不幸な結婚をしたならば。
馬車の車輪が石畳を叩く音だけが、やけに大きく響く。
やがて、エリクが静かに腰を浮かせた。狭い馬車の中で、彼は私の足元に跪く。
「お嬢様」
呼ばれて恐る恐る視線を彼に戻す。
見下ろした先にあったのは、労働を知る者の指先と、自分だけを見つめる穏やかで「地味」な瞳。
「私がこれまで、何を糧にその『完璧な従者』に近づこうとしてきたとお思いですか」
エリクの声は低く、けれど馬車の振動にさえかき消されない。
「お嬢様がどこのどなたの元へ向かおうとも、私がそばを離れることはございません。それが、私の唯一の使命でございます」
エリクは私の震える手のひらに、触れるか触れないかの距離で自らの手を添えた。
「密かに潜り込んででも、私は必ずお嬢様の傍に参ります。」
その言葉に、胸の奥を締め付けていた冷たい氷が、音を立てて溶けていく。
「……ふふ。密かに潜り込むだなんて、不穏なことを言う従者ね」
私が、いつもの笑みを取り戻すことができた時、馬車が止まり静かになった。
外にはまた、眩しすぎる美しさと、不気味なほどに整った容姿の人々で溢れているだろう。そう思うと、この空間から出るのに少し勇気がいる。
「……ねえ、エリク。もし本当に私が嫁ぐのであれば、貴方の髪色と瞳の色によく似た殿方が良いわ」
唐突な言葉に、エリクがわずかに首を傾げた。その動作は、主人の意図を図りかねる従者としての純粋な反応に見えた。そんな彼を置いてきぼりにするように、再び視線を窓の外へと投げる。
「旦那様が不気味で、どうしても愛せなかった時……こっそりエリクと子を宿せば丸く収まるもの。瞳や髪色が似た子であれば、家の者にも疑われないでしょう?貴方に似た子なら、しっかり向き合えるわ」
とんでもない発言をした自覚はある。
だけど、暗闇で美しい人間と共にする時間を想像したら怖くて仕方なかった。
エリクはゆっくりと視線を落とした。膝の上に置かれた、白手袋に包まれた彼の手が、一瞬だけ強く握り込まれる。
彼は何かを言いかけ、喉の奥でその言葉を飲み込むように、一つ、深く喉を動かした。
それは、主人のあまりに奔放な発言への困惑か。あるいは、道具のように扱われることへの静かな不快感か。完璧な表情を崩さぬ彼の胸中は、誰にも読み取れない。
「お嬢様」
やがて彼が発した声は、先ほどまでと変わらぬ、静かで落ち着いた低音だった。
「……随分と、私を買い被っておられるようでございます。私はただの、つまらない従者。お嬢様の血筋を繋ぐ一助となれるほどの器ではございません」
「買い被ってなんていないわ。それに、もしもの話よ……どうかしら、私の名案は?」
軽く首を傾げていう。すると、主人の奔放な言葉を受け止めた彼は、静かに距離を詰め、その場に両膝をつく。
「お嬢様の不安を払拭するためであれば、私はどのような汚名をも引き受ける所存です。……ですが、まずはその必要がないほどに『人間らしい』殿方との縁をお探しするのがよろしいかと。」
返ってきたのはただ、波風を立てぬよう処理する、完璧な従者の対応だった。
「……ふふ、やっぱり貴方、可愛い少年だった頃とは大違いね。そんな風にさらりとかわして」
「お嬢様が、私をそのように教育なされたのです」
エリクは再び、何事もなかったかのように定位置へと戻り、学園に到着した際に主人の手を引く準備を始めた。
そうね――私が貴方を「理想の存在」として育てたの。
◇ ◇ ◇
本日の投稿は終わりにします。また明日も何話か投稿予定です。もし、よろしければブックマークや☆評価を頂けますと更にやる気出ます!よろしくお願いします。




