十四話 ――主従の誓い――
己の無力を嘆く間など、世界は与えてくれなかった。
視界を侵す血の赤と、己を包み込むポーレットの柔らかな身体。
屋敷の執事として使命を全うすると、形振りを捨て去った亡霊のようなジャックの手が、無作為な動作で伸びる。
その向こう側に、いつだって傍にいてユアンを守り慈しんできたロジェの姿が不意に現れた。
力強く木床を蹴り、その大鎌を振り下ろしたロジェの動作に、一片の躊躇もなかった。
深く、あまりに深く、ジャックの背へと突き刺さった弧状の鋼が、肉を裂き、骨を砕くバキバキという鈍い不協和音を食堂に響かせる。
老執事の肉体は、およそ人間の構造では不可能な角度と方向へ歪にねじ曲がり、大木が根元からへし折れるかのように、ゆっくりと、しかし重々しく床へ伏した。
ようやく呼吸を取り戻したロジェが、肩を大きく上下させて荒い息を吐き出す。
その双眸は、床に頽れたジャックの屍を、なおも油断なく、冷徹に見下ろしていた。
ポーレットが、極限まで強張らせていた身体をゆっくりと解いていく。
「……死んだの?」
掠れた声で紡がれた問いに、ロジェはただ重苦しい沈黙をもって応えた。
そして、彼女の影に隠れるようにして震えていた、ユアンの姿を凝視する。
「ユアン! ……怪我はありませんか」
駆け寄ったロジェの手袋が、ユアンの青白い唇にこびりついていたラポルト隊長の血痕を、痛惜の念を込めてその皮膚の下に、傷ひとつないことを確かめるように拭った。
「ジャックが……私を傷つけるはずがないだろう」
ユアンは、自らの口から漏れた声が、思っていたよりもずっと弱々しく、哀れに震えていることに愕然として俯いた。
「分かっています。この屋敷の使用人は、何よりも貴方を、ユアンを大切にしていた。それだけは、決して間違いありません」
ロジェは主人の動揺と哀傷をすべて汲み取るように、酷く穏やかな声音で囁きながら、ユアンの両腕を縛り付けていたシルクのテーブルナプキンをナイフで断ち切った。
極上の絹を噛ませていたがゆえに、ユアンの手首には、手荒な縄跡すら残っていなかった。
ユアンは解放された己の両手を見つめ、その視線の先で、力なく、物言わぬ肉塊と化したジャックとラポルトの姿を、もう一度だけ、網膜の奥底に焼き付けるように見つめた。
「ここはあまりに血腥い。移動しましょう、坊っちゃん。お召し物も変えなくてはなりません」
いつの間にかドアの影から音もなく姿を現した家令バルバラは、自ら膝を折り、二人の遺体を静かに仰向けに寝かせると、その見開かれた瞳をそっと掌で閉じさせた。
目の前の凄惨な現実を前に、言葉を失って座り込むユアンを、ロジェが静かに支え起こす。
労るように己の背へと回された侍従の腕のぬくもりに、ユアンはようやく自らの足で立ち上がり、かつて愛した者たちの遺体に背を向けた。
「ここは私が片付けます。ロジェ、ポーレットも。外へ出られる私服に着替えていらっしゃい」
バルバラの静粛な号令に、ロジェが振り返って短く頷いた。
廊下へと続く二人の足音を後ろに聞きながら、ユアンはぐったりと首をうなだれ、ただロジェの差し出す手に、身のすべてを委ねていた。
***
ヴォルテーヌ邸の広大な玄関口。
高窓のステンドグラスから差し込む極彩色の陽光が、暗い絨毯の上に、まるで神聖なモザイク画のような影を落としていた。
階段を下りた先には、すでに旅装を整えたバルバラが、凛と佇んでいる。
その足元には、古びた革製のトランクが二つ、ひっそりと置かれている。
ユアンは思わず、胸の奥で固唾を呑んだ。
バルバラは、身綺麗になったユアンをそっと、壊れ物を扱うように抱きしめた。
そして、ポーレットの手によって短く切り揃えられたばかりの銀髪を、愛おしそうにさらりと撫でる。
「坊っちゃん、私は貴方がこの世に産まれてきてくださったとき、どれほど嬉しかったか」
ユアンは縋るように、バルバラの背に両手を回した。
しかし、自分を包み込む家令の肉体は――思っていたよりも、ずっと小さく、そして、すでに凍りつくほど冷たかった。
「吸血鬼とは、美しく、優雅で、果てなき時間を生きる存在。坊っちゃん、バルバラは貴方の気の遠くなるような長い生の、ほんの刹那であっても、こうして傍にいられたことを、本当に誇らしく、喜ばしく思います」
これからも、共にいればいい。
ユアンは心の中でそう叫んだ。
しかし、喉が引き攣れて言葉にならぬまま、ただ瞳に惜別の涙を潤ませるバルバラを見つめ返すことしかできない。
ユアンはこの瞬間を少しでも記憶の底に残すためにバルバラを照らす光をなぞるように目に焼き付けた。
その柔らかな顔の輪郭も、少し垂れた眦も、微笑むと愛らしく浮かぶ笑窪も。
自分はこれから、途方もない長い生を生きるのだという。その終わりなき旅路の果てまで、この温もりをずっと、忘れないでいられるだろうか。
「貴方には、ロジェがおります。そして、もし宜しければポーレットもお連れください。とても聡明で強い子ですから、きっと貴方の助けになるでしょう」
衣擦れの手応えに振り返れば、背後にはいつの間にか、旅支度を終えたロジェとポーレットが並んで立っていた。
二人の瞳は痛々しく赤く充血し、濡れた頬が、ステンドグラスから降り注ぐ光を反射して妖しくきらめいていた。
バルバラはユアンからそっと身体を離し、主人の小さな手を、自らの両手で優しく包み込んだ。
「あとのことは、すべて私にお任せください、坊っちゃん」
国家憲兵の長たるラポルトが、この屋敷でジャックによって殺害されたのだ。この場所に留まることがどれほど危険であるか、ユアンとて重々理解している。
それでも、ヴォルテーヌの血に縛られた足は鉛のように重く、生まれ育った檻から踏み出すことを躊躇わせていた。
「……バルバラ」
ようやく割り切るように絞り出した声は、ひどく幼い子供のようで、ユアンはその途端、底知れぬ不安が胸の内に吹き荒れるのを感じた。
「……ありがとう。神の御前で、また会おう」
「ええ、また会いましょう。貴方のこれからの歩みが、仕合せに満ちたものであることを、心より願っております」
重いトランクを抱えたロジェとポーレットが、屋敷の重厚な正面扉を開け放つ。
外の世界は、まだ陽が高く、木々の緑が残酷なほど青々と輝いていた。
屋敷の、あの暗がりの中で起こった数々の凄惨な悲劇など、大いなる世界には何の関係もないとばかりに、ただ穏やかな風が吹き、白い雲が流れていく。
扉の前に立ち尽くすバルバラの姿を、ポーレットがたまらず振り返った。
彼女は荷物を床に放り出すと、脱兎のごとく駆け寄り、二人は壊れるほど強く抱擁を交わした。まるで、女同士の最後の秘密を囁き合うように、小さく、悪戯っぽく笑い合う。
ユアンはロジェと並び立ち、陽光の中で繰り広げられるその美しい光景を静かに見つめていた。
「ユアン。神の御前にゆく日が、これから何百年、何千年先になろうとも、僕は、ずっと貴方の傍にいる」
ロジェが、前を向いたまま、誓いを立てるように低く呟いた。
ポーレットは目にいっぱいの涙を溜めながらも、気丈に顎を引き、ユアンとロジェにその足並みをそろえた。
一歩、屋敷から離れるたびに、生い茂る木々が、呪われたヴォルテーヌの館を奥深くへと覆い隠していく。
薔薇のアーチを抜けて通りへ出ると、昨晩の雨を含んだ泥道が、歩くたびにユアンの靴底を重く濡らした。
少し開けた広場の粗い石畳には、黒い水溜まりがいくつも取り残され、丘下に並ぶ雨に濡れたスレート屋根の青黒い瓦が、陽光を反射させている。
人目につかない、古い道を行く。
不揃いな石畳をふらり、ふらりと歩く。石畳の隙間には昨晩の雨水が黒く血管のように張っている。
追い風が吹いた。
炎の吐息のように熱い風がユアンの背を押す。
背中にじわりと汗が滲む。
草木の弾ける音と、業火が空気を喰らい、木々を、そして彼らを焼き尽くし、空に手を伸ばす音がした。
振り向きはしなかった。
不安定な足取りを、一歩、また一歩と重ねてゆくことだけが、いまのユアンに許された、唯一の生きるということであった。
(第一章・完)




