない恐怖となって全身の肌を駆け巡る。
「奥様は仰っていた。力のない吸血鬼は人に擬態して生きるのだと、そうして成長が緩やかになるとともに本能が目覚める」
ユアンを見上げるロジェの顔には、いつしか恍惚とした熱を帯びた笑みが浮かんでいた。
演劇の台詞のような言い回しは、長年熟成されたかのような重みを持って、滑らかにロジェの口から紡がれた。
幼い頃から共にいたはずの半身は、ユアンの全く知らない顔をして、その見えない愛憎でユアンをチェアに縛り付ける。
「よく思い出してみて、ユアン。料理人のギャスパルは、僕らが幼い頃からその姿をほとんど変えていないだろう? ジャックもバルバラもステファンも……僕たちがこの世に生まれた時にはすでに大人としてこの屋敷にいて、そして今もなお、あの頃と変わらぬ姿で生きている」
ユアンの背筋を、冷たい汗が伝い落ちる。
記憶の底にある日々の些細な違和感が、パズルのピースが嵌まるように次々と浮かび上がっては繋がっていく。
「彼らは今、主であったリリ・ヴォルテーヌを失った。吸血鬼の血を定期的に与えられなければ、眷属たる彼らは、皆近いうちに死んでしまう」
格子窓の外の景色は、いつだって何も変わらなかった。季節によって咲く花の種類が変わる、ただそれだけだ。
日々は酷く穏やかだった。
貴族のような暮らしでありながら、領地を経営することも無ければ、他家との社交の義務すら一切無いことに
──どうして自分は、いつの間にか不自然さを感じなくなっていたのだろうか。
足元で妖しく微笑む半身を見下ろしながら、ユアンはただ、目眩を覚えるような深い闇の始まりを感じていた。




