十三話 ――布を泳ぐ針――
吸血鬼は子育てをしない。その生態は、鳥の托卵に酷似している。
端麗な人間の子供に擬態した幼き異形は、本能の命ずるままに自ら親となる人間を選び、微弱な魅了の魔力をもってその無償の愛を搾取する。
身体が成熟し、獣の本能がその牙を剥くまでの退屈な猶予期間――彼らは無垢な子供の皮を被り、人間社会の法と営みを学ぶのだ。
だが、植え付けられた本能はいつか必ず芽吹き、血の花を咲かせる。
やがて、老いゆく人間の輪の中には到底留まれないほどの歳月が経ち、真の化け物として完成する。
いまやヴォルテーヌ家の家令を名乗るバルバラが、その親に選ばれたのは――リリ・ヴォルテーヌが、まだ名もなき銀髪の孤児であった、はるか中世の時代だった。
当時、優秀な針子であったバルバラは、ひと回り歳の離れた仕立て屋の主人と婚姻を結んだ。
愛というよりは、彼女の類稀なる裁縫の腕を見込んでの、職人同士の利害の一致にすぎない。
周囲の人々と何ら変わらぬ、ささやかな人間の人生。それが崩れたのは、婚姻の翌年の冬、主人が流行り病であっけなく世を去ったときだった。
驚くようなことではない。もう何百年も昔の話だ。
科学や医学など存在せず、呪いや薬草の知恵が世界のすべてだった、まだ若い文明の夜明け。
人間の命など、冬の寒さ一つで簡単に吹き飛ぶ時代だった。
仕立て屋の従業員たちは、若き未亡人となったバルバラを慕った。
「どうか亡き夫の跡を継ぎ、女主人として店を切り盛りしてほしい」
そう懇願された彼女は、針一本握れない夫の親戚連中よりも適性があると見なされ、未亡人ながらも忙しく充実した日々を送るようになる。
そんな折に、彼女はその幼い孤児と出会ったのだ。
吹き溜まりのスラムにぽつんと立ち尽くす、月の光を浴びたような銀髪の子供。
そのあまりの美しさに、バルバラは得体の知れぬ恐怖を覚えながらも、それを遥かに凌駕する母性的な好奇心に駆られ、思わずその小さな手を取ってしまった。
未亡人が身寄りのない孤児を育てることは、教会の教えにおいても尊き善行と称賛され、何より労働力を得るという意味でも合理的であった。
バルバラは、その空っぽの瞳をした少女にリリという名を与えた。
言葉を教え、文字を教え、布地を泳ぐ針の扱い方を教える。
不器用なリリはよく指先を針で突き刺し、ぷくりと滲む真紅の血の玉を、誇るようにバルバラへ差し出した。彼女は愛おしい我が子の指先を、何度も優しく舐め取ってやった。
その血が、自らの肉体をじわじわと変異させていることなど知る由もなく。
バルバラの胸中で、偽りの母性は肥大化していく。そして腕の中で眠るリリは、いつしか恐ろしいほどの麗人へと成長を遂げていた。
リリの裁縫の腕は一向に上がらなかったが、そんなことはどうでもよくなっていた。
情勢が大きく揺らいでいたからだ。
国中に恐ろしい病が流行し、遠方では戦争が始まるとの噂が、暗雲のように広がっていく。
それでもバルバラの世界の中心には、常にリリがいた。
***
やがて、人々が身体中に不吉な「黒い斑点」を浮かべ、バタバタと死に絶えていく中、バルバラはついに、自身と我が子の異常性に気がつく。
自分たちの身体だけが、あの残酷な時の流れから完全に置き去りにされている。
時を止めた二人の化け物は、何世代にもわたって人間の死と交代を見届けながら、偽の身分を転々と渡り歩いた。
病と戦乱の泥濘から逃れるようにして辿り着いた郊外の領地には、古い血統を誇る貴族、ヴォルテーヌ卿がいた。
リリはバルバラの預かり知らぬ間に、その美貌でヴォルテーヌ卿の懐へと滑り込み、彼の全存在を狂わせるほどの寵愛を得ていた。
リリと顔の似ていないバルバラが、彼女の影として傍に仕え続けるために、貴族の女中の真似事を始めたのもこの頃である。
二人はヴォルテーヌ卿の格式高き屋敷を新たな塒と定め、その魔力を用いて、中にいる生身の使用人たちをじわじわと、誰にも気づかれぬよう「夜の眷属」へと入れ替えていった。
それからの一世紀と少しの間は、外の国々がフランス革命の炎に焼き尽くされ、ナポレオンの戦争で血を流しているとは到底信じられないほど、この屋敷の中だけは贅沢で穏やかな時間が流れていた。
吸血鬼の肉体とは、実に便利なものだ。
数週間に一度、新鮮な人間の血を啜りさえすれば、何日もの間、飲まず食わずでその美を保ち続けられる。
時折、屋敷に迷い込んでくる軍人や徴税官、貪欲な悪徳商人たちは、すべてリリを生かすための餌へと姿を変えた。
そして主となったリリの血を分け与えられることで、バルバラら下僕たちもまた、永遠の若さを保っていた。
戦乱のドサクサに紛れてヴォルテーヌの貴族籍を完全に奪い取り、名実ともにリリ・ヴォルテーヌとなった頃。
戦火から逃れて郊外へ落ち延びてきた高齢の宮廷料理人ギャスパルと、その孫のステファンを拾い、眷属に加えた。
孫のステファンは、砲火の中で喉を焼かれ、言葉を発することができなかった。
ろう者であることをリリが気にするはずもなかったが、料理人のギャスパルは、大柄な孫の隣に立ち「声なしですが力持ちです。庭の景観を整える仕事を与えていただけないでしょうか」と嗄れた声で懇願した。
やがて19世紀を迎え、長い戦争が終わると、人間たちは狂ったように自らを飾り立て始めた。
絵画から抜け出してきたかのように大げさに膨らむクリノリンのドレスや、妖精の爪先を模したかのように、複雑な渦を巻く細工物の革靴。
人間は、人間という枠組みそのものを逸脱しようと足掻いている――煤煙を上げる近代都市を見つめながら、バルバラは気味の悪い世の中になったものだと、冷ややかに世俗を観察していた。
そして、退屈を持て余したリリが、夜の社交界へと頻繁に繰り出すようになったのもこの近代の足音のせいだった。
頬に人間らしい偽りの化粧を施すリリのために、バルバラは何も言わず、かつての針子としての腕を振るい、夜会で最も輝くドレスを仕立ててやった。
そんな夜遊びの果て、ある嵐の晩にリリが教会の祭壇から連れ帰ってきたのが、あの偏執的な老執事ジャックだった。
型に拘る老執事が体裁を整えるため、バルバラを便宜上、家令という役職で扱い出したのもこの時分である。
***
そして――とある満月の夜、リリはユアンを産み落とした。
かつてのリリに酷くよく似た、銀髪の美しい赤子を取り上げた瞬間、バルバラは胸の奥から湧き上がる激しい震えに、幾百年ぶりかの涙を流した。
リリは、人間性の欠片もない気まぐれな仕草で、気付け薬のように自らの血を幼児の唇に含ませ、ユアンを育てた。
かつて人間として子を育てようとしたバルバラの目から見れば、それは到底子育てとは呼べない、野生動物の営みに近かったが、ユアンは夜泣きをすることもなく、ただ天使のような寝顔で静かに眠り続けた。
だが、その奇跡の誕生と引き換えに。
バルバラだけは、明確に気づいていた。
ユアンがこの世に生を受けたその瞬間から、これまで何百年も凍りついていたリリの時間が、音を立てて動き出してしまったことに。
肉体の老いの始まり。
あの絶対的な吸血鬼リリ・ヴォルテーヌの死という名の終焉は、他でもない、我が子ユアンの誕生と共に、すでに静かに、不可逆の秒針を刻み始めていた。
天使のような赤子をあやしながら、バルバラは既に長い、長い夜が明けることを悟っていたのかもしれない。




