五分の我慢。
贈り物をどうするか、ワクワクと考えながらエリクの様子を窺う。
「それではお嬢様、屋敷に一度戻り準備を整えましょう。」
エリクはいつもの冷静な声音で、そう提案してきた。
学園帰りの身なりのまま、護衛も最小限で繁華街の雑貨店へ向かうのは、公爵令嬢としては軽率過ぎる。私は小さく頷き、馬車を一度屋敷へと向けさせた。
これは確実に、私の自室へ戻る事だろう…。
今日こそ、自立するわ…
馬車の心地よい揺れに身を任せながら、私は密かに拳を握りしめていた。やがて馬車は屋敷へと到着し、エリクを伴って自室へと向かう。
胸に飛び込んではダメ…
エリクを吸ってはダメ…
何度も何度も呪文のように言い聞かせる。
カチリ。
静かな音を立てて、自室の重厚な扉が閉まった。私の意思の強さを見せる時…。
視界の端で、エリクが後ろに控えている。いつも通り、私がいつ飛び込んできてもその衝撃を優しく受け止められるように…。
いつもなら、私は迷わずその胸へと顔を埋め、石鹸の香りを思い切り吸い込んでいただろう。
しかし、今日の私は違う。
「……」
ぐっと足に力を込め、その場に踏み止まる。
私はあえて彼から一歩距離を置くようにして、毅然とした態度で言い放った。
「今日はその胸を借りないわ。……私は、自立するの。言ったでしょう?」
エリクは何も言ってないのに、言われる前に自分に言い聞かせるように言葉にする。
本当は今すぐにでも、吸いたい衝動が波のように押し寄せ、奥歯を噛み締める。だって…今日だって疲れたのだ。何の癒しもない。
癒しが欲しい…。
エリクは、主を心配するような眼差しで瞬きをした。
私はふいと顔を背け、彼と視線を合わせないようにした。目を見てしまえば、その穏やかなブラウンの瞳に負けて、すぐに縋り付いてしまいそうだったから…。
だが、エリクは引き下がらなかった。
彼は音もなく一歩、私との距離を詰めてくる。
「お嬢様、自立を志されるのは大変素晴らしいことかと存じます。……ですが、お嬢様が思われている以上に心身を消耗しております。その御心をどう癒すと言うのですか?」
いつもは一歩引いている彼が、珍しく積極性を帯びていた。
「本日は特に、贈り物のことでお悩みのご様子でした。せめて、そのお疲れを癒してからでも、遅くはないのではございませんか?」
「くっ……い、いいえ、結構よ。私は疲れてなどいないわ」
エリクがわずかに上着の合わせを緩める。
そこから、私が何よりも求めている飾り気のない仄かな石鹸の香りと、彼自身の体温が混ざり合った落ち着く空気が私を誘う。
――っ、……!
「そうやって…従者が主を誘惑するのはどうなのかしら?」
「誘惑ではございません。主を案じているのです。お嬢様に自立はまだ早いのではないかと…」
私を甘やかすことが、彼の従者としての、あるいは彼自身の喜びであるかのように姿勢を崩さない。
「無理をなさる必要はございません。ここは私とお嬢様だけの空間でございます。誰も見てはおりません」
さらに一歩、彼が近づく。
その胸元が、私の目の前に迫る。温かい熱気が肌に伝わってくるようだ。
「だめ……私は、決めたのよ……」
身体が震える。
吸いたい。
触れたい。
あの地味で落ち着く広さに包まれて、安心したい。
必死に自分を律しようとする私と、どこまでも甘やかし誘おうとするエリク。視線と空気だけで交わされる、無言の攻防戦。
静まり返ったせいで、あらゆる外の雑音が耳に届く。それは、見た目の華やかな者たちが動き回る音。彼らの存在に感謝はするけれど、ジワジワとその気配に心が追い詰められていく。
そして目の前には、私を甘やかす従者が撫でられるのを待つ子犬のように佇んでいるのだ。
相手は大人の男。子犬に例えるなど…私の頭はどうかしている。
しかし。
それほど限界に達している…ということ。
これ以上、この焦らしに耐えられるほど、私の精神は強く出来ていなかった。今まで甘えきりだったのだから当然だ。
「――もうっ!エリクのせいだからね!!」
我慢の限界を迎えた私は、半ばやけくそ気味に、エリクの胸へと勢いよく飛び込んだ。
彼は、飛び込んできた私の背に、腕を回したり、親のように撫でるなどはしない。しかし、しっかりと受け止めてくれる。そこには静かな鼓動と体温が伝わってきた。
「すぅーーーーーっ! はぁ……! ああ、落ち着く……」
彼の服に顔を擦り付け、求めて止まなかったその香りを、肺がはち切れんばかりに深く深く吸い込む。
じわじわと身体の芯まで染み渡る温かさと安心感に、せき止められていた涙が出そうになるほど、心地が良かった。やはり、ここが私の唯一の居場所なのだ。
完全に敗北した私に、頭上からエリクの声が聞こえてきた。
「……五分、でございますね」
「何がよ……」
胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で抗議する。抗議しつつも「こうして会話をすると、吸う空気すべてがエリクの香りに満たされて満足度が高いわ…」と新たな発見をしていた。
「扉が閉まってから、お嬢様が私の胸に飛び込んでこられるまでの時間でございます。これまでは部屋に入って一分と持ちませんでしたから……本日は最長記録です。自立すると言うならば…急にやめるのではなく、こうして徐々に時間を空けてみるのは如何でしょうか」
その声音には、私の「自立」を阻んだことへの罪悪感など微塵もない。新しい提案として提示された内容も、最もそうに言いながら自立がいつになることか…と思わせる。
「よく我慢なさいました、お嬢様。」
「貴方が誘惑しなければもっと記録を延ばせたはずだわ……貴方がそうやって甘やかすから、私が駄目になるのよ」
「お嬢様は完璧な公爵令嬢にございます。こんなにも努力をするお嬢様が、安全地帯求めることは何もおかしいことではございません」
「その安全地帯が問題なのよ…」
文句を言いながらも、私は彼の衣服をぎゅっと掴み、さらに深くその胸へと身を委ねた。
当分の間、この心地よい場所から抜け出すことはできそうにない。
そんな敗北感を覚えながらも、私の心はこれ以上ないほどに、満たされていた。
◇ ◇ ◇
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