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十二話 ――最初の眷属――




 

 ブーダン・ノワール――鉄錆の匂いがする豚の血と脂のソーセージに、安物の赤ワイン、そして乾いたプルーン。

 

 吸血鬼の眷属にとっての最上の滋養強壮であるお決まりのプレートが、枕元のサイドテーブルに無造作に置かれていた。

 

 口の利けない大柄な男と、今にも干からびそうな屍のようでありながら、その双眸だけをぎょろぎょろと不気味に蠢かせている五月蝿い老人が、食事を監視するかのようにベッドの向かいの椅子に腰掛けている。

 

「ロジェ、お前……坊っちゃんに乱暴を働いたな」

 

 這ってでも早く快復したいのが本意であったロジェは、上体を起こすだけで激しく明滅する視界を瞬かせながら、無言でソーセージを荒々しく噛みちぎった。

 

「……やりたくてやったわけじゃない。あの夜は、そうでもしなければ、血をすべて吸い尽くされて、干からびて死ぬところだった」

 

 死に損ないの老料理人ギャスパルは、孫である庭師ステファンの頑強な肩に支えられながら、深いため息を漏らした。

 

「お前は私どもから見れば、まだ乳臭い赤子のように若い……。そんな未熟者に坊っちゃんの未来を委ねねばならんとは、ああ、嘆かわしい」

 

 命の灯火が消えかけているというのに、この老人の口だけはよく回る。

 

 苦しげに肩を落とす祖父の姿に、ステファンはただ静かに伏目を勝ちにした。


 その沈黙の瞳の奥には、濁った寂しさと、静かな諦憬がじわりと滲んでいる。

 

「ならば、ユアンにまた血の契約を結び直してもらえばいいだろう。そうして、今まで通りここで皆で生活すればいい。それだけの話だ」

 

 リリ・ヴォルテーヌが不意の死を遂げてからというもの、この屋敷の使用人たちが一様に自らの死を淡々と受け入れているような、腑抜けた顔がロジェは気に入らなかった。

 

 この世の吸血鬼は、何もリリ一人ではない。


 ユアンはまだ幼くとも、気高く立派な吸血鬼の血を引いている。その血の甘美さに魂まで魅了されたロジェの存在こそが、何よりの証明ではないか。

 

 ロジェは、人間の血を模したかのように禍々しく赤いワインを喉へと一気に流し込んだ。

 

 ユアンがまだ未成熟だからか、あるいは何らかの儀式的な条件が欠けていたのか。


 あの夜の吸血において、正式な主従の契約には至らなかった。


 ならば、自分がいち早く動ける身体を取り戻し、この崩壊しかけた屋敷を強引にでも立て直す必要がある。

 

 あの超人的な十人力の働きを見せる老執事のジャックも、きっと同じことを考えて動いているはずだ。

 

「ロジェ、家令のバルバラを見ていれば分かるだろう……。この屋敷はもう、終わるのだ」

 

 ギャスパルの擦れた声が鼓膜を叩いた瞬間、ロジェの背筋にひやりとした悪寒が走った。

 

 バルバラ。この屋敷の使用人の中で、屋敷の一から十まで知り尽くして手のうちに収めなければ気の済まない老執事のジャックが決して逆らおうとしない唯一の存在。


 おそらくはリリ・ヴォルテーヌという吸血鬼を誰よりも知り尽くし、幾百年という最も長い暗闇を共に生き永らえてきた最古の眷属。

 

「……だからこそ、お前が坊っちゃんの唯一の頼りなのだ。お前が坊っちゃんを守り、この先にある永劫の時間を共に歩まねばならん」

 

 老獪にして重々しい声音は、ロジェの反論の意思を綺麗に削ぎ落としていく。

 

 ロジェとて、この排他的で美しい箱庭での生活を、歪な家族たちを、深く愛していた。

 

 ***

 

 物心ついたその瞬間から、ロジェという人間の世界の中心には、常にユアンがいた。

 

 まだ明確な主従の身分すら定まっていない幼少期は、年の離れた兄のように。


 そして正式に侍従の任に就いてからは、朝の起床から食事の給仕、夜の就寝に至るまで、文字通り心を砕いてその身の世話を焼いてきた。

 

 己の生き方に、不条理な疑念を抱いたことなど一度としてない。

 

 ユアンという存在の、人生の始まりから終わりへと至るすべての瞬間に、最も近い隣に侍ること。


 それこそが、ロジェにとっての至上の幸福であり、存在理由のすべてだった。

 

 ***

 

 ―ギャスパルとステファンが死んだ。首切り心中という最悪の形で。

 

 高級な絨毯が剥がされ、赤黒いシミの残る剥き出しの木床と、拭き清められた漆喰の壁。


 主を失った簡素な使用人部屋は、以前よりも一層寂寞として見えた。

 

 部屋の隅に置かれた、血糊を綺麗に拭き取られた大鎌には、痛々しい刃こぼれの跡が刻まれている。


 人間の首の骨というものは、鋭利な鋼の刃物をここまでなまくらにする程度には硬いらしい。

 

 彼らとこの薄暗い屋敷で過ごした、果てしない日々の記憶が脳裏をよぎる。


 不器用で、口うるさく、偏屈な変わり者だった彼らは、ロジェにとって紛れもない家族だった。

 

 つい数日前まで、互いに憎まれ口を叩き合っていたというのに。別れというのは、呆気なく、酷く乾いている。

 

 ロジェは胸の奥底にぽっかりと穿たれた暗い空洞を埋めるように、無性に、狂おしいほどにユアンの顔が見たいと思った。

 

 もう目眩はしない。


 死にゆくギャスパルとステファンが、最期に遺してくれた看病のおかげで、その肉体は見違えるほどに復調していた。

 

 まずは身形を整えよう。主人の横に立つに相応しい、完璧な自分を取り戻す必要がある。

 

 ロジェが身支度のために踵を返した、その瞬間だった。

 

 振り返った先、開け放たれた扉の境界に――いつの間にか、バルバラが音もなく佇んでいた。

 

「ロジェ。その刃こぼれした鎌を持って、私についてきなさい」

 

 バルバラの顔色は死人のように青白く、その切れ長の目の下には色濃い死の影が落ちていた。


 しかし、その泰然とした圧倒的な立ち姿だけは、ロジェが幼い頃から見上げてきた家令の姿と、寸分の狂いもなかった。

 

「……はい」

 

 部屋から出てきたばかりのロジェは、まともな上着すら羽織っていない軽装で、未だ顎の髭すら当たっていなかった。


 しかし、有無を言わせぬバルバラの峻烈な拒絶の気配に抗う術はなく、ただ鈍く光る大鎌をその手に握り締め、真っ直ぐに背筋の伸びた彼女の後ろ姿を追った。

 

 奥様が逝き、ステファンが逝き、ギャスパルが逝った。

 

 廊下には見慣れた豪華な調度品や古典的な絵画が整然と並んでいるというのに、三人の気配が完全に消え失せた屋敷は、まるで巨大な棺桶のように物寂しい。


「貴方は、私と同じです。初めの一人に選ばれた存在」


 声はずっと遠くから聞こえるようだった。バルバラの姿は目の前にあるというのに、不自然に響く。

 

 常に余裕を崩さない家令のいつもより明らかに急ぎ足なその足取りが、ロジェの胸の心音をドクドクと不吉に大きくしていった。


「奥様は坊っちゃんに同じくらいの年の眷属を宛てがってやりたいと貴方を孤児院から連れ帰ったのですから……私といつまで経っても親子に見られていた事が寂しかったからと、」

 

 言葉は中途半端に空に散った。

 込められた寂しさは波紋のように広がって、背を向けるバルバラが涙を流しているようにロジェは思った。

  

 辿り着いた食堂の周囲には、耳が痛くなるほどの異常な静寂が張り詰めていた。


 その奥から、低く地を這うようなジャックの狂気を孕んだ声音が、途切れ途切れに漏れ聞こえてくる。

 

 重厚な扉の影でピタリと足を止めたバルバラの横顔が、かつてないほど険しく、鋭く引き締まった。

 

 ロジェは彼女の視線にならうようにして、そっと食堂の隙間から中を覗き込んだ。

 

 視界に飛び込んできたのは、ジャックの歪んだ背筋が、亡霊のようにゆらゆらと揺らめく影。

 

 そしてその奥――見慣れた黒いメイドドレスと、鮮烈な赤毛。

 

 ポーレットが、自らの身体を盾にして、必死に何かを背後に守り抱え込んでいる。

 

 ――ユアン?

 

 ポーレットの華奢な肩の隙間から、取り乱した銀髪がちらりと覗いた。

 

 恐怖に怯え、見たこともないほどに涙を潤ませて身を竦ませている、愛おしい主人の瞳。

 

「……行きなさい、ロジェ」

 

 背後から、バルバラの冷徹な、しかし確かな信頼の乗った手が、ロジェの背中を強く押し出した。

 

 瞬間、ロジェの脳内は真っ赤に染まり、衝動で満たされた。

 

 考えるよりも早く、考える隙など微塵もなく。

 ロジェは、握り締めた刃こぼれの大鎌を、ジャックの背へと向けて全力で振り抜いていた。

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