感性。
「ねぇ、エリク」
「はい、お嬢様」
彼は私の背中に手を添えたまま、短く応じた。その声には一切の澱みがない。
「私は……なんだか、取り返しのつかないことをした気分だわ」
「お言葉ですが、何のことでしょうか」
私は振り返って、彼を哀れむように見つめた。
「私は、エリクを女性の体で興奮できない身体にしてしまったのね。幼い頃からずっと、私という極上の素材を『管理対象』として扱わせすぎたせいで。……ごめんなさいね。私のせいで、貴方の真っ当な男性としての感性を潰してしまったわ」
「見慣れた」と言った彼への皮肉。
すると、エリクの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
霧深い湯殿のなか、地味な色の瞳がじわりと私を捉える。
「……私の感性を、案じてくださるのですか」
「ええ。だって、私を見ても何も感じないなんて。これでは、エリクがいつか恋をした時に困るでしょう?」
からかうように言う私に対し、エリクはゆっくりと視線を落とし、再び私の肌を拭い始めた。
その指先が、先ほどよりもわずかに強く、私の肌にその存在を刻みつける。
「私に恋は無縁でございます。この命はお嬢様と共にありますから」
「分からないわよ?親友のエナだって、親の決めた結婚などしないと息巻いていてデレデレだもの」
恋というものは何があるか分からないのである。
知らないけど。
「エナ様と私を同列に語られるのは、少々困ります。……私は、あの方のように器用ではございません」
エリクは淡々と答え、私の腕を優しく取った。石鹸を泡立て、指の隙間まで丁寧に洗っていく。その動作には一点の迷いも、不純な熱も混じっていないように見える。
「自ら見極め、勝ち取るのは貴族の特権。私のような根無し草には、恋を選ぶ自由も、否定する過去もございません。あるのはただ、お嬢様の傍という居場所だけです」
「……そんなつまらない人生を歩んでほしいとは思ってないのよ。」
彼が自分の人生のすべてを私に捧げていることは、痛いほど知っている。けれど、その献身があまりにも完璧すぎて、一人の男性としての「欲」を完全に削ぎ落としてしまったのだとしたら。
やはり私の罪は深いのではないか。
「もったいないわ。貴方、華やかさは無くても顔立ちは整っているし、何よりその身体だって、立派でしょう? 十九なら、街に出れば振り向く女性もいるはずだわ」
「私の容姿に対して整っているなどと言うのはお嬢様くらいでございます。女性が振り向くのは華やかな者に対してです。」
確かに、クラスでも縁談が多く舞い込む者は華やかだけれども。エリクの整った顔立ちを、華やかさがないだけで良く見えないのは勿体ないと感じる。
私はふと思い立ち、彼の腕を指先でつついてみた。燕尾服を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げたその腕には、しっかりとした筋肉が備わっている。すると、エリクは私の指を避けることもせず、むしろ自分からその腕を差し出すようにして静かに告げた。
「お嬢様。……もし私が、街の女性にその感情を向け、恋に落ちることを望まれるのであれば、そう命じてください。……今夜にでも一人の男として外の世界へ向かいましょう」
「……」
「それがお嬢様の望む『人間らしい真っ当な男』の姿であるならば。」
エリクの動きが完全に止まった。
湯気の中で、彼の地味な色合いの瞳がただ私を見つめている。
冗談でも、からかいでもない。
彼はいつだって、私の言葉を「命令」として受け取る。私が「そうね」と頷けば、今夜にでも女性のいる場所へ向かうのだろう。
私の為に。
「……そんな命令などするわけないでしょう?恋は…意図せずとも落ちるものなのだから。」
…知らないけれど。
私はたまらず視線を逸らし、お湯の中に肩まで沈み込んだ。
結局、私は彼がどこかへ行ってしまうことを、世界で一番恐れている。
「……左様でございますか」
「なに?実は不満なの?主の指示だから仕方なく、っていうていで夜の街へ繰り出したいのかしら」
「……まさか。滅相もございません。私はただ、お嬢様が私に『人間らしさ』を求められるのであれば、期待に応えねばと思ったまでです。従者として、お嬢様の望まぬ姿であることは許されません」
「……どこまでも優秀ね。面白くないわ」
私はお湯に顔を半分まで沈め、ぶくぶくと泡を立てた。なんだか、ひどく無力な気分だ。心地良いエリクの手に体をゆだねながら、ぼんやりと天井を見上げた。
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