まさか婚約が成立するなんて。
…
エリクと婚約…
エリクと…
婚約
その言葉が頭をぐるぐると回り。
気がつけば自室にいた。
お父様はエリクと婚約なんて絶対に許さないと思っていた。だって、エリクが叔父様の子ではない、ただの平民だと言うことをよく知っているから。
「そ、そんな。そんなことってあるの?」
私はヘナヘナと床に崩れ落ちそうになった時、強い腕に支えられた。
「お嬢様?お気分が優れませんか?」
「え、ええ!?エリクまだいたのね!!」
慌てて言うと、エリクが困ったように笑う。
「申し訳ございません。お嬢様がしばし反応がなかった為、心配で」
そう思って彼の顔を見ると、ドキドキと激しい鼓動が聞こえる。それは紛れもなく自分のもの。
「エリクと…婚約するのね…」
「はい、お嬢様。現段階ではあくまでも書類上のものになりますが」
婚約者、エリクが。
そう思って彼を見る事が出来なくなってしまった。
…今まで、どう話していたのかしら。
ただでさえ、長く離れていた。だから余計に思い出すことが今は出来なかった。
「え、エリク。」
「はい、お嬢様。」
「下がっていいわ、お願い」
そう言うと、エリクは少し傷付いたような表情を見せ、すぐに笑顔を見せた。そして、部屋の外に出ようと私に背を向けた。
どうしよう、こんな事が言いたい訳ではなかったというのに。
「待って、エリク」
私はたまらず声を上げた。
彼が足を止め、ゆっくりと振り返る。その瞳に宿る、捨てられた仔犬のような微かな光が、私の胸を締め付けた。
「……どうかされましたか?」
「違うのよ。貴方を拒絶したかったわけではないわ」
私は視線を漂わせ、ドレスの裾を強く握りしめた。
まともに顔を見るのは、まだ心臓に悪い。けれど、今の言葉足らずな態度のままでは、彼との間に修復できない溝ができてしまう。
「私とエリクの間には身分差があるから……貴方が『婚約者』になる可能性を考えたことが無かったの。」
震える声で紡ぐ一言一言が、静まり返った部屋に落ちていく。
「それが、急に…気がつけば、貴方が私の『婚約者』になっていた。あまりに急で困惑しているの。どう接していいか、どんな顔をして貴方の側にいればいいのか、今の私には……まだ分からないの」
言い終えると、部屋は深い沈黙に包まれた。
やってしまった、という後悔が押し寄せる。身分差の話など、デリカシーが無い発言だったかも知れない。
けれど、返ってきたのは、かつての従者時代よりもずっと低く、柔らかな吐息だった。
「……左様でございますか」
エリクがゆっくりと、私の足元まで歩み寄る。
私は逃げ出したい衝動を必死に堪え、床を見つめたまま立ち尽くした。視界に入るのは、磨き上げられた彼の靴と、床に落ちる二人の重なった影。
「……身分差。ええ、私が一番よく理解しております。私は、拒絶された訳では無いと分かっただけで、安堵しております」
エリクが私の目線を合わせるように覗き込む。
「困惑させてしまい、申し訳ございません。ですが……」
彼はそっと私の手を取り、その甲に手を重ねる。
「私を婚約者として愛する必要はございません。旦那様は、この計画が成功するまでは、お嬢様を嫁がせる気がありません」
「そう、なの?」
「ええ、しかし」
見上げた彼の瞳には、傷ついた影など消え失せていた。
そこにあるのは、私を逃がさないという決意と、すべてを包み込むような深い慈しみ。
「計画が成功したなら、貴女は私と結婚する事になるでしょう。それは変えることができません。旦那様の意向です。」
さっきは、あくまでも書類上の…と言っていたように思えたけれど……。突然のことだったから、心の準備をするためのお父様の配慮?だろうか。エリクが正式に養子として迎えられれば、私達が結婚することで無駄な争いなく領地を得られるのは確かだもの。
「……ええ、分かっているわ」
そうしてなんとか言葉を返す。私の顔は、きっと林檎のように赤くなっていたに違いない。
結局、彼を追い出すことなどできず、私はただ、握られた手から伝わる彼の熱をいつまでも拒めずにいた。
◇ ◇ ◇




