トラウマの正体。
パタン、と静かに扉が閉まり、エリクの気配が部屋から完全に消え去った。
私は一人、ベッドの端に腰掛けたまま、先ほど彼に握られていた自分の手を見つめていた。
お父様の執務室での、あのやり取り。
お父様はきっと、最初からエリクを『駒』として使うつもりだったのだ。だから私とエリクの関係を容認していた。
お父様が私に向ける眼差しはいつだって温かいけれど、その外側にある世界に対しては現実的だ。
この感覚は、どこか覚えがある。
…
目を閉じて考えると、記憶の奥底から思い出されていくその出来事。
確か…あの日。
叔父様から贈られた不気味な人形のせいで部屋に引きこもっていた私の前に、泥まみれのエリクが連れてこられた後のことだ。
当時のお父様は、怯える私に扉を隔ててこう言った。
『ロザリアナ。人形が怖くなくなるまで、その子供をお前の世話係とする。安心して過ごしなさい』
お父様の気遣いにホッと胸をなで下ろした。エリクは人形と違って温かく人間らしい人間だから。
けれど、それと同時に、私は子供心に一つの純粋な疑問を抱いてしまったのだ。
もし、私が人形を怖くなくなったら、エリクはどうなるのだろう?役目を終えた彼は、どこへ行ってしまうの?
不安で仕方がなかった私は、お父様に直接聞く勇気が持てず、お屋敷のすべてを取り仕切る執事長へ、こっそり手紙を書いて尋ねたことがあった。唯一頼れるエリクに手紙を託して。
しばらくして返ってきた執事長からの返答は、とても丁寧だけれど素っ気ないものだった。
『お嬢様の心配がなくなれば、その時はまた、お嬢様の傍に仕えるにふさわしい者が、新たな世話係となるでしょう』
幼いながらに悟った。この恐怖がなくなると、彼と共にいられないのだと。
その時。
コンコンッ
誰かが訪れたノックの音が聞こえる。エリクだろうか?…と扉に近づくけれど、いつものエリクならすぐに「お嬢様」と声をかけてくれるのだ。
それがない。
そんな違和感を持ったのは、扉を開けた後だった。
「…お兄様?」
そこに不機嫌そうな眼差しで私を見下ろすように立っているのはお兄様だった。
「やぁ、我儘な我が妹」
「相変わらずな言いようね、何しに来たの?」
「お前の忠実な従者が領地を取り返そうと命の危険に晒されているのに…その主は呑気に何をしているのかと思ってね」
その言い草の割にクスクスと楽しげに笑う兄。
久々の会話がこれだ。
私はパッと兄から視線を逸らした。
「お前のエリクが、今どんな状況か俺も聞いている。油断すれば処刑だ。そして成功すればエリクは従者じゃない。公子となってお前が結婚する。」
「そうね…」
「だから思ったんだ。いつまでトラウマなどと言って弱いフリをするつもりだ?ってね」
私は兄を睨んだ。
「フリなんかじゃ…!?」
そうして顔を上げた私の顎に指を添えて言う。
「ほら、見れるじゃないか」
目の前には、私と同じキラキラと輝く蒼い瞳。その視線が真っ直ぐ向けられる。兄は、両親から人形のように完成された美しい容姿を持っている。私と同じように…。
しかし、今あるのは目の前の兄に対するイライラとした気持ち。
その指から離れるように後ずさると、兄は笑った。自分の推理が当たったとでも言うようだ。
「お前はもう子供じゃないんだ。領主の妻として、アイツの傍に立つと言うなら子供じみた言い訳をやめろ」
「そうやって決めつけるなんて…お兄様は、そんな性格だから嫁の一人も来ないのだわ」
「縁談全滅のお前がよく言う」
「エリクがいるもの」
「なら、俺も使用人に手をだそうか?」
「エリクに手なんて出してないわ」
「怖いからと従者の背に引っ付いて歩く令嬢など、手を出したも同然だろう?」
私達の間にはバチバチと火花が散った。
公爵という地位にありながら、兄妹して婚約者もいないなんて前代未聞。しかし、そんな問題にはあえて考えない事にした。
「それに、俺は華やかな人間を見かけるだけでピーピー煩い奴のいるこの屋敷に、妻となる人を連れてくるなんて悪趣味なことはできない」
「本当に性格が悪いわ」
「さっきから、家族にもかかわらず俺の悪口が『性格が悪い』としか出てこないね。それがどれほど周囲に目を向けず来た結果か…重く捉えたほうがいい。」
「………」
何も言い返せない私を、お兄様は楽しげに笑った。
「お兄様は……エリクには珍しく友好的ね。こんな嫌いな私に嫌味を言いに来るほど彼を心配しているのでしょう?」
「彼はチェス仲間だからね」
私は内心で、それだけ?と感じた。それが表情から察したのかクスクス笑って説明してくれる。
「クイーンの駒があるだろう?あれを『ロザリアナ』としてエリクとチェスをするんだ。彼はそれだけでとても必死に、面白いチェスをする」
「悪趣味にも程があるわ…」
「妹の語彙力が増えて嬉しいよ」
お兄様は「じゃあね、それだけだ。」と言って去っていく。
「嫌味なお兄様…腹立たしい」
手袋を握りしめる手に、じわりと力がこもる。
私の恐怖心は、克服できないんじゃない。
彼を失いたくないから。
…私は。
今、彼を失わない為に私が出来ること。
私はすかさず手紙を書く準備を始めた。それは、エリクにではない。
叔父様に向けて、甘く、恋文のような…そんな内容だ。
◇ ◇ ◇




