自ら入る檻(公爵視点)
執務室で一人。
エリクの報告を受けて、我が弟のお花畑な思考が透けて見え、笑ってしまう。
そこへ、ロザリアナを部屋へと送り届けたエリクがやって来た。従者としての姿勢を崩さず私の言葉を待つ。従者へと意識が戻ったように見えるエリクは、音もなく跪いた。
私は椅子の背にもたれかかり、組み替えた指の隙間から、有能に育った「駒」を見下ろす。
「エリク。先ほどの計画についてだが……」
「はい」
私は視線を机の上の書類へと落とした。そこには、弟……私の忌々しい肉親が治める領地の地図が広がっている。
昔から、大嫌いだった弟。
あいつは生まれながらにして、周囲の人間に愛される天性の才能を持っていた。両親の視線は常に、甘え上手で愛嬌のある弟ばかりに向いていた。長男であるというだけで、私ばかりが部屋に閉じ込められ、帝王学を、歴史を、領地運営の退屈な数字を叩き込まれる日々。
どれほど努力しても、両親の口から出るのは「後継者なのだから当然だ」という冷淡な言葉だけ。対して、あいつがただ無邪気に笑うだけで、周囲の大人たちは皆、相好を崩した。あまりにも理不尽だった。
それなのに。
あいつはあろうことか、部屋で泥のように疲弊している私にまで、屈託のない笑顔で楽しい会話を振ってくるのだ。
お兄様、お兄様、と。
時に冷たくあしらっても、私の懐へ躊躇なく飛び込んできては、下らない冗談で私を笑わせようとする。不愉快極まりない男だった。
……そして、同時に、酷く面白い男でもあった。
憎いのに、どうしても心の底から憎みきれない。
そんな歪んだ感情のまま大人になり、公爵家を継いだ。前当主によって切り分けられたあの恵まれた土地を、あいつが放蕩の限りを尽くして腐らせていくのを見ているのは耐え難かった。
今や、公爵家一族の義務を果たさぬ愚か者。
何より許せなかったのは、あいつが私の大切な娘――ロザリアナの八歳の誕生日に、あの悪趣味な「人形」を贈りつけ、心を粉々に引き裂いたことだ。
軽弾みな行動で、どこまで舐めれば気が済むのか。
あいつに、報いを受けさせる。そのためにエリクを送り込んだ。
それは間違いない。
だが。
「エリク。お前は先ほど『娼館で自滅へ向かわせる』と言ったな」
「はい。あの方が自滅するよう、裏から仕込むつもりでございます」
「……あいつが病に冒され、惨めに苦しみながら死ぬことになることは避けたい。我が領地で病による死など汚点だ。善良な領民にまで移る可能性もあるからな」
あいつが病や、薬や、酒に溺れてボロボロになるような姿など私は、見たくない。
心の片隅にいる、あいつの兄としての自分が、それを拒絶している。あいつは最期まで、不愉快で、頭が軽くて、楽しそうに笑っている道化でなくてはならない。
忌々しい、兄としての呪縛か…。
昔、私を楽しませた弟の影すら今はないというのに。
「その娼館を……弟の『楽園』とせよ」
「楽園、でございますか」
エリクの瞳が、かすかに細められる。私は冷ややかに微笑んだ。
「そうだ。あいつが喜ぶような、この世のあらゆる快楽を詰め込んだ極上の巣窟。……あいつが自ら進んでその檻に閉じこもり、二度と表の現実へ出てこないように仕向ければいい」
あいつの大好きな『お遊び』の延長線上で、快楽の海に溺れさせ、そのまま優しく社会的に窒息させるのだ。
「領地運営の全権はお前が握り、あいつには『終身名誉当主』としての派手な生活だけを与えて飼い殺せ。あいつは満足して一生を終える。公爵家は恵まれた領地を無傷で回収できる。……これで文句はあるまい」
「……」
エリクはしばらく沈黙した後、静かに言葉を返してくる。私の傲慢な身内への情を、この平民の青年は瞬時に理解したのだろう。
「旦那様のご慈悲の深さ、恐れ入ります。……これ以上ない、優しい檻を用意いたしましょう」
深く頭を下げたエリクを見つめながら、私は浅く息を吐いた。
「…忌々しい、兄としての情。お前は愚かだと思うか?」
今はろくでもない弟だが、私の辛い幼少期で唯一の楽しい思い出には全てあいつがいる。それは解けない呪いのように私に残るのだ。
「いいえ、とても羨ましいものでございます。愚かなまま、終えられる人生など」
「……エリク」
「はい」
「ロザリアナとの婚約の件、書類は用意しておく。だが……あの子の様子は見ての通りだ。お前がただの『駒』で終わるか、それとも本物の『公子』として我が娘の隣に立つか……すべては、お前の成果次第だ」
エリクは顔を上げ、今度は主人の前であることも忘れ、野心を秘めた笑みを浮かべた。
「必ずや、最高の結果を持ち帰ってみせます。……お嬢様の、本当の婚約者となるために」
「ああ、お前が無事にアイツの息子となれば、私の甥だ。そしてロザリアナと結婚すれば息子となる。羨ましいと言った絆の仲間入りだな」
そう言うと、一瞬驚いたように目を見開いた。
「平民の私を、家族として受け入れるおつもりですか?」
「お前は、ずっと前からあの子の…娘の大切な存在だからな」
私は、エリクに視線を向けながら遠い過去を覗くように声をかけた。
「エリク、お前をだいぶ娘に縛り付けてしまったな」
「縛り付けられたなど…思っておりません」
即答するようなその言葉。それほどまでにあの子を愛してくれるのか…と、その意思を理解する。けれど、親として複雑な気分だ。
「お前を弟の領地へ向かわせた際、私は…お前がどの道を選ぶのか……と、考えていた」
「私に…道を選ぶ資格などありません」
そうして従順を装う彼は、やはり優秀な駒だと思わざるをえない。
「お前には道があった。このまま職務を放棄して逃げることも。ただの従者のまま終えることも。あの領地を裏で操り安全地帯で眺める事も。」
「………」
「しかし、お前はわざわざあの娘を……ロザリアナの傍に居ることを選んだ。どのような経緯かは知らないが、最終的に選んだ場所だ」
「………左様でございます」
その瞳には、相変わらず美しい輝きはない。しかし、底しれぬ何かを感じる。
「お前が、お前の意思でロザリアナを選んだ事に心から安堵している。」
そう言うと、彼は驚いた表情を見せていた。何をそんなに驚くのか。私はこれでもあの娘の父親だ。あの娘に何が必要であり、それが危険を犯してでもあの娘を望むのか知る必要があった。
「話は終わりだ、下がれ」
「失礼いたします」
一人残された執務室で、私はあいつから届いた手紙に火をつけ、暖炉へと落とした。
赤く燃え上がる炎を見つめながら、私はただ、あいつの楽しげな笑い声を思い出す。




