私の世界。
やがて、規則正しいノックの音が響き、エリクが戻ってきた。
「失礼いたします、お嬢様」
手際よくテーブルに並べられたのは、氷のぶつかる音が涼やかなアイスティー。彼は先ほどまで私を押し倒していた男とは思えないほど、いつも通りの「完璧な従者」の顔に戻っていた。私はその姿をベッドに横たわりながら暫く観察したけれど…やはりいつものエリク。せっかく準備をしてくれているし、仕方なくノロノロと起き上がり椅子に座る。
「……どうぞ。」
グラスを取り、一口喉に流し込むと、私の頭も少しだけ冷静さを取り戻した。
無言のまま飲み進める私の傍らで、エリクは黙って控えている。
だが、その視線はどこか遠く、いつもの彼よりもずっと深く気持ちが沈み込んでいるように見えた。
「……お嬢様」
「なにかしら」
グラスを置き、彼を見る。
エリクは一度視線を伏せ、それから意を決したように口を開いた。
「先ほど、お嬢様が裏口で私を見つけられた際……私のことを『最悪、臭い』と仰いましたね」
その言葉を反芻するように言うエリクの顔には、悲しみではなく安堵が現れているように見える。
「……ええ、言ったわ。あの女の移り香なんて、貴方には似合わないのよ」
「はい。……あの時、私は血の気が引く思いでした。あぁ、これで私はお嬢様に捨てられるのだと。もう、隣にお仕えすることは叶わないのだと。……絶望しておりました」
エリクは自嘲気味に、ふっと息を漏らす。
「ですが、今こうして清めた私に入室を許可して下さいました。そして、再び触れて下さった。心底安堵しております」
酷く彼を不安にさせたと反省する。私の行いは、あまりに身勝手だった。
「エリク」
「はい、お嬢様」
「私は、エリクが思っている以上に貴方を大切に思っているわ」
私の言葉に、エリク表情がふっと柔らかくなる。
彼は深く頭を下げたまま、絞り出すような声で応じる。
「……もったいないお言葉でございます。私のような、地味で、何一つ華のない従者に……」
「貴方はなかなか端正な顔立ちをしているわ」
「そのように仰るのは、お嬢様だけでございます」
顔を上げた彼の瞳が、諦めたように揺れている。私は小さく息を吸い込み、逃げ場を無くすように彼の名をもう一度呼んだ。
「エリク」
「はい」
「貴方の世界の中心は、私よね?私が貴方を端正と言うならそうなの。私の世界なのだから」
余りにも傲慢な言い方だと自覚はある。しかし、お気に入りの従者である彼が自分を卑下するような言いようは、気持ちをムカムカとさせる。
エリクは、そんな主をただじっと見つめた。
「お嬢様の仰る世界は…私にとって都合が良すぎます」
「貴方はその世界に生き、存在していればいいの。他の誰も代わりにはなれないわ。」
完全に空になったグラスを置き、彼の目の前へと一歩、踏み込んだ。
私は、まだ冷たいままの自分の指先を、彼の大きな手の甲にそっと重ねた。
エリクは拒むこともできず、ただ私の指先の冷たさにじっと耐えるように、僅かに息を詰めている。
その様子を見つめながら、私の脳裏には先ほど彼が漏らした言葉が木霊していた。
『……したいか、と問われれば。ええ、したいですよ』
完璧な従者として育て上げた彼の中に、男としての本能は確かに生き残っていた。それを知ってしまった以上、私は考えざるを得ない。
私はエリクを大切に思っている。
いつか訪れるであろう彼の「恋人」や「結婚」という可能性を、主人の権力で理不尽に潰すわけにはいかないだろう。
けれど――と、私の胸は黒い感情に侵食されていく。
◇ ◇ ◇




