エリクとして(エリク視点)
主人の気配が教室の奥へと消え、重厚な扉が静かに閉まる。その音を合図に、従者の顔を維持したまま、ゆっくりと踵を返した。
常に背筋を伸ばし、一分の隙もない歩調で回廊を進む。
「あれが公爵令嬢の地味な従者か」
「もっと見目の良い相応しい者がいそうだけど、何故あのような…」
雑音が少々多いけれど、特に気にはならない。彼らがお嬢様の側に仕えるなど到底あり得ないと分かっている。彼らには一生理解できないだろう。お嬢様が求めているのは、磨き上げられた宝石ではなく、ただの地味で人間らしい人間なのだ。
人のない回廊の影に身を置いた瞬間、肺の奥に溜まった熱を吐き出すように、長く、重いため息をついた。今だけは許されるだろう。お嬢様の発言はそれほど心臓に悪いものだった。
「自分の子を残す未来など、冗談ですらも考えたことがなかった。」
土まみれの私を、お嬢様が傍に置いて下さったあの日から。お嬢様に寄り添い、世話をする。それが使命と思って生きてきた。
これからも変わることはないと…。
貧しい家に生まれ、商家の働き手として売られるように出稼ぎへ出された。
物置が寝床で、食事は主の残り物。急な客人が来ても振る舞えるようにと、多めに作られた料理の残りはあったが、自分のような下っ端に回ってくる頃には鍋の底に少し。あとは主人達の残した歯型がついた食べかけくらい。
「主人と同じ料理が食べれるなんて羨ましいな!」と嘲笑うように目の前に残るそれ。食べ残しに、メインの肉は残るはずもない。彩りとして添えられた野菜と、メイン料理に掛けられたソースくらいだ。
だけど、居場所はここしかない。それに、貧しい自分の家よりはご飯が食べれた。
八つ当たりをされるけど、生きることは出来る。言われた仕事を必死でやって、生きることだけ考えるようにしていた。
ある日。
「今日はお貴族様のお屋敷に依頼品を運ぶ。粗相の無いように水浴びをしてから向かうぞ。」
年長者に頭から水を浴びせられ、ガシガシと痛いほどに体を洗われた。服も、支給された中では一番まともなものが与えられた。
(今日は、良い日かもしれない)
新しい支給品は、まるでご褒美を貰った気分だった。
そう思いながら、荷物と一緒に豪華なお屋敷へと足を踏み入れ、荷物を運ぶ。敷地内に植える木や花の苗と種を運んでいた時。「タラタラ歩くな!」という怒鳴り声と共に衝撃が走った。
泥の中に転がり、膝を擦りむく。それもいつものことだと荷物を拾い集めた。
その後だ。人生が一変したのは。
積んである荷物を指定の場所へ運ぶ。それを繰り返していたら、上質な服を着た年配の女性が近づいてきた。
「お嬢様が、子供を連れて来なさいと。こちらで働く子供は、この子だけかしら?」
周囲の大人たちは「何か粗相をしましたか!」と慌てふためき、俺を迷わず差し出した。連行される手首に伝わる力に恐怖を感じた。
「なんと説明したらいいか、…とにかくこの子を連れて行きます。責任者には後ほど連絡いたします。」そう言って手を引かれた時「折檻でもされるんじゃないか?」「おもちゃにして捨てるつもりだろう?」背後から投げられた心ない言葉に震え、奥歯を鳴らした。
(今日、死ぬのかも知れない。良いことがあったから…)
本気でそう思った。
無慈悲と名高い商家の主が、最大限に気を遣う相手だ。この屋敷の人たちは恐ろしい人間に違いないと。
重厚な扉の向こう側へ押し込まれると、猛獣が居ることを覚悟すらした。
しかし、そこにいたのは想像したものと真逆の存在。見たこともないほど美しい、けれど震える仔鹿のような瞳をした少女がいた。
「お願い……私の側にいて欲しいの」
彼女が泥まみれの袖を必死に掴んだ瞬間、この人を助けたいと思った。
◇ ◇ ◇




