傷を治したい。
ずぶ濡れのまま、エリクは静かに私を見つめ続けている。
「優秀な従者が、こんなにもぼんやりとするなんて珍しいわ」
これ以上、その妙に諦めたような、それでいてすべてを委ねるような瞳で見つめられるのは気恥ずかしい。
「いっそここで、貴方もお風呂に入ってしまいなさい」
半分は、私のせいにして勝手に落ちてきた彼への意地悪。もう半分は、ずぶ濡れのまま私の世話を続けさせるわけにはいかないという、主人としての配慮のつもりだった。
「お嬢様、それは流石に」
「命令よ。ほら、早くその濡れたシャツを脱ぎなさい。重くて敵わないでしょう?」
躊躇するエリクの言葉を遮り、私は自ら手を伸ばして、彼のシャツのボタンに指をかけた。濡れて肌に張り付いた生地は思いのほか固く、私の不器用な指先ではなかなか外れてくれない。
こんなボタンすらも、彼に依存していたのね…私は。
一つ丁寧に外し、はだけた白い生地の隙間から、彼の胸元が露わになる。
「……これは?」
私の指が、彼の鎖骨の少し下あたりで止まった。
そこには、ごく小さな、けれど確かに周囲の肌とは違う質感の薄い傷跡が残っていた。服に擦れてできたようなものではない。何か尖ったものが、過去に彼の肌を傷つけた名残だ。先ほど触れた頬の傷よりも、少しだけ生々しさを残しているように見えた。
「……何でもございません。ただの古傷でございます」
エリクは衣服を整えようと身を引こうとしたが、私はそれを許さず、じっとその傷跡を見つめた。そして、ふと思い出す。
「確か、私の肌に傷を見つけた時に塗る薬があったわね? アレはどれ?」
湯から少し身を乗り出し、先ほどまで私を悩ませていた小瓶たちを指差した。
「お嬢様、あれは貴方様の高貴な肌のための薬でございます。私のような者の古い傷に用いるようなものでは」
「私がどれかと聞いているのよ。答えなさい」
語気を強めると、エリクは小さく溜息を漏らし、「……左から三番目の、琥珀色の丸い瓶でございます」と静かに告げた。
私は縁に手をかけ、少し体を乗り出してその琥珀色の瓶を手にとった。蓋を開けると、 ほんのりと甘い、薬草の香りが湯気に混ざって広がる。
指先に少しだけその滑らかなクリームをすくい取り、私は再びエリクの前に戻った。そして、彼の胸元に残る小さな傷跡へ指を滑らせる。
「お嬢様……」
エリクの身体が、微かに強張るのが伝わってきた。私の指先から伝わる湯の熱か、それとも薬の冷たさのせいか。彼は拒むこともできず、ただじっと、自分の胸元を弄ぶ私の指先を見つめている。
「大人しくしていなさい。治るかどうかは分からないけれど、塗らないよりはマシでしょう?」
円を描くように、優しく、丁寧に薬を馴染ませていく。完璧な独り立ちはできなくとも、これくらいのことなら私にだってできる。
沈黙の中、衣服が擦れる音と、微かな水音だけが響いていた。やがて、エリクが低い声で、ぽつりと問いかけてきた。
「……お嬢様は、私の傷も『人間らしさ』として好まれているのではありませんか?それを消したいとお考えなのですか?」
その言葉に、私は指を動かしたまま、ふっと小さく鼻で笑った。
「貴方の傷跡は好きよ。生きている証みたいなものだもの。人形にはあり得ないものだわ」
私は指先を離し、彼を見上げた。
「でもね、これがエリクにとって辛い思い出なら、傷と一緒に消えてくれないか…と思うのよ。少なくとも、その思い出を思い出す機会が減るわ」
完璧に見える従者が、私の知らない場所で負ったかもしれない痛みの記憶。それが、この小さな跡と共に消えてしまえばいいのにと、本気でそう思ったのだ。
私の言葉を聞いたエリクは、驚いたように微かに目を見張った。そして、琥珀色の薬が塗られた胸元に手を当て、何とも言えない、酷く揺らいだ眼差しを私に向ける。
さっきから…私を見すぎで居心地が悪いわ。
「そうだ、腕の傷にも…」
「それは、なりません。お嬢様」
腕にもあった細く長い、その傷跡にも薬を塗ろうと思ったのだけど止められてしまった。さっき薬を塗った傷と何が違うのだろう?不思議に思いエリクを見ると、酷く優しい表情を浮かべていた。
そして、困ったように眉を下げる。
「これは、お嬢様を初めて野良猫からお守りした勲章でございます」
その言葉に思わず吹き出してしまった。
「ふっ、あははっ。あったわね。私が庭に迷い込んだ子猫を触ろうとして、母猫に襲われたのよね。すぐに子猫から手を離したのに…全然許してくれないの」
「はい、とても手強い母猫でした」
相手が野良猫だったものだから、その爪から与えられた傷口は酷く腫れ、なかなか治らない傷だったような気がする。
笑いながら、良い思い出が残る傷もあるのだと知った。
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