十話 ――執事の矜持――
幾何学的に配置されたトピアリーと、青い芝生、薔薇の生垣。
その向こうに人類史上もっとも贅を尽くした宮殿があった。
太陽王の末裔たる主人が「水が欲しい」と指を鳴らせば、ジャックの合図一つで十人の給仕が足並みを揃えて動いた。
一晩で数千本もの蜜蝋のキャンドルを消費し、一度でも灯されたそれは、翌朝にはまだ長くともすべて容赦なく叩き折って捨てさせた。
それが王家の、世界の中心たる者の格式だったからだ。
ジャックの仕事は、その狂気じみた栄華のすべてを、一分の隙もなく完璧に統制することだった。
料理の温度、銀食器の輝き、給仕たちの歩幅、王妃の寝所を満たすリネンの白さ。
細かい秩序を挙げれば辞書のように分厚い本が出来上がる。
すべてを漏れなく完璧に仕上げ、神に選ばれた王にお仕えする。
それこそがジャックの存在意義であり、労働者階級の男が到達し得る、至高の全能感だったのだ。
──それなのに。
ジャックは、手にしたオイルランタンの煤けた硝子を忌々しげに見つめた。
あの黄金の宮殿は、革命の泥靴に踏みにじられ、主たちは皆ギロチンで首を落とされて消えた。
世界は汚れ、今や、貴族ですら衛生だの節約だのと世俗的な計算に追われている。
主を失い、いつか神が、再び新たな主を与えて下さるその日まで、ジャックは息を殺し、ただ祈りを捧げる日々を送っていた。
時の流れは残酷に過ぎてゆく。
神はジャックに新たな主を与えることはなく、歳ばかりを食っていった。
世間は王の威光を過去の産物として風化させていく。ジャックは白髪が大半を埋め尽くす自身の頭を教会の床に擦り付け、来る日も来る日も、神に祈りを捧げる。
ジャックにとっての運命がやってきたのはとある嵐の夜であった。
暴風雨が吹き荒れる中、教会へと足を運ぶ変わり者はジャックの他にはいない。
司祭でさえ、隣接された住居から出てくることはないというのに、その貴婦人は冷え切った教会へ超然とした様子で教会に足を踏み入れた。
雷光が連れてきたかのような鮮烈な美貌と、透き通るような銀髪が雨で白陶器の肌に貼り付いていた。
雨粒が頬や髪を伝う。
貴婦人の瞳がジャックを捉え、長い睫毛を瞬かせ、緩やかな弧を描く。
その一瞬、一瞬が、ジャックには主との再会に思えて仕方なかった。
ジャックは神に背を向けた。
そうして姿勢を整え、最高級の執事としてできる最敬礼を彼女に捧げた。
「神は貴方の後ろにいるけれど、私に腰を折って構わないの?」
バリバリと天を裂く雷鳴が轟いているのに、その声ははっきりとジャックの耳に届いた。
「……今より、私の神は貴方様です」
貴婦人は大層嬉しそうに笑い声を上げた。
雷は激しさを増す。
貴婦人は悠然と歩き、宙を舞うような身軽さで司祭の祭壇に腰掛けた。
シルクとレースを宝石で留めたフレンチヒールを軽く足を振って落とす。
真白な素足には青い血管が透けていた。
「貴方、佇まいがとても綺麗ね。高貴な御方に仕えたことがあるんでしょう」
ジャックは彼女の足に手を添えて「はい」と答えた。
「そう、ならうちに来るといいわ。うちの料理人が新しい料理を知りたがっているの、知恵を貸してあげて」
青みがかった足の爪がジャックの頬を引っ掻いた。ピリピリとした痛みにジャックは恍惚として彼女を見上げた。
右の足の爪が、左の足の甲を裂く、雨水に赤い血が薄まっていく。ジャックが傷口に口を添えたのはそれが最も自然な行為であると理解できたからだ。
***
そしてこの、静かな屋敷こそが、ジャックにとって失われた黄金時代の美しさを保ち続ける、最後の聖域だというのに。
「……ああ、なんてことだ」
三階への階段を上がりながら、ジャックの鼻腔に、乳香の香りを圧殺するほどの強烈な鉄錆の匂いが届く。
ジャックの老いた胸中を占めたのは、仲間の死への悲しみではない。
自分が命を懸けて維持してきた完璧な屋敷の秩序が、このような悪趣味な血溜まりによって汚されたことへの、悍ましいまでの憤怒だった。
「……どなたの仕業ですか、これは」
部屋の入り口で座り込み、頭を抱えるジャックの声音は、酷く平坦で、だからこそ爆発寸前のマグマのような熱を孕んでいた。
ランタンの灯りに照らされた老執事の横顔は、もはや人間のそれではない。
「ギャスパルも、ステファンも、私の管理下にある完璧な歯車だった。それを、これほど無作法に破壊するなど……」
扉に当たって止まったギャスパルの頭部を見下ろし、ジャックは小さく、しかし酷く冷徹なため息をついた。
仲間を失った悲傷など、彼の歪んだ矜持の中には微塵も存在しなかった。
ただ、リリ・ヴォルテーヌが遺したこの聖域を、一滴の穢れもなく維持すること。
それだけが、黄金時代を生きる彼のすべてだった。
呆然と立ち尽くすユアンの前に、ジャックは音もなく跪き、その靴先を血溜まりから遠ざけるように促した。
「ここは私共にお任せを。……バルバラ、坊っちゃんをお部屋へ」
困惑した様子の幼い主人を、家令のバルバラがそっと抱きしめ、その背をゆっくり支えて歩き出した。
ジャックは二人が去るのを見送ってから夜着の袖を捲くる。
「ポーレット。絨毯に血が染みます。泣いている暇があるなら、今すぐ一階から大量の塩と、裏庭から消石灰を持ってきなさい。……ステファンめ、剪定のハサミの手入れは完璧だったというのに、己の始末の仕方は酷く雑で悪趣味だ」
壁に背をつけて、震えている女中はジャックの声に弾かれたように立ちあがって階段を駆け下りた。
無作法な物音にジャックは眉を寄せる。
神が新たな主を与えて下さったあの夜のように、雨は変わらず窓を叩いている。
血糊のついた硝子に映る顔は、影が濃く疲れを見せていた。
ジャックは強く目を瞑り眉間を揉んだ。目が霞んでいる。背を伸ばして歩くと関節が悲鳴を上げた。身体がおかしい。
ジャックの体は執事として薹が立ちすぎたあの時空に引き戻されていくようだった。




