十一話 ――王への供物――
猟奇的な死を遂げた遺体が二体も転がったというのに、すぐに憲兵を呼び寄せなかったのは、ヴォルテーヌ家の体裁を取り繕うためか、あるいは葬儀の疲弊がそうさせたのか。
ユアンが居室で目を覚ましたとき、周囲には恐ろしいほどの静寂だけが残されていた。
トワレの用意と着替えだけがぽつんと置かれた冷たい部屋に、ユアンは心臓を直に絞られたような寂しさを覚える。
窓外に目を向ければ、昨夜の雨に濡れた庭園が、いつもより生き生きと青葉を茂らせていた。
しかし、それを管理していた庭師のステファンは、もういない。この美しい箱庭も、主を失って徐々に荒れ果てていくのだろう。
一度壊れてしまった世界は、二度と元には戻らないのだ。
ユアンはいつもより長い時間をかけて身支度を整え、重い扉を開けた。
居室の外の廊下は、まるで引き伸ばされたかのように広く、うつろに見えた。
いつもなら忙しなく動き回っているはずのバルバラやポーレットの姿すら見当たらない。
コツン、コツン、と木床を叩くユアンの靴音だけが、無機質に響き渡る。
「……誰か、いないのか」
呟いた声は小さく反響して闇に消えた。募る不安に、足取りは自然と速くなる。
息を弾ませて階段を駆け下り、食堂の重厚なドアを開け放つ。
そこには、いつもと変わらぬ乱れのない服装で、丁寧に腰を折る老執事の姿があった。
「おはようございます、坊っちゃん。朝の身の回りのお手伝いができず、不調法をお許しください」
ユアンは張り詰めていた息をほうっと吐き出し、いつもの定位置に着いた。
「構わない、こんな状況だ。人手も足りないだろう。これからは、私も自分でできることはやらなくては」
とぷとぷ、と白磁のカップに注がれる紅茶からは、いつになく甘く濃厚な香りが立ち上っていた。
芳醇極まるその香気に、ユアンの口内がじわりと湿る。
「坊っちゃんは逞しくお育ちになられた。屋敷の主としての器に、何一つ不足はございません」
ジャックがソーサーをそっとテーブルに置いた。その瞬間、指先がわずかにぶれたのか、カチャンと小さな陶器の擦れ合う音が響く。
ユアンは微かな違和感を覚えた。この完璧な老執事が、給仕において不要な物音を立てるなど、かつて一度として無かったからだ。
「……申し訳ございません、坊っちゃん」
心底己の不手際を悔いるように謝罪したジャックの手元を見る。
綿の手袋に包まれてなお、その指先は小刻みに、痛々しいほど震えていた。
リリ・ヴォルテーヌの魔法によって若々しさを保っていた怪物のそれではなく――とうに限界を迎えた、ただの老人の手だった。
「気にしなくていい。連日の出来事に疲れているのは、お前も同じだろう」
ジャックは焦点の合わない昏い瞳を遠い虚空へと向け、「ありがとうございます」と、それがユアンへの返答なのか、それとも己へ言い聞かせる呟きなのか判然としない調子で低く応じた。
「……紅茶は、お口に合いましたか?」
「ああ、茶葉を変えたのか? 酷くいい香りが――」
言いかけた途端、ユアンの頭の中心がジンと激しく痺れた。指先から急速に感覚が失われ、全身に鉛を流し込まれたかのように身体が重くなっていく。
「か……」
身体が変だ。力が入らない。
上体を起こしていることすらままならず、ぐらりと傾いたユアンの身体を、やせ細ってもなお、大きな手ががっしりと受け止めた。
手袋の下にある肉のない節立った手のひらは、骨そのもののような硬さでありながら、恐ろしいほどの力でユアンを拘束する。
驚いて見上げたジャックの目は、伏せられた睫毛の隙間から、瞳孔を極限まで見開いた異様な光を放っていた。
ジャックは力のはいらないユアンの身体を、流れるような動作で椅子へと括り付けていく。
贅沢なシルクのテーブルナプキンを噛ませ、柔らかな主人の肌が傷まないよう配慮しながら、その両手首を椅子の背へと厳重に縛り上げた。
――どうして、こんなことを。
心中で悲鳴を上げながらも、ユアンはこれを裏切りであると断定しきれずにいた。
ジャックが、ヴォルテーヌ家に、そして主人に仕える完璧な執事であることに、どれほど異常な執着を持っていたかを知っていた。
「すべては坊っちゃんのため、ひいてはこの屋敷のためでございます。庭師も料理人も、また新たに雇い入れねばなりません。しかし、奥様が亡くなられた今、それを統べる血の契約を結べるのは、坊っちゃん、ただお一人なのですから……」
朦朧とする意識の中、ユアンを拘束し終えたジャックが、静かに食堂のドアへと歩みを進める。
その後ろ姿はまるで枯れ木のように萎び、不自然に頭をもたげていた。
「私とて、主従の魔法が解け、日に日に老いさらばう身。もう、時間が残されていないのです」
重々しい音を立てて扉が開かれる。
その先、廊下の床にぐったりと頽れていたのは、昨日の葬儀で顔を合わせたばかりの国家憲兵隊のラポルトだった。
ジャックは気を失っているラポルトの足首を掴むと、枯れ木のような身体のどこにそんな怪力が隠されているのか、ズルズルと容赦なく食堂の床へ引きずり込んできた。
「私がお呼び立てしたのです。奥様の件で、公にできぬ内密な話があると……。正義感の強いお方ですから、郊外の不気味な屋敷であっても、必ずお一人で足を運んでくださると思っておりました」
ジャックは事務的な手際でラポルトの衣服を緩め、その太い首筋を容赦なく露出させた。
その手に握られているのは、研ぎ澄まされた銀のナイフだ。老執事は一切の迷いがない仕草で、刃をラポルトの喉元へと突き立てた。
骨の割れる鈍い音が響き、衣服を濡らして吹き出す夥しい血液と、健康的な人間の赤い肉が、ユアンの網膜に強烈に焼き付けられる。
全身を激しい震えが襲う。いっそこのまま気絶してしまいたいほどの衝撃が、身動きの取れないユアンを容赦なく痛めつけた。
「……ロジェの血では、呼び水としてあまりに未熟で弱すぎた。今すぐに、完全な姿へ目覚めてもらわねば、私共が困るのです」
逆光に照らされたジャックの顔には真っ黒な影が落ち、もはやユアンの目には、人間には見えなかった。
亡霊だ。墓場の冷たい土を自らの爪で掘り返し、這い出てくる夜の化物がいるとするならば、きっとこの老執事のような顔をしているに違いない。
物心ついた頃から傍にいてくれた、あの父親のような温もりは、すべて都合の良い幻想であったかのように霞んでいく。
窪んだジャックの双眸は、自身の死に瀕しながらも、なお主を生かすための養分を求めて妖しく彷徨っている。
老執事は手にした硝子グラスを傾け、ラポルトの首から溢れ出る新鮮な血を、一滴も零さぬよう美しく汲み取った。
「お待たせいたしました、坊っちゃん。貴方の食卓を完璧に整えることこそが、私の仕事でございます」
血に濡れた白手袋が、ユアンの顎を優しく、しかし拒絶を許さぬ力で持ち上げる。
傾けられたグラスの縁から、どろりとした深紅の液体が迫る。
恐怖に震える鼻腔を掠めたのは、あの紅茶の比ではない、脳を狂わせるほどに甘く、狂おしい香気だった。
どろりとした甘みが舌を焼く。
人間としての凄絶な拒絶と、吸血鬼としての根源的な歓喜が、ユアンの身体の中で激しい火花を散らした。
視界の端には、何の罪もない国家憲兵の隊長が横たわっている。
自分を無理やり覚醒させるためだけに、ただそれだけのために、彼は玩具のように屠られたのだ。
物心ついてから、泣いたことなど一度もなかったというのに、ユアンの視界は大粒の涙で歪んだ。
「お辞めください! 泣いていらっしゃるのが見えないのですか!」
突如として、激しい怒声とともに人影が飛び込んできた。
ジャックの手首が跳ね上げられ、血のなみなみと注がれたグラスが宙を舞う。少し離れた床の上で、ガシャンと硝子が派手に砕け散る高い音が響いた。
黒いメイドドレスの裾が激しくはためく。白いヘッドドレスから溢れ出た鮮やかな赤毛が、視界のすべてを塞ぐようにユアンを覆った。
ユアンよりもひと回り小さな、けれど温かい身体が、彼の頭をきつく抱きしめ、庇っている。
「……ポーレット、私とて心苦しい。しかし、主を正しい道へとお導きするのも我らの役目」
赤毛の隙間から、衝撃でたたらを踏んだジャックが、ゆらり、ゆらりと、執念深くその骨と皮ばかりの長い手を伸ばしてくるのが見えた。
ポーレットがさらに強くユアンの身体を抱きしめた。
その小さな身体から伝わる肉体の震えは、まるで雛を守る母鳥のそれであり、同時に、世界のすべてを敵に回すことも辞さない決死の拒絶そのものだった。




